第20話 刹那の勝機
◆
間合を支配されるのは確実だった。
ならこちらからも踏み込むのみ。
瞬きより短い時間。
刃がすれ違い、体もすれ違う。
お互いが振り返り、その時にはそれぞれが得物を構えている。
剣を構えたまま、体の状態を確認。胸元に風が吹き込むが、痛みはない。着物を着られただけか。
視界の中では、ノヤも着物が切れているが、些細なもの。血も滲んでいない。
互角の速度だった。
しかしこうして向き合うと、ノヤの構えは落ち着いている。居合一筋ではないのか。
またお互いが立ち位置を変える動きになるが、視線は全てを把握している。
足の構え、刀の構え、わずかな力みまで、見て取ろうとする。
自然、焦点が曖昧になり、一点に集中することもない。
まさしく全体を、満遍なく観察する。
それはノヤも同じ。瞳を見ればわかる。
もう太陽の位置を使った詐術は成立しないため、ゆっくりとお互いに横へ移動する。
取り囲んでいる男たちや町人がそこにいるはずが、少しも感じ取れない。
世界には今、二人しかいない。
そしてその世界から元の世界へ戻れるのは、一人だけだろう。
遠くから何かがやってきて、音を奪う。
心が冷え込み、鼓動さえも止まる。
凪が来ている。
わずかにノヤが視線をずらす。誘いか。足の位置も変える。誘いだろうか。
目潰しは来ない。それは警戒している。
隙を作って、飛び込ませるのは常套手段。
何故なら隙に飛び込むということは、想定しているところへ誘い込むのと同義。
しかし相手の想定より早く踏み込めば、勝てる。
誘惑が心に浮かぶ。
楽に勝ちたいという、蜜のように甘い誘惑だった。
ノヤの構えが変わると、先ほどの隙は消えた。やはり誘いだったのか。
安堵を見透かされたか、心を読んだようにノヤの方から間合いが潰される。
体が反射的に動く。
二度、三度を続けてお互いの切っ先が走り、その度に立っている場所が入れ替わる。
離れた時、どちらからともなく細く息を吐く。いつの間にか二人ともが汗に塗れている。
お互いに傷を受けていない。実力は伯仲なのだろう。
体力での差もない。なら、精神的に緊張が切れる方が、負けか。
凪は心の中から、去っていた。息が苦しいのを必死で鎮める。
静かな呼吸の読み合いになり、また姿勢のわずかな差でお互いを誘い合う。
こういう時は、事故が起こるものだ。予想もしない組み合わせが、当たるはずのない剣が当たる結果を生み、当たるはずの剣が当たらない結果を生む。
そんな場面は、そうとなると瞬間でわかるのだ。
その理解が、まさしく心に差し込んだ。
ノヤが見過ごすわけもない。
突っ込んでくる。足の位置が不完全で、すれ違おうにも遅れる確信がある。
避けることはできない、なら、受けるしかないだろう。ただ、受けるのも間に合うか。
受けるという選択肢は、刹那で放棄した。
こうなっては、ノヤの臆病に勝機を見出すしかない。
こちらからも剣を繰り出す。お互いに傷を負う筋である。それも深手だ。
恐怖は感じなかった。意識はノヤにだけ向いていた。何故なら自分が傷を負うのは、もう避けられない、既定だからだ。
あとはノヤ次第。
傷を受けることを甘受しても、攻撃してくるか。
それとも傷を負うことを避けるために、自らの刀を引くか。
もしヒロテツだったら、と自然に想像した。
あの老剣士なら、同じ場面でも決して剣を引かないだろう。
自分がどれほどの傷を負っても、相手を殺すことだけを考えるはずだ。
では、ノヤはどうか。
臆病に負けるか、それとも克服するか。自分を犠牲にできるか、それともできないのか。
切っ先が迫ってくるのが、ゆっくりと見えた。
「それまで!」
唐突な大音声が空気を震わせ、二本の刃が揺れ、停止された。
切っ先はどちらの体にも触れていない。ただ、ノヤの剣の方がこちらの胸により近いだろうか。
声を発したものの方を見ると、そこにいるのはマサジだった。そして彼の両側には六人の武装した足軽が並んでいる。
「ノヤ、余計なことをするな」
マサジが満面の笑みでそんなことを言う。ノヤが刀を鞘に戻し、膝をついた。同じ動作をして、頭を下げるが、この領主の息子が何をしに来たのか、全くわからなかった。
「そちらの旅の剣士の力量、はっきりと見定めた。失われるのは惜しい。オリカミ家に仕える気はないか?」
すぐそばで、ノヤの肩が小さく震えるのがわかった。
まだ息が乱れていたが、平静な声を意識して、はっきりと答えた。
「旅のものにて、ひとところに落ち着くのは無理というものです。私より優れたものを、お招きになるべきかと存じます」
「そなたの力量を見定めた、と言ったぞ。ノヤ、そうであろう?」
その問いかけは残酷だったが、ノヤは小さな声で返事をした。
「オリカミ家に仕官するのにふさわしい力量かと存じます」
まるで血を吐くような苦しげな言葉だった。
ノヤが何よりも望んでいる言葉を、今、マサジはこちらにまるで見せびらかすように向けているようだ。
マサジという青年の意地の悪さに腹が立つと同時に、何か、ノヤのためにできることがあるはずだと考えた。
さっきまで殺しあっていた、それも自分を殺す寸前だった相手のことを考えられる、剣士という存在の発想はどこか不自然ではあった。
「ノヤ殿の剣は私の命を奪うはずでした」
そう言うと、わずかにマサジが顔をしかめたが、声は止めない。
「それが私の力量です。拾った命のことを考え、旅の空の下を歩こうと存じます」
「仕官を断る、と言いたいのだな?」
怒りのにじむ言葉に、頭を垂れながら、即座に計算する。
六人の足軽を相手に、さて、生き延びれるだろうか。ノヤの仲間の十人ほどもそちらに加勢するとなると、ほとんど絶望的だ。
なかなか誰も言葉を発さず、しかしその中で声を発したのはやはりマサジだった。
「よかろう。しかし、諦めるつもりはない」
行くぞ、と足軽に声をかけ、マサジは離れて行った。町人たちも散っていき、ノヤの仲間が憮然とした様子で周囲に立っている。
「少し話をしましょう」
そうノヤが声をかけてきて、こちらを見る視線にはどこか、儚げなものがあった。もう殺気はない。
断る気にもなれず、しかしそれよりも視線は地面に広がる赤い染みを見ていた。
名前も知らない剣士を切った痕跡。
また一つ、屍を生み出し、それを踏み台にしたのだろうか。
(続く)
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