鏡像と、反転

梅雨乃うた

鏡像と、反転

「やあ」

背中越しに、聞き慣れた声がする。

通学途中の電車の中。ローカル線なせいか乗客も少なく、座席もほとんどが空席。

正面に見える車窓では深い緑色の木々が、電車にしては遅い速度で流れていく。

最初のうちはこうやって声を掛けられることに戸惑っていたが、慣れとは怖いもので今では何とも思わない。

――今日はなに?――

私は座席に座ったまま声に出さずに答える。

彼女、と呼んでいいものかは分からないが、この声が私に話しかけてくるようになって一週間ほど。

当然、私の背中側にあるものと言ったら薄汚れた窓の硝子とその先の暑苦しい景色だけなので、普通に考えれば後ろから話しかけられるという事はあり得ない。

けれど、硝子の中の彼女に向かってそのようなことを言っても消えてくれるわけではないので、いくら気味が悪くとも私は彼女の存在を受け入れざるを得ない。

「安心してくれ、君を害するつもりは無いさ。ところで、今日もいつもとおんなじかい」

勝手に思考を読み取っての返答に、いつもと同じ問いかけ。

丁度トンネルに入ったところで、鏡のようになった向かい側の窓硝子に、くるりと振り向く私の「鏡像」が映る。

私の顔で、私の声で、私にだけ聞こえるように喋るその「鏡像」は、経験則的に私が直接その「鏡像」を見ていないときに現れる。

毎日の通学時のみならず、風呂場や、洗面所、カーブミラー、コンビニの硝子でさえ。

――そう。毎日おんなじ。学校に行って、授業を受けて、部活をして、帰る――

そのせいで、鏡を見るとまじまじと見つめる癖がついてしまったが、電車ではそういう訳にもいかないのでこの時間は毎日彼女と話す時間になった。とは言え、毎日話すことは同じ。

今のところ、考えていることが筒抜けである以外は何か害がある訳ではないのが幸いか。その読心能力じみた現象も、声を出さずに会話できるという点ではむしろ助かっている。

「いつもそれで飽きないのかい」

こんな明らかに気味の悪い存在なのに無視できないのは、これが自分の声と顔をしているからだろうか。この「鏡像」という状態が彼女の本質なのか、あるいは擬態のような物なのかは分からない。

――飽きるよ。毎日毎日おんなじだし、学校もぼーっとしてたら終わるし――

何で今日に限っていつもと違う答えをしたのかは分からない。自分と同じ姿と声をした「鏡像」と一週間も毎日話していたのだから、どこか親近感を覚えてしまったのか。

「そうだろう。毎日おんなじだと飽きるものさ」

丁度「鏡像」がそう言うのと同時に電車が止まり、空いたすぐ脇の扉から近くの中学校の制服を着た学生が乗り込んでくる。

お洒落のつもりなのか薄桃色のマスクに、王道といった様子のセーラー服。ポケットに手を突っ込んでいるベージュのカーディガンは私物だろう。

私が中学の頃はあんなお洒落をしていただろうかと思って記憶を漁ってみるが、特に服装については思い出せなかった。まあ、何にもしていなかったという事だろう。

――あの子は飽きてないのかな――

話しかけたつもりではなかったのに、「鏡像」は律義に反応する。

「飽きてはいないさ。少なくとも君よりはね」

はあ、と溜息と共に顔を膝に抱えた鞄に埋めると、「鏡像」にしては珍しく、私の返事を待たずに次の言葉が続いた。

「君も、そろそろ新しい刺激が欲しいだろう」

気味の悪い声が言うには、この上なく似合う怪しげな言葉だろう。

けれど、私はそうは感じないほどに、この「鏡像」に自分というものを重ねていたらしい。もしかしたら、自分の深層心理の表れだとでも思っていたのかもしれない。

「君が言う昨日の部活動、何をしていたか思い出してごらん」

思い出せと言われて、抗う事は難しい。意識した時点で、脳は勝手に検索を開始する。

そこで、違和感があった。

前日の夕食が思い出せない、と言うのはよくある話だろう。では、前日やった部活の事が思い出せない、と言うのはよくある話だろうか。

勿論、綺麗さっぱり思い出せないわけではない。大体の事は覚えている。しかし、焦点の外れた写真のように、ある点から記憶の解像度が不自然に、一切上がらない。

昨日の授業の事なら思い出せる。時間割から、教師の言った下らない冗談まで、鮮明に。

「一昨日はどうだい。先一昨日は。一週間前は。一か月前は」

抗う間もなく、脳が記憶を漁り始める。一昨日、先一昨日、一週間前、一か月前。

どれも同じだった。一定以上の解像度にはならない。

逆に言えば、一か月前の事でもその解像度まではきちんと思い出せる。昨日の事も、一か月前の事も同様に。

体の前で鞄を抱える手に力が入る。昨日潰れた肉刺が痛むが、その痛みを求めて更に強く、その鞄の手触りを確かめるように掴みなおす。

「これでも、毎日に飽きたというかい。この均質な毎日に」

深呼吸をして、息を整える。ただ、ちょっと忘れただけだ。最近の事を覚えてなくて、昔の事を覚えてるというのだってそこまで不自然な話ではない。一晩で記憶が劣化して、そこから先は劣化しきったから一か月たっても変わっていないというだけだろう。

呼吸が落ち着くと、自然と精神も落ち着く。

どうやら、私は相当この毎日に飽きてきているらしい。珍しくもない事に妙な言いがかりをつけて勝手に怯えるあたり、相当だ。

――ありがとう、いい気分転換になったよ――

背中越しの窓の中の「もう一人の私」に向かって皮肉も込めて心の中で呟く。

それで今日の通学路のちょっとしたイベントは終わった、はずだった。

「君の部活の、部長の名前は何だい?部員の名前は?先輩の名前は?後輩の名前は?」

薄く笑うような響きを持たせて、「鏡像」が更に問いかける。

――そりゃあ、――

今度こそ、喉が干上がった。

部長は部長だし、先輩は先輩。それ以上の情報が出てこない。顔もモザイクがかかったように不鮮明で、誰かと遊んだりした覚えもない。

頭痛がした。比喩ではなく、文字通りの。今度こそ誤魔化しようが無い。

明らかに、部活動の所だけ記憶が不鮮明すぎる。

左右を見まわして、硝子の無いところを探すが、ローカル線の狭い車内に窓から逃れられるような場所は無い。

――なにか、したの?――

まだ、この存在が「もう一人の私」だと心のどこかで信じている私が、その答えを「鏡像」に求める。

答えはシンプルだった。

「言ったじゃないか。君を害するつもりは無いと。私は何もしていないさ」

自分の声色でこんな声が出せるのかと疑うほど、飄々とした返事。

――じゃあ、なんで?――

問いかけておきながら、どんな答えを求めていたのかは自分では分からない。けれど、帰ってきた答えが求めていたそれではなかった事は明らかだった。

「それは全部君の仕業さ」

ドン、という音と共に列車が再びトンネルに入る。

硝子の中ではなく、頭の中のどこかにいる私が、それ以上聞くなと叫ぶ。

反射的に耳を塞ぐが、頭の中に直接語り掛けるような、私と同じ声は、変わらずに鳴り響く。

「答え合わせをしたいかい。なら、君の抱えるそれを開けてみればいい」

答え合わせ、と言われて私が真っ先に求めたのは部活の存在を示すものだった。不鮮明な記憶を裏付けてくれるものだった。だから、鞄の中に何かその記憶を確かにしてくれるものがあるのではないかと、ゆっくりとそのファスナーを開いた。

「それが答えさ」

鞄の中で異様な存在感を放つそれは、明らかに部活という言葉には不釣り合いな物だった。

吸い込まれるように、私は鞄の中に右手を入れ、それを掴む。

くたびれた教科書の上で、蛍光灯の光を反射して鈍い輝きを放つその裁ち鋏は、まるで長年使ってきた仕事道具のように、私の手にぴったりと合った。昨日潰れた肉刺やまだ潰れていない他の肉刺も、その道具が私の手にあるべきものであることを告げている。

ゆっくりと刃を開くと、明らかに錆とは違う茶色があった。

左手の指で軽くつつくと、茶色い滓のような物が指先についた。

「先輩も後輩も部長も部員も、いる訳が無いじゃないか」

後ろから頭の中に直接聞こえるその声が、妙に遠くに聞こえた。

「それが君の「部活動」だろう」

その鋏で、布を切って何を作るのかは全く分からない。針で布を縫う方法だって分からない。

けれども、その鋏で人のどこを突けばどれだけの血が流れ、どこを裂けばどれだけの肉が見え、どこを突けば死なずに叫び声を挙げさせられるのか、そう言った吐き気を催すような情報ばかりが頭の中から湧き出てくる。

顔を上げると、この暑い夏の日に、ベージュのカーディガンで肌を隠した少女と目が合った。

その薄桃色のマスクの下の顔が、何故か私には分かった。ポケットから出てきた左手の薬指に茶色く何かが滲んだ包帯が巻いてあったのを見ても、何故か驚きは無かった。

「君の「部活動」には、君しかいないだろう」

同じ車両に乗っていた他の数人の乗客も、こちらを見ているような気がした。

「君のその中途半端な記憶は、君が勝手に作り上げたものさ。普段は忘れておきたい記憶の代替物として」

正面の彼女の鞄の鞄の中で、不自然な形に盛り上がっている細長い物は何だろう。

車両の隅に座る男子生徒は、なぜ晴れなのに骨の折れたビニール傘を持っているのだろう。

「どうだい、自分の本当の「日常」を知った気分は。退屈はまぎれたんじゃないかい」

無意識のうちに、右手がその裁ち鋏を強く握りしめる。その切れ味を、頭が勝手に想像する。

「もう、自分が放課後にその鋏で何をしていたかは分かっているだろう」

掌の感覚が、それでいいと告げる。もはや、否定できる材料はどこにも無かった。

――なにがしたいの――

ふっと、「鏡像」が小さく笑ったような気がした。

「言っただろう。私、は、君に危害を加えない」

背筋を冷たい指でなぞられたような感覚に、思わず背中側の窓硝子を振り返る。

そこに映っているのは、怯えたような、そしてどこか薄ら笑いを浮かべたような私の顏と。

そのすぐ後ろで徐に立ち上がる、カーディガンを着た、傷と痣だらけの顔をした少女。

牙を研ぎ続けた窮鼠と、爪の埋もれた猫。狩人と獲物が、逆転する。

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