第34話 思案
◆
旅籠へ戻った時には昼前で、一階の座敷で腹一杯に朝食と昼食をまとめて済ませ、部屋に上がった。
自分で布団を敷いて、横になる。いつかのシユが残していったのか、不思議な匂いがする。忘れることにしよう。
横になった後、一度、寝返りを打った時にはもう眠っていた。
どこかから笑い声が聞こえる。一階か。
目を開くと、全身が強張っていて、夕日が開けっ放しにしていた雨戸の向こうに見えた。半日は眠っていたようだ。疲れもおおよそ取れているが、深く眠りすぎたかもしれない。
起き上がって体を曲げたり伸ばしたりして、風呂に行くことにした。この街では内風呂が当たり前なので、おおよそいつでも入れる。
夕方とはいえ、早すぎたせいか待つこともなく、さっさと体を洗い、温まって、出た。
座敷ですでに酒を飲んでいる四人組がいて、先ほどの笑い声の主は彼らだ。どこか近くの村からやってきた農民のような身なりだった。野菜か何かを運んできたのかもしれない。みんなが揃って日に焼けて肌が真っ黒だから、そう思っただけだが。
空いている席に腰を下ろすと、女給がやってきて、注文を聞いて下がっていく。
さて、どうするべきだろう。
やっと考え始めたができることは一つしかない。オリカミ屋敷に紛れ込むのだ。ただし、こうなってしまうと、マサジの手下が持ってきた巾着を受け取らなかったのが、果たして、良かった、悪かったか。
丼が運ばれてきて、礼を言って受け取る。なんでもない鶏肉と卵を煮たものが雑穀にかかっている。煮汁の味が濃いので、雑穀の味はほとんどしない。スルスルと食べれるので、ここではいつもこれにしていた。
「あの女性はもう来られないのですか?」
食事の途中で、通りかかった先ほどとは違う女給、やや年を取っているように見えるものが、声をかけてきた。
「もう会わないそうです」
「それはまた」口元を隠しながら、女中が笑う。「お侍さんも、隅に置けませんね」
何が隅に置けないのかはわからないが、笑っておけばこういう時はやり過ごせる。
食事が終わり、銭を払い、身支度を整えて外へ出た。
さて、と通りを前にして、薄暗くなっていく街並みを眺めて、考えた。
やはり、オリカミ屋敷しかない。
通りをまっすぐに進み、大通りに出れば、あとは一直線にオリカミ屋敷にぶつかる。
門衛の間を抜けようとするが、通してくれるわけもなく、二人の体格のいい男が棒を交差させて、いく手を塞いだ。
「マサジ様にお話があって参りました。お取次を」
「名乗られよ」
「スマと申します」
一人の門衛が奥へ駆けていき、こちらは残った一人と向かい合って待つしかない。
どれほど待ったか、周囲が暗くなったなと思った時に門衛が戻ってきた。
「入って良いそうだ。マサジ様がお会いになる」
「かたじけない」
頭を下げて、二人の前を抜けて屋敷へ入った。建物に上がろうとしたところで、見知らぬ剣士が待ち構えおり、裏へ、と小さな声で言った。往来だったら聞こえないくらいの声だ。
案内されて屋敷と塀の隙間のようなところを抜けていく。
マサジが会うと言った、と門衛が口にしたから、何かを企んではいるのだろう。屋敷に入れる程度は問題ない、という判断なのか。
何を考えているのだろう。
裏庭に抜け、建物の間を進み、渡り廊下が高い位置にあるのをくぐると、そこはやはり中庭だった。
「おお、来たな、スマ」
片肌を脱いで木刀を振っているのはマサジだ。汗が光っているのは、暮れかかった弱い光でもわかる。
構えを解いて、小姓から手ぬぐいを受け取り、体を拭う。
「なぜ、銭を受け取らなかった? 今さら銭が惜しくなり、受け取ろうという魂胆か?」
「ミツ殿をどうされるおつもりか、聞きに参りました」
「ミツの事はハカリから聞いていたのでな、美しい娘だと。その通りだった」
嬉しそうに笑いながら、マサジは木刀で肩を叩いている。ミツとタルサカと彼の間に密約があったかは、はっきりしない。
手ぬぐいを弄びながら、若者が嬉しそうに喋る。
「意識がないのではつまらぬが、女は女、面白いことには面白い。それに目が覚めるやもしれないしな。何か、辱めるようなことでもしてみればな」
下卑た笑い声を隠そうともしない若者は、怒りを感じるよりも、あまりに品がないがためにいっそ哀れな様子にも思えるのだった。
こんな人間が人の上に立つような立場になるのだから、なるほど、マサエイやリイが見ている通り、オリカミ家も長くはないだろう。
ここで今、マサジを殺さなくとも、いずれは潰える。
潰えないものはないのが世の常でも、延命できるものがあり、一方で延命ができないどころか、進んで奈落へ落ちるものもいる。
マサエイには不憫なことながら、マサジはまさに、崖っぷちでそうと知らずに遊んでいるようなものだった。
「なんだ? スマ、おかしくないのか。それともお前は、ミツに恋情でも抱いていたのか?」
「ほんのつい先頃に初めて会ったばかりですから、それはございません」
「ではなぜ、そこまで必死になる。ヒロテツの娘だからか」
そんなことは関係ないのだ。
ただのけじめをつけたいだけのこと。
誰の子であれ、誰の妹であれ、ミツはミツである。
それはノヤもシユも同じこと。
善良な人間がいる一方で、救いようないものがいる。
なぜ、マサジはこちらの腰にある剣を取り上げなかったか。中庭には、マサジが無防備にいて、ここまで案内した剣士が少し離れて立っているだけ。
ここでマサジを斬り殺せば、何かが変わるだろうか。
「今日はな」
腰の剣に手を伸ばす時を間近に感じた時、マサジがあくびまじりに言った。
「遊女を何人か呼んで、酒を飲んで過ごす。スマ、お前はどうする? 座に加えても良い」
どう答えるべきか迷い、しかしすぐに、答えは出た。
「酒は不得手ですし、場の空気を壊すのも気が引けます。リイ殿とお話ししたいことがあります」
ふむ、とマサジが頷く。
そして彼はあっさりと去っていて、こちらは背後にいた剣士の案内で、さらに屋敷の中へ進むことになった。
既にとっぷりと、日は暮れていた。
(続く)
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