第18話 手に取れないもの
◆
医者のところを出るときに話をしておいたので、深夜でもミツを連れて建物の中に入ることができた。
ミツはさすがに兄を前にすると、もう一度、泣き始めた。そっと部屋を出て襖を閉じると、すぐそばに医者が立っていた。
「人を切った後の人間は、目つきでわかる」
そう低い声で言う医者の手には徳利があり、もう一方の手が杯を差し出してくる。
受け取りながら、聞き返してみた。
「ヒロテツ殿の時も、わかりましたか?」
「あの男もやはり変わったよ。それが普通、自然だ」
杯に酒が注がれ、一息に飲み干した。
立ったままで酒を飲むというのも、変な話だ。医者もそう思ったのだろう、こちらへ来いと誘われた先は、狭い部屋で、どうやら医者が生活している場所らしい。布団が敷かれたままだった。
その布団に老人が寝転がり、杯を返せと身振りをするので手渡す。手酌で酒を飲みながら、医者が重苦しい声で言う。
「強くなれば戦わなくて済む、というのは願望だな、若いの」
「強くなれば、死ぬまでに殺す数が増えるだけですから」
「何人を切った?」
答えることができないのは、無数の屍の上に自分が立っていることを、自覚しているからだった。
そしてその屍の山の一番上に、まさに先ほど、新しい屍が加わった。
「旅をして、何を求めている?」
寝転がった姿勢で器用に杯を傾けながら、医者が投げかけてくる疑問は、常に自分の中にある問いかけだった。
故郷を出れば、何かを知ることができ、何かを知ることができれば何かを思いつき、その思いつきが真理を導き出すだろう、そんな見通しはあった。
しかしいくら旅をしても、誰と話しても、関わっても、剣を振るっても、剣で倒しても、無意味だった。
気づくことは自分の弱さと愚かさだけ。
そこから導き出される答えは、生の虚しさだった。
なぜここまで、生きることに執着するのか、自分に問いかけることが再三あった。
もし、自分が剣で生きるのではなく、商売で生きていれば、また違っただろうかとも思う。
日々の売り上げに必死になったり、何かを作ること、何かを買い付け、売り付けること、そういうことで頭をいっぱいにして、何も考える余地がなくなれば、あるいはそれが平和なのかもしれない。
少なくとも、商売で直接に他人を殺すものとは、会っていない。
それでも今更、自分がまともな道筋に戻れるとも思えない。
それは踏みつけにしている、大勢の剣士の命や技が許さない。
自分自身も自分を許せないだろう。
今、足を止めるくらいなら、最初に剣を向けられた時、死ぬべきなのだ。
「何かが、あるかと思いました」
どうにかそう答えると、医者が鼻を鳴らした。
「なにもないだろう。医者が患者の腹の中を見るのと同じだ」
「どういう意味ですか?」
「命だの霊だのというが、実際に人間を生かしているのは、肉ということだ。心臓が止まれば死ぬ。肺が動きを止めても死ぬ。血を失っても死ぬ。しかし例えば、腹の中や胸の中に、これが命だ、これが霊だ、と手に取れるようなものは、少しも見つからない。何人もの体を見たが、ないな」
妙な医者だ。そもそも、どこで技術を習ったのだろう。はるか南の方では、海の向こうの国からやってきた妙な男たちが、そのものの国に伝わる医術を使うともいう。
「しかし、命が手に取れなくとも、そこに命があることはわかるのだから、不思議だ」
ぼそぼそと医者がそんなことを言う。
「お前もそのうち、何かと出会えないまでも、どこかに、その何かとやらを見出すかもしれない。手に取れない、はるか遠くに、かもしれないが」
「そうなれば、少しはいいのですが」
「続けることだ。腐らずに」
それからは黙って、医者が一人で酒を飲むのを見ていた。
一杯しかもらっていないのに、やや気分が悪かった。そもそも酒を飲む習慣がない。故郷でも飲まなかった。その時はまだ子供だったこともあるけれど。
医者が唐突に杯を落とし、徳利を倒したのでどうしたかと思うと、眠っていた。そっと徳利と杯を回収し、布団をかけてやった。明かりを消し、廊下に出るが、どこか居心地が悪い。そのまま建物の外に立った。
往来はすでに深夜であることもあり、静まり返って、生き物の気配はない。
空を見上げると、少しずつ欠けてきた月が見える。
先ほどの女郎屋とはまるで違う、澄み切った夜の風が吹き抜ける。
今日もまた、一人を切った。
その一人の剣が、自分を強くしただろうか。自分の剣を、心を、強くしたか。
考えても答えは出ない。
はっきりしているのは、一人の命が技とともに消えたということ。
それは損失だが、ただの損失ではない。その失われた存在から、わずかばかりでも学習すれば、そのかすかな一片は、この手の、この剣に、残るかもしれない。
強い風が吹き、髪の毛が揺れる。
もうミツは泣き止んだだろうか。タルサカは、目を覚ました時、何を考えるだろう。
建物の壁に背中を預け、飽きもせずに月を見上げていた。月そのものや雲がゆっくりと移動していくことで、時間がわかる。
ただこうして月を見上げる日の常で、時間の流れは驚くほど遅い。雲の流れをぼんやりと見ていれば、早かったり遅かったり、まるで月とは時間の流れが別々のようにも感じる。
月が傾き、山のきわが徐々に明るくなった。
鶏の鳴き声が聞こえてくる。
夜明けか。
また新しい一日が始まるらしい。月はまだ西の空にあるが、薄い色合いに変化し、光に消されようとしていた。
一度、目を閉じ、建物の中に戻った。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます