第15話 切れるか、切れないか

     ◆


 うめき声の中で、一歩、二歩と下がったのはヒロテツだった。

 胸が赤く染まっている。そして口からも血が溢れる。

 緩慢な動作で片膝が折れ、ぐらりと上体が揺れた後に勢いに負けて背中から仰向けに倒れた。

 ノヤは無言でまだ刀の構えを変えない。

 白刃は鞘から抜かれ、切っ先は天を向いている。

 美しいとしか言えない光り方をしている。

 卑怯だと声を上げなかったのは、なぜだろう。

 必殺の一撃につながるノヤがやった目潰しは、褒められるものではない。ただヒロテツがあの可能性を頭に入れていなかっただろうか。

 あの一撃の寸前に、ノヤの足の構えが不自然になったのはよく見えた。砂を蹴り上げるための動きだ。あの動きを警戒すれば、目潰しを予測できる余地はあった。

 ヒロテツも最後に油断したか。

「つまらんな」

 そう言ったのはマサエイだった。彼が立ち上がったところで、ノヤが刀を鞘に戻し、膝をついた。ハカリもだ。

 しかし一人だけ足を折らないでいると、マサジが怒りの視線をこちらへ向け、それと同時にすでに背中を向けていたのを足を止めてマサエイが振り返った。

「屋敷に寄っていくか、若いの」

 初老の男の一言にマサジが自分の父親の方を睨みつけるが、その若すぎる息子にちらとも視線を向けず、こないのか? とても言いたげに眉を持ち上げてみせる。

「参ります」

 頭を上げ、老人の背中に向かう。ノヤとハカリが視線を送ってくるが、二人にはマサエイは言葉をかけなかった。そばでリイも膝をついているが、眠そうな顔に見えた。

 屋敷に入ると、マサエイが「稽古でもしなさい」とついてきていたマサジを遠ざけだ。

 どこまで廊下を進むのかと思うと、中庭に面した座敷へとマサエイが入っていく。何日か前にマサジとノヤが稽古した中庭とは違う。敷地の中に複数の中庭があるようだ。

「なぜ、ノヤを批判しなかった?」

 マサエイが座敷にある座布団に座り、脇息に肘をついてこちらを見る。

「砂をぶつけたことでしょうか」

「そう。あれは王道ではない。正道ではない。それはわかっただろう?」

「王道も正道も、勝つために捨てるものが、生き残るかと思います」

 答えを聞いてくすくすとマサエイが笑う。何が愉快なのか、と思う一方で、この老人には全てが愉快なのだろうとも思った。

 そういえばこの部屋には小姓の一人も来ない。お茶の一杯も出ず、ただ、脇息に寄りかかる初老の男が扇子を開いたり閉じたりする音がしていた。

「ヒロテツを戦場から拾ったのは、私だ」

 老人が静かな声で話し始めた。

「有能な男だった。人を切ることもできるし、ものを考えることができた」

「ではなぜ、手放したのでしょうか」

「私の妻が、あの男に色目を使った」

 思わず相手の目を見ようとしたが、マサエイは瞼を閉じている。声だけが続く。

「もちろん、ヒロテツにはあの女になびく気持ちはなかった。しかし私の狭量は、放っておかなかった。ヒロテツに挑むものがいるのをいいことに、あの者を体良く追い出し、それからあの者は市井の者との間に子を作ったのだよ。それを聞いた後、私は妻を捨てた」

「捨てた?」

「ヒロテツのことを想う女など、必要なかった。最後にはそう、自分に言い聞かせたな」

 こちらが見据える先で、初老の男はかっと瞼が持ち上がるが、瞳の色合いは複雑なもので成り立っていた。

 怒りもあれば、悲しみもある。気迫もあれば、弱いものも混じる。

「愚かだろうか、私は」

 答えることができない問いかけに、沈黙を向けるしかない。

「愚かかな、若いの。過去の恨みを今も引きずる私は、愚かか?」

「強者の責任、かと存じます」

「責任。便利な言葉だ」

 その一言には沈黙が続き、それでどうやら話題は終わったようだった。こちらからも訊くべきことがある。

「ヒロテツ殿の亡骸は、どうなるですか?」

「配下の者に運ばせる手はずだ。家族で葬儀をすればよかろう」

 それを聞いて安心した。罪人として扱われるのではなく、剣士として遇されるのなら、ヒロテツの最後の矜持は守られるだろう。

「名前を教えてくれ、若いの」

 そうか、名乗ってすらいない。

「スマと申します。旅のものです。偶然、ヒロテツ殿と知り合いました」

「スマ? マサジがその名を何度か口にした」

 どんな文脈でだろうか、と疑問に思ったのが表情に出たのか、ぐっとマサエイが姿勢を乗り出す。

「ノヤに勝てるか?」

 妙なことを聞くとは思ったが、正直に答えるしかない。

「見事な剣術を使うと思います」

「見事だったら人が切れるか」

 この老人の視点には、唸らされるものがある。

 王道の話もまた、ここに通じるのだ。

「鮮やかな、見世物のような剣ですが、実際の斬り合いではそれは、仰せの通り、無意味でしょう」

「もう一度、改めて確認するが、ノヤを切れるか?」

「やってみなくては、わかりません」

 それが正しい、と呟いて、扇子をパチリと閉じる。

「ヒロテツ殿の」この話をしておくべきだろう。「娘で、ミツ殿という女性がいます。彼女に関して、ややこしいことが起こるかと」

「その娘が私とどういう関係がある?」

「ミツ殿は、ヒロテツ殿より剣が上手いものに嫁ぐと言われて、ハカリ殿がミツ殿に恋慕をお持ちです。しかし今、ヒロテツ殿をノヤ殿が切ってしまった」

 そんなものに興味はないな、とマサエイが笑う。失笑である。

「ヒロテツの息子は剣術を使えぬ。それでは妹を守ることもできぬ。逃げるのではないか」

 逃げるか。それはありそうだが、ただ、タルサカやミツがノヤのことを許すだろうか。

 何らかの方法で、恨みを晴らすのではないか。

「何か私に聞くべきことはあるか? スマ」

 老人の言葉に、思考が巡り、最適な質問を探そうとした。

「ノヤ殿を切っても構わないですか?」

 初めて、純粋な驚きをマサエイが見せた。そして閉じた扇子で自分の肩をトントンと叩く。

 そうしてしばらく、黙って何かを考える様子になり、その後にニヤリと笑った。この時、まるで老人が三十年ほど若返ったようにも見えた。生き生きとした、若々しい笑みである。

「その時は見届けさせてもらいたいな」

「頭に留めておきます」

 立ち上がり、一礼する。

「気をつけて帰りなさい。それに急いでな」

 そんな言葉を背中に受けて、元来た廊下を戻っていく。

 雇っているらしい女たちとすれ違うが、彼女たちは何も言わない。玄関には下男がいて、すぐに無言で草履を出してくる。

 外へ出ると、屋敷の前には水が撒かれていた。血を薄めたんだろう。

 当然、ノヤの姿も、ハカリの姿もない。

 急いで長屋に行ったほうがいいだろう。

 駆け足で屋敷の前を離れ、往来に飛び込んだ。



(続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る