めらめら

灰島 風

本編

『めらめら』


いたいと、生きてる気がするの。


私の脳裏には、そんな言葉がこびりついている。

それを聴いたのは、すっごく小さい頃だった。

幼稚園児とか、それくらい。

よく覚えてないけれど、そう言った誰かの言葉と、ごうごうと炎の燃える音だけが、その頃の記憶の全てだった。



ーーーーーーーーーーーーーーー



ぶすぶすぶす。


小学校への行き帰り。

そんな音がいつも聞こえていた。

決まって左の方だった。

長袖の女の子が、こちらを見ている。

鈍い私は気にも留めず、そのまま五年間を過ごしたが、六年生のある日、とうとう気になって、友達に尋ねてみた。


なんかさ、学校の行きと帰りにへんな音しない?

あと、後ろの方に女の子もいるよね。

あの子がぶすぶす言ってるのかな。


……彼女たちには聞こえていなかったらしい。

変な子だと思われていじめられるのも嫌だったから、その場は適当にごまかして、口を噤んだ。

でも、卒業証書を片手で受け取ってしまったときは、内心焦った。

だって、変な音がする左手で触るの、やだったから。



ーーーーーーーーーー



じりじりじり。


中学校への行き帰り。

そんな感覚がいつもあった。

もうさすがに鈍くない私は、いつもその感覚が気になっていた。

左腕が、ずっと熱い。

皮膚を焼かんと熱せられているような、真夏の太陽の下にいつもいるような感覚。

それを気にして、外出するときにはいつも長袖を着ていた。

誰にも打ち明けられないまま、異様な寒がりということで数ヶ月を過ごしたが、一年生のある日、とうとうクラスメイトから、それも、当時気になっていた男の子から尋ねられた。


「お前って、何でいっつも長袖なの?」


すっごく、寒がりなんだよ。


ふうん、と彼は言ったぎり、口を聞くことはなかった。

ただの興味本位からの質問だったらしい。

私は変な子だと思われて、いじめられこそしなかったものの、皆と微妙な距離が空いたまま、その中学校を後にした。

その頃から、左手でものに触るのはやめるようになった。

何かに触れたら、熱くなったこの手が爆発しちゃうんじゃないかって思ったから。

相変わらず、長袖を着た女の子が遠くからこちらを見ていた。



ーーーーー



めらめらめら。


もう、駄目だ。

高校への行き帰り。

そんな実感が私を襲った。

それはもうはっきりと、私の目に見えていた。

おかしな音に、おかしな感覚に苛まれ続けてすっかり過敏になった私の全神経は、誰にも見えず、誰も気にせず、誰にも感じることのできないものをはっきりと捉えていた。

炎だ。

燃えているんだ。私の左腕。

空気を焦がす音を立て、身を焼くような熱をもち、ただそこで燃える大きな炎。

黒い長袖のインナーの下で、じっとり汗をかいていた。

暑いからなのか、肝が冷えたからなのか、今の私には、最早判断がつかなかった。

誰かにこれを打ち明けたかった。けれど誰にも言えなかった。

高校生で初めてできた、愛しの彼氏に冗談まじりで話してみたこともあった。


「一人だけ常にエジプトにいるみたいじゃん。ウケるね」


ウケられた。あはは。そうだよね。笑えるよね。


「どうしたの急に? そういうところも好きだけど」


ありがとう、私も好き、とキスをした。

けれどそれぎり、私はその話をしなかった。

私の黒いインナーの下に、彼の暖かさは伝わらなかった。

程なくして、私たちは別れた。



炎は段々大きくなった。

私の視界の端っこで、ちかちかゆらゆら瞬いていた小さな小さな灯火は、日を追うごとに大きくなって、めらめらぎらぎら燃え出した。

すごく、怖い。恐ろしい。

自分が焼かれる夢を見た。

大きくなったその炎が、私の視界を覆い尽くす。

全部呑まれて、焼かれて、消えた。

私の世界が、ひとつ滅びた。


汗に塗れて飛び起きる。

緑の生地が抹茶色になるくらい、全身びしょびしょだ。

半袖が着れるのは、この部屋の中だけだった。



学校に通うのが憂鬱だ。

行きと帰りには、必ず炎に苛まれる。

左腕から燃え上がる炎は、また勢いを増している。

暑い。熱い。痛い。


痛い?


誰かに、話しかけられた気がした。


痛いの、嫌?


まただ。どこから?

声の主を探したが、右を見ても、燃えている左を見ても見つからない。

いらいらが募って、周りに人がいるのにもかかわらず、私は叫ぶ。


いやに決まってる。

これのせいで、一体どれだけ苦しんでいるか。

死んだ方がマシよ。

こんな思いをするくらいなら。


あのとき死ねばよかった。


その瞬間、頭に激痛が走る。

忘れていた、大切な何かを思い出せそうだった。

痛い。痛い。腕も、あたまも、こころも。


あのときっていつのこと?

分からない。思い出せない。思い出したくない。

思い出したい。


痛む頭の中をぐるぐると色んな考えが駆け回り、上ってくる胃の中身と共に、私は意識を手放す。


後ろから、足音が聞こえた。


ーーーーー


「やっと起きた!」

「心配したのよ……!」


霞む目をこらして見ると、そこには両親の安堵した顔があった。

そうか。私は通学路で叫んだあげく、吐いて気絶したんだ。


……ますます変な子だと思われちゃうな。


そんな私の心配をよそに、両親は色々と体調のことを聞いてくる。

簡単に返しながら、部屋を見渡す。

ああ、妙に落ち着くと思ったら。

ここはかかりつけの病院の一室だった。

右手には大きな窓があり、眼下には病院前の広場が。

左手には両親と、少し離れたところに医者が立っている。

いつのまにか、緑色をした病院着に着替えさせられているところを見ると、きっと制服は吐瀉物まみれだったのだろう。

洗ってくれるお母さんには、少しばかり申し訳ない。


私は、燃える腕のことでここに通院している。

もちろん、他の人には腕が燃えてるなんて言えるわけもないけれど、ここにくると、不思議と腕の炎が落ち着くのだ。

もう左腕を重苦しく、煩わしく思う必要もなく、心も身体も軽くなった心地がする。


いくぶんか楽になり、すっきりとした頭で、今朝のことを考える。

私は何を思い出そうとしたのだろう。

それを考えると、まだ少し頭が痛む。

それじゃあ、気を失う寸前に聞いた足音は?


……思えば、小学校の頃からずっと、気がつけば左腕から聞こえるぶすぶすという音と共に、遠くからこちらを見ている女の子がいた。

振り返るといつもそこにいるから、近所の子なんだろうと思っていた。

小学生の自分から見ると、少しお姉さんかな、くらいの年だった。


でも、おかしい。

いつも同じ服で、いつまでも同じ背格好。

見かけるのは決まって通学路。


その子がそこにいることが、いつの間にか当たり前になっていたけれど……


じゃあ、あのときの声って?

そうだ。腕の燻りが熱に、熱が火に、そしてそれが炎になるにつれて、彼女との距離も近づいていった。

それで、とうとう声が聞こえる距離まで来たんだ。

会話ができる距離に。

そして、倒れた私のもとまでも。


今、彼女はどこにいるの?


冷や汗がどっと出てきた。

悪寒もする。

痛い。左腕が痛い。

そうだ。そろそろ腕が焦げ付いてくる。熱をもって、ひび割れて、そこから炎が吹き出してくるんだ。


「ミズキ!」

「大丈夫!?」


苦痛に呻く私に、医者と話していた両親が心配そうに寄ってくる。

背中をさすってくれるお母さんと、水を持ってくるお父さん。

でも今は、痛くて、熱くて、二人のことなんて気にしていられない。

少しでもこの痛みから逃れようとして、左腕を思い切り振るう。

まずい、と思ったけれど、腕はお父さんには当たらなかった。


その直後、お父さんが薬を差し出し、水と一緒に飲むよう促す。

コップも掴めない私は、お父さんに手伝ってもらってやっと薬を飲むことができた。


よかった。落ち着いてきた。

痛みも、炎も治まってる。

でも、相変わらず頭は少し痛む。

あの女の子は、一体誰なんだろう。

怖い。何が?あの子が?それとも、別のことが?


……それでも、知りたい。あの女の子のことと、この炎の幻覚。何か関係があるかもしれない。


心的ストレスがどうとか、医者は今回の原因について長々と話していたけれど、私は全く聞いていなかった。

あの子のことをどうやって調べようか。

それで頭がいっぱいだった。


帰りの車の中。

後部座席で窓の外を見ながら、私は両親に女の子のことを聞いてみた。


小さい頃の私、女の子が見えるって言ってなかった?


不思議そうな顔をする両親に、その子の特徴をそのまま伝える。服装、髪型……顔は、遠目には分からなかったけれど。

話しているうちに、みるみる両親の顔が驚きに満ちていくのがわかった。


重苦しい沈黙が続く。やがて、意を決したように口を開いたのはお母さんだった。


「その子……カスミちゃんよ、多分」


お父さんは、眉間にしわを寄せて真っ直ぐ前を見つめている。


カスミちゃん?


カスミちゃんって……誰?


目の前が、ぐわんと揺れる。



ーーーーーーーーーーーーーーー



「ミズキちゃん」


「なあに? カスミちゃん」


カスミちゃんはとても頭の良い女の子だった。

知識欲や好奇心が強く、沢山の本を読み、色々なことを知っていた。

私よりも五つ歳上の、近所に住むお姉ちゃん。

カスミちゃんの言うことは難しくて、ときどき分からないものもあったけれど、私はそんなカスミちゃんを尊敬していたし、大好きだった。

家族ぐるみの付き合いがあり、互いの家に遊びに行ったり、一緒にご飯を食べたりしたこともある。


一緒に遊ぶとき、カスミちゃんはいつも私に"授業"をしてくれた。

彼女が読んだ本を基に、色々なことを教えてくれる。先生ごっこみたいなものだ。

その最中、カスミちゃんがこんなことを言い出した。


「いたい、って、人体のきけん信号なんだって」


「なあに、それ?」


「いたいーってなるってことは、やらない方がいいよーって、体が教えてくれてるよってこと」


その手には『人体のふしぎ』という本が握られていた。


「ふうん。じゃあ、いたいって、わるいことなんだね」


「ふつうはそうかもね。けど、わたしはちがうと思うんだ」


そのときのカスミちゃんは、いつもよりうんとお姉さんに見えた気がした。

彼女は目を細めて、遠くを見ているような表情でこう言った。


「いたいと、生きてる気がするの。いやなことがちょこっとだけわすれられるんだ」


カスミちゃんはぎゅっと本を抱いて、ほんの一瞬だけ、すごく哀しそうな顔をした。

私は何だかさみしくなって、カスミちゃんに抱きついて、頭を撫でた。


「ないてるの? カスミちゃん」


「んーん、だいじょぶだよ。……でも、このままじゃだめだよね」


そう言うと、カスミちゃんはこっちを向き直った。


「もしかしたらミズキちゃんには、まだ分からないかもしれないけどね」


そうことわってから、自分がいじめられていること。辛くて自殺を考えていること。お父さんにもお母さんにも、心配をかけたくなくて言えないこと。隣の家の子が主犯格だから、もしかするとカスミちゃんと仲良くしている私まで標的になってしまうかもしれないことを教えてくれた。

だから、もう会わないようにしよう。カスミちゃんは涙をこらえてそう言った。

そしたら私も涙が出てきて、絶対離れない。ずっとずっとカスミちゃんと一緒がいい。いなくならないで、そばにいて。

そう言うと、カスミちゃんは頷いて、そのまま二人で抱き合って泣いた。


その夜のことだった。

その日、お父さんとお母さんはお仕事でどうしても家に居られなかったから、私はカスミちゃんの家にお泊りに行っていた。

二階にあるカスミちゃんの部屋で、二人並んで寝ていると、瞼の向こうが、何だかちらちらと明るい。


ぶすぶすぶす。


変な音も聞こえる。


じりじりじり。


段々熱くなる。


めらめらめら。


眠気に目を擦りながら見てみると、そこには大きな炎があった。


「カスミちゃん! おきて!」


急いで隣のカスミちゃんを起こす。

起きた彼女も、一瞬状況を理解するのに時間がかかったようだが、すぐに私の手をとると、一目散に一階に向かって走り出した。

しかし、下はもう火の海だった。


さっきまで真っ暗だったのに、急に昼間みたいに明るくなって、目の前で火が揺れている。


二人とも立ち尽くした。

すると、めりめりという音と共に、天井が落ちてくる。カスミちゃんが私を突き飛ばした。


それから先は、まだ思い出せなかった。



ーーーーーーーーーーーーーーー



「隣の家が火元だったみたいなんだが……そっちは全焼、一家三人とも亡くなったみたいだ。でもね、カスミちゃんの家の方は……お前だけは、カスミちゃんが助けてくれたんだよ」


「カスミちゃんのお父さんとお母さんは火事でそのまま亡くなって、病院にはカスミちゃんとあんたが運び込まれたの」


両親が言うには、カスミちゃんはそのとき、全身の火傷や落下した天井の一部で酷い怪我を負っていたらしい。私も同じように、左腕や内臓の一部がめちゃくちゃになっていたけど、カスミちゃんほどじゃなかった。

彼女は、地獄の苦しみの中で一瞬だけ意識を取り戻したときに、医者にこう言ったらしい。


「わたしはどうなってもいいから、ミズキちゃんだけはたすけてあげてください」


ああ。そうだ。

ぜんぶ、思い出した。



私のこの腕は、カスミちゃんのものだったんだ。



医者は、腕の熱さや痛みを、心因性の幻肢痛に似た症状だと言っていた。

拒絶反応もなく、術後の経過も安定していた筈なのに、ろくに動かない左腕。

事件のトラウマで、その時の記憶の殆どを封じ込めた私の脳が、心が、カスミちゃんの死や私の罪悪感と向き合おうとした結果。

自分自身にずっと痛みを与え続けて、辛いことを忘れようとしてたんだ。

自分が生きていることを実感しようとしてたんだ。


そしてそんな私を、ずっと、カスミちゃんは見守っててくれたんだ。


私は泣いた。ぼろぼろ泣いた。

お父さんもお母さんも、これまできっと、カスミちゃんのことを蒸し返すとどうなるか、ずっと不安だったんだろう。最初こそ不安げに私を見ていたけれど、私がカスミちゃんの名前を呼びながら、ありがとう、ごめんね、ありがとう、と繰り返すうち、二人も一緒になって泣いていた。


車はいつのまにか自宅に着いていて、顔をくしゃくしゃにした三人の家族が、泣きながら家に入っていった。



ーーーーー



「行ってきます」


カスミちゃんの仏壇に手を合わせる。

あの後、左腕はすっかり動くようになって、今では元々あった自分の腕のようだ。


カスミちゃんの声は、今でもたまに聞こえる……気がする。

幻覚や幻聴かもしれないけれど、カスミちゃんはずっと一緒なんだもん。

今じゃ顔もはっきり見える。

振り返ると、カスミちゃんがにっこり笑って手を振っている。

こっちも笑って手を振り返す。


もう怯えなくてもいいんだ。

カスミちゃんが、私の大好きなお姉ちゃんが。

振り返れば、いつもそこにいるから。




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