第九話 〜狼になった日〜

 ロンは捨て子だった。

 道端に置かれた箱の中で、産声を上げる赤子。

 それは、この都市でよく見られる光景の一つだ。


 ロンもまたそのような境遇に生まれ落ちた一人であり、ゴミ溜めの中で叫ぶように泣いていた。

 まだ目も開かぬ赤子の運命。

 それはこのまま力尽きるか、人身売買を生業とする者達に拾われるかのいずれかであった。


 だがロンは、例外的に幸運だった。

 狼の獣面を被った壮年の男が、どういう酔狂からか、その赤子を拾ったのだ。

 男の名はレオ。

 闘技場で戦うことで日々の糧を得る、プロの獣闘士だった。


 獣闘とは、獣面を持つ者同士で行われるルール無用の格闘競技のことだ。

 外の世界における格闘技とはその本質がまるで異なる、正真正銘の殺し合いである。

 人間離れしたパワーとスピードでぶつかり合うそれは、サヴァナにおける伝統的娯楽となっている。


 どこまでも血生臭く、死者が出るのは日常茶飯事。

 時として、観客まで巻き添えを食うほどの激しい戦いが繰り広げられる。

 レオは、そんな危険極まりない戦いの中で生き延びてきた、数少ないベテランだった。


 だが言い換えれば、戦う以外に能のない男だった。

 育児の才など無きに等しかった。

 彼がロンに与えた食事は、カビの生えた粉ミルクに、腐りかけの野菜。

 それらを、泥混じりの水とともに流し込むようなものだった。


 衰弱しようが熱を出そうが、見せる医者などいはしない。

 闘技場で戦っている間は、手足を縛ってロッカーに放り込む始末。

 不死の炎の加護がなければ、ロンの命は一月と保たなかっただろう。


 どうにか6歳まで生き延びたロンは、闘技場のゴミ拾いを始める。

 ゴミに混ざったサヴァナ紙幣を得るためだったが、この頃から既に、商売敵との争いに身を投じていた。

 苛立った観客に蹴り飛ばされることもしばしばだった。


 当然、ロンの精神は都市の景色と同様に荒んでいった。

 サヴァナの貧民であれば誰もが一度はするように、強奪行為に手を染めた。

 そうしてネズミの獣面を入手した後は、獣面の争奪戦に加わるようになった。


 技を磨いて戦いを挑み、撃破してより強い獣面を得る。

 もしくは、挑んでくる相手を返り討ちにして所持品を奪い取った。

 襲撃を受けることもしばしばだったが、それでもロンは負けなかった。


『いいか、強いヤツに出くわした時は、絶対に勝とうとするな』


 それが唯一、レオから教えられたことだった。

 すでに棲家も生計も異にしていたが、その時ばかりは、不思議と親のように思えたものだ。


 勝てない者には絶対勝てない。

 だから無理に勝とうとせず、本能の赴くままに逃げまわれ。

 逃げることは負けではない。

 そして負けさえなければ、いつか必ず勝てる日が来る――。


 それは一見、無様な戦いのようにも思える。

 しかし自然の摂理に照らしてみれば、至極もっともなことであった。


 ただ生きること。

 生き延びること。


 それこそが、サヴァナにおける勝利に他ならないのだから。


 ロンにそのような戦いを教えた男は、確かに負けることは少なかった。

 しかしながら、勝利らしい勝利を得ることは、それ以上に少なかったようだ。

 まさに、戦うためだけに生き続けているような男だったのだ。


「……なんで、そんなにも戦う?」


 そんなレオに、ロンは一度だけそう訊ねたことがある。

 彼の所持していた獣面はオオカミ。

 本来なら、獣闘などせずとも暮らせる身分であるはずだ。


『……エターナルだ』

『……は?』


 だが男は、ただそれだけ言って天を指差した。

 当然ロンには、さっぱり意味がわからなかった。


 そのようにして、殺伐とした日々が過ぎていった。

 ロンが獣面の譲渡を受けたのは、12を過ぎたある日のことだ。

 その日、ボロボロに負けたレオが、酩酊状態でロンに絡んできた。


『カラスか……相変わらずだな』


 レオはそう言うと、突如としてロンに襲いかかってきた。


『な、なにしやがる!』

『黙ってろ……』


 突然の事態に、ロンは激しく抵抗した。

 だが、カラスがオオカミに勝てるはずもない。

 酒臭い男に成す術なく押し倒され、力まかせに面を剥ぎ取られた。


『ぐっ……!』


 相手の面を剥ぐことは、サヴァナにおいては最大級の侮辱。

 実際ロンは、己の全てを蹂躙されたような気分になった。

 だが、荒れ狂う怒りとともに相手を睨んでいると、なんとレオまでもが獣面を外してきたのだ。


『はあ!?』


 ロンは我が目を疑った。

 獣面とは命の次に大事なもの。

 そう滅多に外すものではない。

 実際ロンは、それまで一度もレオの素顔を見たことがなかった。


『……かぶってみるか?』


 ポカンと口を開けて呆けていると、レオはそう言って、己のオオカミ面を突き出してきた。

 ロンは完全に言葉を失った。

 相手の行動の意図が、まったく読み取れない。


『なんだ、いらないのか?』

『ぐ……』


 要るか要らないかと問われれば、喉から手が出るほど欲しい。

 だがそれは、誰かに恵んでもらうようなものでは無いはずだった。

 自らの力で手に入れなければ何の意味もないアイテムであることを、ロンは本能的に知っていた。


『……ふざけんな!』


 だから腹の底から叫んだ。

 この汚らしい髭面の男は、一体どれだけ自分を侮辱する気なのかと。


『そんな汚え獣面、誰が使うかよ!』

『そうか……ふふふ』


 だがロンの感情とは裏腹に、レオは満足げな笑みを浮かべている。


『……随分と一丁前になったもんだ』


 ボソボソと呟きつつも間合いを詰め、一瞬にしてロンの襟首をつかむ。

 そして今度は逆に、己の獣面を被せてきた。


『う、うおおおお!?』

『くくく……』


 衰えたとは言え、歴戦の闘士。

 二人の間には埋めがたい実力差があった。

 老成した体術を駆使して、レオは安々とロンに獣面を被せてしまう。


『うううっ……オエェ!』


 その獣面は、見た目に違わず酷い臭いがした。

 今まで一度も洗ったことが無いのではないか?

 それほどの脂ぎった感触があった。

 オオカミの口の部分には、食べカスまで詰まっている。


 いきなり振るわれた狼藉に、ロンは激昂する他ない。


『く、クソがああ!』

『! むおおっ!?』


 だから、怒りに任せて突き飛ばした。

 すると今度は、獣面の力が如何なく発揮された。

 想像を遥かに超えた力で、レオの体は吹き飛んでいく。

 トタンの壁を突き破り、老いさらばえた体が道を挟んだ反対側のビルに激突する。


――グシャア!


 やがて、肉塊の潰れる音が聞こえた。

 男が行った蛮行の、当然と言えば当然の帰結であるが――。


『はっ……』


 急に弱々しくなった相手の様子に、ロンはふと我に返った。

 慌てて、路上に走り出ると。


『……いてて』


 ひとまずは、無事であるようだった。

 強く打った背中を庇いつつ、のっそりと起き上がる。

 そして、いつぞやのように天を指差す。


――エターナル――


『…………』

『……じゃあな』


 土を払いつつ立ち上がる彼の背から、あの日の言葉が聞こえた気がした。


 ロンはしばらく、その後ろ姿を眺めていた。

 何かとんでもないものを押し付けられた気がしていたが、その正体は不明。

 やがて、怒りがぶり返してくる。


『おい……』


 あの男に拾ってもらわなければ、今自分は生きてさえいない。

 こうして狼面を与えられたこともまた、僥倖としか言いようがない。

 それはロンとて承知している。


『ふざけんじゃねえぞ……』


 だが、それでも怒りは収まらなかった。

 ネズミからカラスになるまでに、一体どれだけ苦しんだか。

 どれだけの修羅場をくぐり抜けてきたか。


 それをこの男は、いとも容易く剥ぎ取った。

 そして己の獣面を押し付けてきた。

 エターナルとかいう、理由のわからないもののために。


『あんたの夢は、あんた限りだ!』


 気づけば、そう叫んでいた。


『俺の知ったこっちゃねえええー!』


 しかしレオは、もはや何も答えない。

 その姿は遠ざかり、やがて最初から無かったかのように消えてしまう。


 ロンは音が鳴るほどに歯を軋ませた。

 そして、押し付けられた獣面を外そうと手をあげる。


『く……!』


 だが。


『ち……くしょおおお!!』


 ついに、捨て去ることは出来なかったのだ。

 この世にはプライドよりも大事なものがある。

 その事実が、ある種の呪いのようにロンの心を縛るのだった。


 たとえ捨て去ることが出来たとしても、地べたに放置されたそれを、どこぞの面無しが拾うだろう。

 そして、身の毛もよだつほどに狂喜するだろう。

 そのような光景は、想像すらしたくなかった。


『何が……エターナルだ!』


 こうしてロンは狼となった。

 育て親の残した呪いとともに。

 レオとはそれっきり会うことはなかったが、長年の戦いで蓄積されたダメージを考えれば、先は長くはなかったはずである。


 なぜ男は、そこまで戦いにこだわったのか。

 彼の言うエターナルとは、一体何だったのか。

 それは今となっては誰にもわからない。


 だが彼のような生き方、そして死に方だけはすまい――。


――ウオオオオオオオーン!!


 ロンはその日、そのことだけを胸に決めた。

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