怖い笑顔

黒羽カラス

第1話 勝敗の行方

 今日の目覚めは夜だった。昨晩は八時に布団に潜り込んだので眠気は一切ない。

 私はパジャマの上からジャケットを羽織り、枕元に置いたデジタル時計を見つめる。午前三時半になった。長い三分を待ち、並んだ数字を目に焼き付ける。同時に表示されていた日付は十一月一日。吉兆を予感させた。

 今日の私はいつもと違う。積極的に変化を求めた。その意志は朝食にも表れた。フライパンでほうれん草のバター炒めを作った。トースターでこんがり焼いたパンの上に載せて頬張る。塩と胡椒の配分が絶妙だった。締めの紅茶も悪くない。

 洗面台で歯磨きを済ませて自室で濃紺のスーツに着替える。一本のネクタイを握り締めると和室に向かった。

 母さんが使っていた部屋には三面鏡がある。小ぶりな座椅子に座って神妙な顔でシャツの襟を立てた。鏡を見ながらネクタイを締める。結び目が歪な形になった。自然に目が真横へ流れた。

 小さな仏壇にいる母さんに微笑み掛ける。

「相変わらずヘタだよ」

 気持ちを切り替えて結び直す。締め方で微調整を加えると母さんにして貰ったような三角が出来上がった。青地に水玉のネクタイが少し派手に思えたが、前向きな姿勢の表れと捉えることにした。

 出掛けるまでの間はテレビを観て過ごす。雄大な景色が心にゆとりを与える。クラシックは高鳴る胸を程々に抑え、頭の巡りを良くしてくれるような気がした。

 朝のニュース番組が始まる。八時半を迎えたところで私は腰を上げた。ゆったりとした気分で玄関に向かう。

 その途中で思い出した。急いで引き返し、食卓の隅に置いてあった白いマスクを装着した。鼻と口が隠れて若干の息苦しさを感じる。

「良くないな」

 意識して胸を張った。大股で歩いて暗い思考を頭から叩き出す。玄関に用意した革靴は手入れが行き届いていて若々しい光を帯びていた。

 今日という日に相応しい。未来を暗示するような革靴を履くと心地よい高揚感に包まれた。


 民家に挟まれた縦長の空には雲ひとつない。爽快な青い導きに従って私は黙々と歩いた。

 横倒しになった三輪車に意識が傾く。横に避けようとして即座に考えを改めた。手早く起こして端に寄せる。片方のハンドルに付いていた砂は手で払い落とした。

 目がそれとなく空に向かう。小さな善行であっても天が見逃すことはない。

 気分よく歩き始めた。丁字路を左に曲がると長い黒髪の女性が小走りで現れた。膨らんだゴミ袋を右手に提げている。私と視線が合った途端、目で微笑んだ。

「おはようございます」

 立ち止まって親しみを込めた挨拶をしてきた。私は相手の顔をまじまじと見つめる。鼻と口は花柄のマスクで覆われていた。

 顔の大半が隠れているせいなのか。名前が頭に浮かんで来ない。向こうが知人の誰かと勘違いしている可能性も考えられる。私自身、幅広の白いマスクを付けていた。

「どちら様かわかりませんが、おはようございます」

「え、はい……」

 驚いた瞬間、女性の笑みが消えた。動揺した目が直視を避けるように揺れ動く。あからさまに気まずいと言動で語っていながら、なぜか歩み寄ろうとする。

「あ、あの、今日はどこかに、お出掛けですか」

「今日は大きな勝負に出ます。私の大切な席を黙って明け渡す訳にはいきません」

「そう、なんですか。私はゴミ出しの途中なので……失礼します」

 抱いた不信感を隠すような笑みで女性は足早に立ち去った。

「なんだったんだ?」

 女性の後ろ姿をちらりと見た。瞬時に前へ向き直って歩き出す。

 後ろを振り返っている暇はない。今はひたすらに前を見て前進あるのみ。

 大きな仕事を任された、あの時と同じような血のたぎりを感じる。青さを増してきた空の下、私は揺るぎない信念に身を任せた。


 私は自宅の暗い窓をぼんやりと眺めていた。カーテンを閉める気力が湧いて来ない。

 片肘を載せた食卓に目を移す。薄っぺらな透明の蓋の上に割り箸が転がる。均等に割れず、一方が極端に短い。黒い容器は空だった。食べ残した米粒はなく、今日の黒星を強く想起させる。

 溜息が漏れた。部屋の明かりは点いているが人工的な白さで寒々しい。温もりが欲しくて目に付いた湯のみを握ったが、すぐに手を離した。

 世間は冷たい。掌から伝わる情報が暗い方向に結び付く。ネガティブ思考にうんざりする。元の状態に戻るには、もう少し時間が必要になるだろう。

「こんな時は飲みに」

 口にして財布の中身を思い出す。沸き立つ怒りで全身が震える。心の中で、落ち着け、と念仏のように唱えた。最後に長い息を吐いて気持ちを切り替える。

 今日の出来事を忘れるくらいに集中できるものはないのか。自問して即座に答えが出た。

「無いか」

 ぽつりと言って椅子から立ち上がる。手首と肩を回した。長時間の拘束による弊害が軽度の痛みで表れた。

「運動でも」

 絶妙のタイミングでチャイムが鳴った。今日は誰とも会う約束をしていない。何かの勧誘だとしても時間帯が遅い。

 考えているとチャイムが連続で鳴った。同時にドアを叩く音がする。荒々しい行為は取り立てを想像させた。

「面白い」

 にやりと笑ってキッチンを飛び出した。わざと足音を立てて歩き、突っかけを踏み付けてドアを勢いよく押し開けた。

 白いコートを着た女性が軽く仰け反った。顔の大半を覆う花柄のマスクには見覚えがあった。

「俺がわかるか」

 隣にいた痩身の男性が割り込むようにして、一歩、近づく。背丈は私と同じくらいで立体的なマスクを付けている。背広の上から着ていた茶色のトレンチコートがとても懐かしい。

「それは私が会社勤めの時に着ていたオーダーメイドのコートだな。佳弘よしひろ、今日は何の用だ」

「親父、認知症ではないのか」

「当たり前だ。もしかして、その隣の女性は和美かずみさん?」

「そうです。朝のゴミ出しの時にはわからなかったみたいで、それで少し心配になって……」

 隣にいた佳弘の咎めるような目を受けて声が小さくなっていく。年長者の助け船が必要な場面に思えた。

「この時間に立ち話は堪えるだろう」

 私はドアを大きく開けて二人を家の中に招いた。

 真っ先にキッチンに入って右隣の食器棚を開ける。奥の方に手を伸ばし、玉露と書かれた茶筒を取り出した。

「親父、ちゃんと自炊はしているのか」

 声の方に振り返ると佳弘が空の容器を見下ろしていた。

「今日は、たまたまだ。朝食は作ったぞ」

 その声に反応した和美さんがシンクを覗き込む。

「フライパンはあります。他は皿が一枚とコップだけなのですが」

「昼は抜いた訳ではなくて、外食で済ませた」

 耳にした佳弘の目が鋭くなる。

「朝食を作っただけで自炊していると言えるのか」

「今日は色々と重なって、いつもはこうではないからな。そこは誤解しないように」

「あのぉ、お義父さん。もしかして朝に言っていた席と関係があります?」

「初耳だな。親父、説明してくれ」

 佳弘は重く沈んだ声で言った。

 意識して作った笑顔が崩れそうになる。我が子ながら頭と勘が良い。下手な嘘は傷口を広げる行為に他ならない。

 私は覚悟を決めた。

「今日は十一月一日だ。奇数のゾロ目は確変を誰もが想像する。重ねるようにして新台入れ替えの事前の告知があった。新聞の折込チラシだ。出ないはずがない。出入り口に近い席は店の外からも見える。客を呼び込む特別の席だ。私の指定席でもあり、黙って明け渡す訳にはいかない」

「席って、比喩じゃないんだ」

「パチンコ屋の成果を聞こうか」

 感情の起伏は見えない。淡々とした言葉で核心を突いてくる。

「金保留で画面いっぱいに花びらが舞って、しかも巨大役物が落ちてきてハンドルが振動までしたんだ」

「それで」

「幸運の女神は微笑んでくれなかった」

 代わりに私が微笑んだ。たぶん、泣き顔に近いように思う。頬の辺りに妙な強張りを感じた。

「いくら負けたんだ」

 痛いところを突いた上にえぐり出そうとする。圧迫面接を受けている気分になった。

「……二桁には届いていない。今回は負けたが、最後は必ず私が勝つ!」

「辛うじて、という言葉が付きそうだ。累計で負けていれば一度の勝ち等、意味がない」

 佳弘は下がったマスクの一部を摘まんで引っ張り上げた。刺々しい目が普通の状態に戻る。困難を乗り越えたと喜ぶ間もなく、私に向かって掌を差し出した。

「通帳が見たい。残高ゼロはないと思うが」

「ここ最近は記帳していない」

「俺が代わりに記帳するから大丈夫だ」

「あ、そうね。でも、どこに置いたかなー。隠すつもりはないんだよ、本当に。今日は温かい玉露を飲んで、茶菓子は黒糖のかりんとうを考えている。控え目な甘さで美味しいよ」

 自分の口調が明らかにおかしい。喋っていると勝手に頭が上下に動く。妙な汗が滲み出てシャツが肌に張り付いた。

 一言も返さず、佳弘はキッチンを出て廊下で立ち止まる。

「通帳を見つけたあとに頂く」

 私は和美さんに目を向ける。小首を傾げた状態で笑っていた。

「ま、待て! どこを探すつもりだ!」

「母さんが眠る仏壇の引き出しだ」

「あ、いや、なんで。そこはない。うん、ないね。母さんに対して失礼だよ、うん、あり得ない。ない、ない」

「その年齢では定番の隠し場所だ。あと、嘘を吐くと不自然に口数が増える。覚えていた方が良い」

 佳弘の表情が読み取れない。

「もっと早くに教えてくれよ~」

「今後、気を付けることだ」

 頬が盛り上がった。見ているだけで身震いが起こる。


 どんな物取りよりも怖い笑顔であった。

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