罪人と糸

にゃ者丸

骸の山にヒトでなしの者あり

忖度なしの感想をいただき、この作品を自分で読み返して、加筆修正を行いました。少々、内容が変わっている部分もありますが……………どうかお楽しみいただければ幸いです。


にゃ者丸


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 とある伝承にも似た書物から、こんな記述が見つかった。


〝骸の山にヒトでなしの者あり〟


 それは、現代にて発掘された江戸時代よりも少し前、戦国時代に書かれただろう書物。


 誰かの日記らしきものであり、作者あるいは持ち主は不明であったが、歴史的に価値ありと称され、それは博物館にて大切に保管されるようになる。


 その日記には、書いた者の独特の癖だろうか。字が詠みづらく、更にそれ以上に歴史的に重要とされる書物が同時期に発見された為、解読も適当に済まされ、そのまま何も分からずに博物館の奥で眠る事になる。


 故に、誰も気づかなかったのだろう。その日記には、があった事を。


 その二冊目を、未だ所有する存在がいるという事を……………。






❖❖❖






 時は遡り、江戸時代初期。


 乱世の世は終わりを告げ、徳川家康が天下を己がものとし、将軍となって間もない頃の話。



 どこぞで盗賊稼業をして、凡そ10人は殺したとされる男の処遇が決められた。


 時刻は昼頃、木組みの牢屋で手足に枷を付けられ、首を縄で縛られ犬のように牢屋の外の杭に繋げられ、地べたに座る男が一人。


 今にも死にそうな顔をしながらも、精気に満ちた体付きは、少し鍛えるだけで一端の武士となれたであろう恵まれた肉体。


 看守は男に対し不憫そうに思いながらも、牢屋の中の男へと隠し切れない見下した目線を送り、手元の書状を読み上げた。


「罪人、助六。度重なる盗賊行為、並びに10人の殺人の罪。許されざる重罪である。よって、絞首刑に処す」


 牢屋の中で、助六は黙って看守の言葉に耳を傾けるばかりで、何も言わず、何の反応も示さず座っている。

 看守の男には、そんな助六の姿が酷く不気味に思えて、早くこの場から逃げ出したい衝動に駆られるが―――――そうも言ってられない。


 この書状には、まだ続きがあるからだ。


「しかし、此度の処刑に将軍家の徳川秀忠様より、待ったがかけられた。これは温情である。助六、お主には骸の山の化物退治に行って貰う」


 看守の口から出た言葉に、助六は思わず自分の耳を疑った。今、この看守は徳川と言ったか?いや、それよりも、天下の将軍たる存在が、この山賊ごときに温情だと?


 助六は昔から頭が回る方であったが、今この場においてどのようにすればいいのかも、頭が混乱して分からなくなっていた。


 助六が黙っている事に看守は目を吊り上げる。しかし、この罪人を殴った所で意味は無いと思い至り、看守は振り上げた腕を下げて牢屋の錠を開ける。


「出ろ」


 看守は杭から縄を解いて手に持ち、助六を引っ張って牢屋から無理矢理出す。

 誤って転びそうになった助六であったが、無事に転ばずに看守について行く事が出来た。


「(今は、ついて行くしかないか………)」


 頭の中で、乱暴に縄を引っ張り、雑な態度で自分を連れていく看守に殺意が沸いたが、大人しく気を静める。



 それから助六は、後に思い知るのだ。絞首刑の方が、如何に楽な罰であったかを。






❖❖❖






 助六は未だに信じられなかったが、将軍から御簾を通して直接、今回の処刑を取り消す条件を聞かされた事で、ようやく信じた。


 そして、件の山まで幕府の者によって送り届けられた。


 途中、御者を務める者から「別に逃げても構わない」という言を聞いた時は、己の耳を疑った。


 だからこそ、助六は聞かずにはいられなかった。なぜ、将軍家は此度の自身の処刑を取りやめ、自分のような下賤の者に情けをかけたのか、と。


 それに対する答えを、御者は戸惑うばかりで一向に話そうとしない。だが、決心がついたのか。御者を意を決して震える唇で、こう答えた。


「お前は、触れていけないものに触れ、破ってはいけない掟を破った。だから、お前にはこういう処置がとられたのだ」


 要領を得ない御者の返事に、助六は首をかしげて「それは一体どういう事だ?」と聞き返した。しかし、それ以降、御者が口を開く事は無かった。


 何かに怯えるように、恐れを振り払おうと一心になって、御者は手綱を動かす。

 馬は忠実に従い、野道を駆ける。


 件の山へは、わりと早く辿り着く事ができた。


 窓の無い箱から、首の縄を引っ張られて助六は目に入ってくる輝きに、反射的に目を瞑る。

 自分をここまで連れてきた御者の顔を初めて見た時、助六は素直に驚いた。


 その顔は、想像以上に老けて見えた。白髪の混じった髪を見れば、とてもここまで御者を務めたとは思えない様相だ。

 病気か何かに憑かれているのではないか?そう、助六が無遠慮に訪ねてしまう程、御者の顔は酷かった。


 御者から顔を外し、助六は周囲を見回す。


 手練れの武士が数十人。たった一人の罪人を監視あるいは送り届けるには過剰な人数と戦力に、助六はようやく事の異常さに気づく。


 しかし、どうしようにも逃げようがない。


 これだけの人数、村人だったなら返り討ちにでもするのだが、相手は武士だ。

 いくら腕っぷしに自身のある助六とはいえ、武士を相手に愚行を犯そうとは思わない。


 助六は大人しく山の中に入るしかないのだ。


 助六は枷を外され、縄を解かれ、軽く身体を動かして凝り固まった筋肉をほぐす。


 そして、横目で山の入り口と、山の全体像を目に入れる。


 見た目は至って普通の山だ。だが、人の気配がせず、草木と獣の匂いしかしない。


 人の手が入ってないからか、ここの空気は自然の空気に満ちていて気分が良い。


 それに、ここで山暮らしするのも悪くない。そう、助六は楽観的な目線で物事を見ていた。


 案外、将軍家の温情とやらも嘘ではないのかもしれない。理由は分からんが、処刑されないなら願ったり叶ったりだ。


 ここで自由に山籠もりをして、気ままに暮らす。


 助六は早くも自分の未来について考えていた。


 それを見ていた武士の一人が、助六にあるものを渡す。


「おい、化物退治に手ぶらも何だろう」


 武士の一人から、箱を手渡される。開けてみると、入っていたのは一本の鉈。


 それも、砥がれたばかりの銀色に輝く、上等な鉈だ。


 助六はいよいよ喜びに打ち震えそうになり、武士たちの顔を見回して、小躍りしそうな気分を一気に冷めさせた。


 武士たちの顔は、一様に青褪めていた。盗賊を相手に一騎当千の武威を見せつけた、あの武士が怯えていた。


 助六は頭から冷や水を浴びたように、冷静な思考で記憶を辿る。


 あの時、将軍はなんと言っていたか。


『骸の山にはヒトでなしの者が棲んでおる。見事、あの化物を退治してみせたなら、そなたの罪、全て帳消しにしてやろうぞ』


 そう、確かにあの将軍はこう言った。


 化物退治。その文字が助六の頭をよぎる。


 助六は、本当の意味で状況を理解した。御者が震えた声で教えてくれた事、助六など歯牙にもかけない武士が震えている事。


 それらが助六に得たいのしれない恐怖を憑りつかせる。


 しかし、助六は自らを鼓舞する。


 そうさ、なんてことない。ヒトでなしの者と言っても、どうせ熊か猪かの獣だろう。長きを生きた獣は人語を理解すると聞いた事がある。

 必要以上に恐れているだけだ。


 そうだ。そうに違いない。


 数十人の武士たち、老人のような御者に見送られて。


 助六は山の中に入っていった。






❖❖❖






 山の中に入り、草木と土、獣臭さの混じった匂いを嗅いで、助六は懐かしさに目を綻ばせる。

 これが、罪人としてでなかったら………そう思うばかりの助六である。


 助六は、こことは別の山の麓にある村落の出身だ。猟師の父を持ち、その腕を幼き頃から身体に叩き込まれた。


 しかし、戦が始まり、故郷の村落は小競り合いに巻き込まれて滅びた。


 母は火矢に射抜かれ焼け死に、父は足軽として徴兵され、戦場で死んだ。


 それから行く当てを失くし、辿り着いた先が盗賊稼業だ。


 昔から恵まれた肉体を持ち、幼き事から叩き込まれた猟師の腕で、助六は大きな盗賊団に属する事ができた。


 それも仲間の裏切りで簡単に滅びたが。

 自分達を討伐に来た武士達から逃げるのも癪に思った助六は、武士達の何人かを道連れにしようと戦った。


 死に物狂いで戦ったからか、武士達のうち三人を殺す事ができた。


 結局、捕まってしまったが。


 盗賊稼業で数人は殺した助六だが、その武士の三人を入れて10人を殺した事になる。助六は後悔していない。いずれ、こうなるだろう事は盗賊に身を堕としてから理解していた事だ。


 自分の死に様が碌なものじゃない事など、受け入れる覚悟はできている。


 だからこそ、助六は牢屋の中でじっと黙って処刑される日を待っていたのだ。


 そんな矢先にこの話だ。助六からしたら意味が分からない話だ。



 助六は、頭を振って理由を考えるのを止めて、別の事を考える事にした。


 山の中に入るのは久しぶりでも無かったが、一人で山の中を歩くのは随分と久しぶりだ。


 人の気配も、これまで山の中を歩いた痕跡も、全て自分だけ。


 人が立ち入らないだけで、山とはこんなにも美しいのかと、助六は目を見開いて驚いた。ほう、と小さなため息も出たほどだ。


 しかし……………助六は山の中を歩いている途中、気づいていた。


 この山は異様である事に。



 まず一つ、人の立ち入った気配がない。


 こういう人里に近い山というのは、猟師というか山に慣れた者にとっては極上の獲物だ。木の実も豊富で、それを食べる小動物や、鹿、猪などの獣の楽園とも言える。


 それなのに、この山には人の立ち入った痕跡が無い。



 二つ、山というには静かすぎる。


 草木が擦れる音、清流とした水の流れる音、風が吹く音など、自然の音しか聞こえず…………動物の足音から虫の羽音など、生き物の動く音は全く聞こえない。


 今日に限って、動物たちは巣に潜って大人しくしているのか?そう本気で考えてしまう程、生き物の気配が薄い。


 果たして、ここは本当に山なのか?



 三つ目、これが一番に助六の心を揺さぶった。


 とある一点から、自然の音さえ途切れた。季節は夏の訪れを感じさせる、少し汗ばむ程度の熱さが感じられる日々であったのに……。


 今、この山の中だけ、まるで秋と冬の間の如く肌寒さがある。


 獣を狩って、毛皮で身体を温めたいがそうもいかない。


 ここには、獣の気配が存在しないからだ。


 不自然にも、ここには防寒できそうな植物が見受けられない。


 この鉈があれば、適当な木を切り倒して、何か簡易の小屋でも作るのだが、助六は直感的――――――いや、本能的にそれは絶対にしてはいけないと感じた。


 理由は分からないが、昔からこういう勘というのは案外バカにできない。



 助六は思った。もしかして、本当にこの山には〝ヒトでなしの者〟がいる

というのか…………?



 この山に入ってからの山の姿、山の顔を見てきた助六は、その噂話をもうバカにできなかった。鼓動が逸る。呼吸が荒くなる。


 薄ら寒さを感じるのに、冷や汗が止まらない。



 助六は今になって後悔をし始めた。






❖❖❖






 助六が山の中を歩いていると、白い息が目立ち始めた。


 この寒さはもはや冬の温度。薄着の恰好をしている助六にとって、冬の寒さでこの格好は裸も同然だった。


 鉈もどこかへ捨ててしまった。重く、かさばる物を持っているより、自分の身体を少しでも温めようと自分で自分を抱きしめた方が良い。


 生き残る云々、罪状の取り消し云々、そんな事はどうでも良かった。


 今は、一刻も早く温まりたい。


 そう、助六の願いが通じたのか。


 社があった。いかにもボロボロで崩れ落ちそう、という程ではないが、長年の間この社が放置されていた事が窺える見た目であった。


 一礼、助六は腰から頭を下げて、社の障子を開ける。


 暖かい。ここだけ春のような温もりだ。助六は飛び込む勢いで社の中に駆け込み、障子を閉める。


「おや………?」


 背中から、老人のように聞こえる、少ししゃがれた若い男の声が聞こえた。


 助六は振り向きたくない思いを押し込め、身体を掻き抱きながら振り返る。


 そこには、不遜にも仏を奉る壇上に腰かけ、胡坐をかいた足の上に腕を乗せ、その腕に顎を乗せて、眠そうな目で助六を見ていた。


「見たこと無いお客さんだね。迷い子かな?」


 その男は黒髪を肩まで伸ばし放題にしていて、住職の恰好をしていた。袈裟には歪な切り傷があり、それが蜘蛛の巣に見えるのだから、どこか不気味だ。


「お前は、何者だ……なんで、こんなボロボロの社にいるんだ………?」


 助六は寒さに震えているのか、恐怖に震えているのか、怯えたように青褪めさせた顔で若い住職らしき男を睨む。


 住職らしき男は屈強な男の睨みに動じず、くあぁと欠伸をして姿勢を少し整える。

 足に腕を乗せ、その上に顎を乗せないだけで、胡坐であったが。


 助六は余裕そうな住職らしき男の様子に、不気味な感情を抱く。


 恐ろしい、ひたすらに恐ろしい。


 自分がなぜそう思うのかも分からず、助六は目の前の男に恐れを抱く。


「お前は何者だ、なぜここにいる、か………それはこちらの台詞だろうに」


 住職らしき男は呆れた視線を助六に向ける。


「儂からしたら、お前の方こそ何者だというに。まあ、なんでここに来たのかは想像がつくがの」


 若い男性でありながら、住職らしき男は老成した喋り方をする。しゃがれた声を相まって、助六はこの目の前の男は見た目通りの年齢なのか疑りそうになる。


「ここがどこかなど、お前は分かっておろうが…………ここは神社、神を奉り、神が宿る所。そして儂はここの管理をしておる……………管理というても、奉る神を失った社に住む、名ばかりの住職だがの」


 案外、丁寧に教えてくれた事に拍子抜けした助六だが、一先ずの安心材料ができた事にほっとする。


 寒さで心身共に弱まっているからか、助六は住職の男が発した発言の中に、少なからず無感情なものがあった事に気づく事ができなかった。







 ❖❖❖






 助六は不思議で仕方がなかった。途中から冬のような寒さのある山。だのに、この神社の中だけ春のような温かさがある。


 季節は夏だというのに、だ。


 この神社は見た目通りの襤褸ぼろさでは無いのだろうか。所々に隙間風が吹いてもいいようなものだが。


 それでも、助六はどうでもいいと思っていた。


 罪人としてひっ捕らえられ、罪状を白紙にする代わりに山の中に棲む化物を退治しろと言われた。


 それからはおかしな事ばかり。もううんざりだった。


 目の前の老人のような若い住職の男と二人っきりなのも、気味が悪いが我慢しよう。一晩だけ泊まって、明日この山に化物がいないか探せばいい。


 普段の助六らしくない短慮な考えであったが、今の助六はそれで良いと思っている。不安、焦燥、恐怖……寒さによる思考の低下、安堵感を得た事による安心。


 それらが助六の判断力を鈍らせる。


 今の助六をなんと称せばいいか。そう、刀に例えるとしよう。


 刀というのは脆いもので。人を切った時は血糊で切れ味が落ち、横からの攻撃には弱い。

 何度も使えば刃毀れを起こし、砥いだとしても耐久が落ちる。


 刀というのは消耗品であったが、今の助六など一目瞭然にそうであった。


 普段の思考の切れ味が落ち、様々な感情が邪魔をして酷い刃毀れを起こしている。


 いきなりの衝撃の連続で心の耐久は落ち、渡りに船といった神社に入り、不気味であったが意外と親切な若い住職と出会い、安堵に浸っての状態を放置してしまっている。


 人間を刀で例えるなら、今の助六はほんの少しの力で、簡単に折れてしまいそうだ。


 だからこそ、助六は気づく事ができなかった。


 自分が何かの腹の中に入り込んだ事に。


「のう、そこの若者よ」


 若い住職が、ふいに助六に声をかけた。


「人間とは、とても弱いものじゃが……同時に恐ろしく強いところがあるじゃろう?」


 若い住職が立ち上がる。助六は聞いているのか聞いていないのか、上の空の顔でそれを黙って見つめている。


「お前さんは蜘蛛を知っているか?蜘蛛というのは、罠を張って強弱に限らず、嵌ったモノを容赦なく喰らう、非常に狡猾な生き物じゃ」


 この住職は何を言っているのだろうか。助六は、ぼんやりとした顔で近づいてくる住職の姿を見る。


「しかしの、蜘蛛というのは存外弱い生き物なのじゃ。だからこそ罠を使う。己の糸を束ね、織り、罠を作る……………のう、気づいておるか?お前さん、罠にかかっておるぞ?」


 助六は、はっとした。

 助六は何故、今の今までぼんやりとしていたのか、そう思える程にはっきりと明瞭な思考を巡らせた。

 そして気づく。自分がことに。


「!? な、なんで……身体が……!?」


 助六は藻掻いた。必死に手足を動かそうと試みるが、だめだった。全く身体が動かせない。


 助六は今更になって気づいた。今、この神社の中は外よりも凄く寒い。


 魂まで凍えそうなほどだ。


 助六は歯をかちかちと打ち鳴らして、恐怖故か寒さ故か、その身体を無意識に振るわせる。


「糸、というのは便利だと思わんか?それによっては、糸は何にでも使える。万能とはいかんが、出来る事は随分と多い」


 若い住職の男が、腕を上げて指をくいっと動かす。それだけで、助六の身体を無数の糸が絡めとった。


「うわあああああ!!?」


 神社の半分を埋め尽くさんばかりの大量の糸が、助六の全身を覆う。辛うじて顔だけは見えていたが、身体は指一本も動かせない。

 叫ばずにはいられない。我慢など出来得るものか。


 助六は腹の底から叫んだ。絶叫だ。その声は恐怖に満ち満ちていた。


「ああああ………ああああああ………あああああああああああ!!?」


 みっともなく恐怖に叫ぶ助六を、若い住職の男――――否、ヒトでなしの者は睨んで威圧する。


「――――っ!?」


わめくなわめくな。喧しい。だが許そう。儂は寛大じゃからな。どうせ、この山に入ったのも人間に唆されての事じゃろう。のう、人の中の罪人つみびとよ」


 助六は何も言えない。気づいたからだ。化物はいた。

 この若い住職の男こそ、化生けしょうたぐいの化物だ。


 ああ、こんな事なら断って絞首刑にでもなれば良かった。その方が、どれだけ幸せな事だったのか、助六は今になって漸く理解した。


「安心せい。お前は儂に不快な事はしなかった。多少、喧しかったが、それも許そう。仕方のない事じゃろうて」


 助六は、初めてまともに若い住職の顔を見た。化物の―――ヒトでなしの者の顔を見た。


 髪が白い。瞳は血のように赤黒い。しわだと思っていたものは、何かの刺青のような紋様だった。


 口が開く、ぬるりと唾液が目に入る。てらてらと白く光る牙が見える。


 それが助六の恐怖を駆り立てる。


 再び叫ぼうとして、助六は口元を何かで覆われた。


「んぐっ――――」


「あまり喚くな。さすがに温厚な儂とて怒るぞ?」


 ヒトでなしの者は首をかしげて、助六を見る。その顔には、何の感情も浮かんで無かった。


 助六は涙を流して、何度も何度も繰り返し頷いた。逆らえば殺される。それが理解できたから。


 ああ、牢屋の中で処遇を待っている内は良かった。自分の終わりが見えていたから。間違っても、こんな奇々怪々な状況には陥らずに死ねた。


 自分は誠に大馬鹿物で、不幸な男だった。


 助六は、後悔の念に、恐怖に、涙を流すばかり。


 叫ぶ事も許されなくなった今、助六にできる事は糸から逃れようと藻掻く事でも、化け物に対し抗う事でもなく、涙を流す事だけだった。


 無感情な化物の視線が、助六を貫く。


「さて、何か言い残す事でもあるかの?お前はこれから儂に殺される訳なのじゃからな、要望でもあれば聞いてやるが」


 この瞬間だけ、助六は不幸な自分に幸運が舞い込んだと思えた。


 言いたい事、それは決まっている。


 要望、それも決まっている。


 ヒトでなしの者が指をくいっと動かす。すると、ひとりでに助六の口を覆っていた糸が解かれた。


 助六は口を開く。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、必死の懇願に満ちた目で、ヒトでなしの者を見る。


「楽に、痛みなく、殺してくれ………」


 心の底からの願う声。助六は瞼を閉じず、涙を流しながら化物の顔をはっきりと見て、そう言った。


 それを聞いて、化物は……ヒトでなしの者は、一言だけ呟いた。


相分あいわかった」


 化物が指を振るう。それだけで、助六の首はねられた。


 痛みもなく、苦しみもない。慈悲のある斬首刑。


 ああ、これこそ、俺の人生で最大の幸福だった…………。


 化物への感謝という、奇妙な想いを残して、助六は死んだ。


 血飛沫が舞う。血の雨が降る。


 若い住職の男の恰好をした化物は、血の雨に濡れて嗤う。


「中々、面白い男じゃったな。死に際の願いがとは……よほど、この世に未練が無かったのだろうのう」


 口元についた血を、舌で舐めとる。


「さてと、これ以上、血を流されても困るしのう。血止めをしておくか」


 指をくいと動かす。それだけで助六だった死体の首は締まり、血は止まる。


「人を殺した儂も、罪なのかのう?………くく、いやいや、それは当たり前の事だったのう」


 助六だった死体を包む、無数の糸の繭を撫でながら、化物は内から出でた想いを吐露する。


「この世の全て、他者を喰らわねば生きていけぬというのなら……………儂等は等しく罪人つみびとじゃろうて」


 どこか無感情であった化物の言葉も、それだけは何かの想いが込められていた。






❖❖❖






 神社の屋根、満点の夜空に星々が瞬いていた。その中に一際大きな星の輝きが一つ。


 瓢箪ひょうたんを片手に、若い住職の男は中身をあおる。


「んく…んく…ぷはぁ。今宵は良い気分じゃ。それに満月を眺めながら飲む酒というのも、悪くなかろうて」


 袖をまくり、口元を腕で拭う。


 また瓢箪を咥えて、若い住職の男の恰好をした化物は、中身を呷る。


「人の血というのも久方ぶり。美酒には劣るが、あの男の血を混ぜた酒を飲むというのも、弔いの一つじゃろうて」


 化物の赤黒い瞳が、月光に照らされ輝く。


「己が殺したモノは、己が糧にする事で弔いとなす………ふはは、何とも馬鹿げた弔いじゃ。しかし……………馬鹿には出来ぬ」


 その夜、化物は己が殺したモノで造った酒を飲み、静かな草木の擦れ、水が流れ、風が吹く自然の音色に耳を傾ける。


「静かなる平穏なる一時、これに勝る至上の幸福など、いずくんぞあらんや」






❖❖❖






 骸の山にヒトでなき者あり。


 その者、蜘蛛の化生にして山の守護者なり。


 彼の者、孤独にて静穏を望む。


 それを邪魔する者、彼の者の逆鱗に触れると知れ。


 しかして、何もせねば彼の者、一言の願いを聞き入れるやもしれぬ。


 静寂たる一時を邪魔する事なかれ。


 彼の者に関わる事なかれ。


 彼の者は山の守護者、彼の山は彼の者の宝。


 故にこそ、我らは彼の者の社を建てん。


 彼の者、ヒトでなき者。


 その正体が何であれども、我らは干渉するべからず。






――――――某市歴史博物館へ正体不明の方より寄贈、著者不明の二冊目の日記より抜粋。














注※この物語はフィクションです。


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