第35話 眠り
◆
案内されたのはいつかの東屋のある庭だったが、リイはそこに腰掛けてはいない。
狭い中庭の、それでも剣を振れる空間に立って、刀を構えていた。導いてきた剣士は無言で、足音さえも忍ばせて離れていった。
呼吸を細くして見ていても、リイは動こうとしない。
刀に月の光が伝わるように筋になっているが、その光が全く動かない。
動きに力を込めること、動きを早くすること、それもまた重要な要素ではあるが、本当の使い手は動きを止める技能を持つことを、経験上、よく知っている。
リイがゆっくりと動き始める。上段の構えになり、振りかぶるようにして、また動きが止まる。
誰も触れていない、風で揺れてさえいない樹木の葉が一枚、枝を離れた。
光が爆ぜる。
「ああ、スマか」
姿勢を緩めたリイがこちらを見やる。
足元には二つに切れた葉が落ちていた。あの一瞬で、葉を切ったのか。
葉を切ることなど、実戦の剣術では使える技ではない。
しかしあの一瞬、ほんのかすかな気配に刹那で反応する技量は、甘く見るわけにはいかない。
「見事な筋でした」
おだてるつもりもないが、そんなことを言うと、リイが笑みを見せる。
「実戦では使えないな。そう思っている顔だよ、スマもな」
「失礼しました。集中力が見事でした」
「ああ、それはなるほど、いい表現だ」
珍しいことに今日のリイはあまり酒を飲んでいないようだ。匂いでわかる。
「何をしに屋敷に来た? マサジ様からは、女子の代わりに渡した銭を突き返した、と聞いているが。まさか今更、銭のために来たわけでもないだろう?」
「ええ、銭のためではありません。その女子がミツというのですが、会えるかと思いましたが、マサジ様にはその気はないようでした」
「それで俺のところへ来たのか?」
よかろう、とリイが手招く。ありがとうございます、と頭を下げるうちに、リイは屋敷へ上がっていく。後を追った。
「あの娘が本当にノヤ殿を殺したのかな。スマは見ていたのだろう?」
静まり返った廊下を歩きながら、こちらも見ずにそんな疑問が向けられる。
「殺したことには殺したのですが、毒でした」
「毒?」
「どこかからやってきた剣士がまず、ノヤ殿と向かい合ったのですが、剣術の神に正々堂々と戦うことを誓おう、と言い出したのです。そして酒を酌み交わしてから、決闘を始めることになりました」
「剣術の神? 初めて聞いた」
同じくです、と答えると、リイが唸るような声を出した。
「酒に毒が入っていて、どこぞの剣士は酒を飲むふりだけをして、ノヤ殿はまともに酒を飲んだ。そういうことか?」
「すっかり騙されました。それでも毒が効くまでの間に、ノヤ殿は相手を切りました。しかしもう動けないというところで、見物の人垣からミツ殿の兄が飛び出し、短刀でノヤ殿を刺しました。ノヤ殿は倒れ、それが致命傷でした」
「下手人は誰が殺した? スマか?」
「ミツ殿が、兄の持っていた短刀でその兄を殺した後、自分は毒入りの酒を煽りました。その毒で今も、意識が戻らないのです」
少しの沈黙の後、くだらん話だ、とリイが吐き棄るように言う。
「なぜ、ノヤ殿は剣術の神などという世迷言を、信じたのかな」
「ヒロテツ殿との決闘のせいだと思います」
ああ、それは、と呟いてから、リイが舌打ちをする。
「あの目潰しが負い目になったか。くだらんことだ。本当にくだらない」
廊下に面した障子を開け、そこへリイが入っていく。中で会話が聞こえ、少し待っていると室内から少年が二人出てきて、こちらに頭を下げて廊下を去っていく。
「入ってこいよ。見張りは当分、やってこない」
部屋に入ると布団の上にミツが寝かされているのが、灯りの中で見えた。リイはまっすぐに立ったままで、その少女を見ている。
「毒をあおって死のうとするとは、立派といえば立派。ヒロテツ殿の血を引いているのだな」
そんなことを言うリイに頭を下げ、そっとミツの額に手を置いてみる。
苦しげな様子ではないし、汗をかいてもいない。額は変にひんやりとしている。
口元に手を当てると、呼吸はしているが、緩慢だ。
「屋敷には医者がいる。そう心配することもあるまい」
リイが声をかけてくるが、その時は脈拍を確認していて答える余地がなかった。脈は遅いが途切れず、とりあえずは生きていけることはわかる。
「マサジ様でもこんな死体みたいな娘にどうこうすることもあるまいよ。それより酒でも飲まないか? マサエイ様から譲られた逸品があるのだ」
じっと腰を上げようとしないのに呆れた様子で、リイが背後でため息を吐く。
その向こうで、どこかで人が騒ぐ声がする。マサジたちの宴が始まったらしい。
シユは本当にマサジを殺すだろうか。殺そうとして、成功するだろうか。
「何を考えている? スマ」
いえ、と応じて立ち上がった。
薄暗いとはいえ、リイの視線は鋭すぎる。
これだけの殺気は、視線を見ずとも、正対せずとも、理解できる。
「何を考えている?」
問いが繰り返され、わざと雰囲気を和らげてみせる。
「この娘をどうにか、逃がしたいと思っていました」
「それだけか?」
「他に何がありますか?」
リイの姿勢は棒立ちに見えて、いつでも動けるように足の位置が加減されている。
こちらも似たようなものだ。
空気が張り詰め、すっとリイの方からそれを緩めた。
「酒だ、酒、こんなところでいがみ合う理由もない」
部屋を先にリイが出て行くので、後を追った。それでも障子を閉める前に、もう一度、横になっているミツを見た。
生きているのだ。
それだけでもいいではないか。
障子を閉めて、廊下の先を行くリイに、足早に続いた。
遠くで嬌声と歓声が上がる。
(続く)
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