第26話 血筋
◆
リイに連れられて、中庭の一つにある形だけの東屋の中に落ち着いた。
「この屋敷には中庭が五つもあってな、まぁ、マサエイ様の趣味もわからんよ」
言いながらも彼は酒瓶から直接に酒を飲んでいる。酒気が夜の空気に乗って流れてくる。
「それにしてもスマ殿も、今日は血色が良いな」
「なんですって?」
「女と同衾でもしたのかな」
笑って誤魔化すつもりが、笑ってみれば逆に認めたようなものだ。リイの方は構わず笑っている。
「男とはそんなもの。しかし、あの部屋に混ざらない程度には分別がある。それは立派だな」
「私は客ではありませんし、マサジ様とも親しくありません」
「あのお人はそんなことは気にしないな」
その一言には批判の響きがあり、薄暗がりの中でそっと伺うが、彼はそっぽを向いていた。しかし口は開く。
「どうせ今頃、女郎もその付き添いも含めて、マサジ様もその取り巻きも、一緒くたになって、ぐちゃぐちゃ混ざっていることだろうよ。醜いとしか言えない光景だ。それが権力を持つものの特権の一つと思えば、権力などどこまでも汚れているものなのだな」
どう答えることもできずにいると、こちらにリイが向き直った。屋敷から届く光の中で、白い歯が光る。
「ノヤ殿はどうしているようかな。そなたを切ろうとしたはずだが」
「和解、とは言えませんが、その、誤解は解けたように思います」
「実はな、スマ殿。あの時、私としてはスマ殿とノヤ殿が共倒れになるのを、狙っていたのだよ」
共倒れ?
妙な話だ。二人が共倒れになって、リイが得をするだろうか。リイでなければ、誰かが得をするのか。
ジッと見据えると、リイからも視線が向かってくる。見えないはずなのに、眼差しの気配は強い。
「スマ殿は、タキ殿のことはご存知か」
「タキ殿?」
意外な名前だった。
「噂では耳にしております。マサエイ様の、前の奥方だとか」
「生きていると聞いたら、どう思う?」
その言葉で、状況が途端に不鮮明になり、先が見えなくなった。
タキは死んだはずだし、いつか、マサエイもそう言ったはずだ。
いや、しかし、死んだと言っただろうか。思い出せない。しかし生きているとして、どこで生きている? 離縁して、故郷に戻されたという雰囲気でもなかった。
まさか、牢に繋がれているのは事実か。
そうとは思えないが、さらに踏み込めば、後妻のイトが前妻のタキの身内を皆殺しにしたのは事実だろうから、その手がタキ自身に向かない理由がない。
牢に繋ぐのが温情とは思えない。むしろそういう処刑の様相もある。
「生きているのですか?」
唐突に自分たちを取り囲む狂気じみた空気を感じながら、訊ねてみた。リイは一度、酒瓶を傾け、うむ、と笑い混じりに言った。
「生きているという話だ。この屋敷の地下牢でな。もう十年以上を、そこで過ごしているらしい」
地下牢というものには、旅の途中で短い時間とはいえ閉じ込められたことがある。誤解によるものですぐに釈放されたが、ほんの数日でも息苦しく、正気を失うのではないかと感じた。
そんなところに十年以上に入れられて、果たして気が狂わないものだろうか。気が狂わなくとも、体が無事ではないだろう。足腰は立たなくなり、目は衰えるはず。
「どなたから聞いたのですか?」
「母だ」
「母?」
「イトだよ」
衝撃は遅れてやってきた。
イトというのは、つまりマサジの母親で、では、マサジとリイは兄弟なのか。リイの方がいくらか年上に見えるから兄なのだろうが、しかし、そうなれば……。
ゆっくりとした口調で、リイが話を先に進めた。
「俺はイトがマサエイ様に嫁ぐ前に産んだ子なのだよ。父親はどこにでもいる小作人の一人で、その時はイトもただ美しいだけの、農民の娘の一人だった。それがどこぞの剣士の目に止まり、オリカミ家に放り込まれたわけだ」
「本当の話ですか?」
確認せずにはおれないのは、荒唐無稽と言ってもいい入り組んだ関係があるからだ。
平然としているリイがどこか違う世界にいるようにも見えた。
「イトはすでに死んだから、この話を知っているものはもうほとんどいないだろう。俺が生まれて育った農村も、数年前の飢饉でほぼ全滅し、生き残りは各地に散っていったというから、調べるのも骨だろうさ」
「リイ殿は、いつ、それを?」
「マサエイ様に剣の腕を見込まれてからだ。幼くして寺に預けられてな、それは親類による策だったが、とにかくマサエイ様やその取り巻きに露見せずに、成長した。飢饉で故郷がなくなった頃には、剣術を修め、仕官する先を探したが、そこへマサエイ様から声がかかった。そうして、十年以上の歳月を経て、母と子が再会したわけだ」
劇的ではあるが、リイとしては複雑だっただろう。深刻さとは裏腹に、そんなことを思っていた。
自分を捨てた母と対面したのだから、動揺しただろう。しかもその母が、自分の種違いの弟のために、前妻の親類を皆殺しにするような気が狂ったとしか言えない所業をしているのだ。
東屋が沈黙に包まれ、その静寂の中で唯一動いているリイの手の酒瓶が、水音をささやかに立てていた。
「ノヤ殿が、マサジ様を切るつもりでいるのは知っている」
ぼそりとリイが言った。
「あの顔や雰囲気を見ていれば、その裏側には激しい憎悪があるのはわかる。俺がノヤ殿を切ることは、ノヤ殿を一度は助けたマサエイ様の本心に外れるがために、遠慮がある。そこで、スマ殿をけしかけたわけだ。すまないとは思うが、事情を察してくれ」
「ノヤ殿を切って、マサジ様を守ろうというお心ですか、リイ殿は」
さてな、とリイがわずかに背を逸らし、東屋の屋根の内側を見るような、そんな角度で頭上を見上げた。
「マサジが死んでも、何も変わらんよ。ただオリカミ家がついえるのが早まるだけだろう」
遠くの方から女の甲高い声が聞こえ、男たちの笑い声が聞こえてきた。
「こんなことをしているようでは、程なく終焉を迎えるだろうが」
そういった時にはリイはこちらを見ていて、月明かりと屋敷からの薄明かりの中で、瞳がキラリと光ったのが、よくわかった。
(続く)
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