ワタル少年とリュウ

黄黒真直

ワタル少年とリュウ

「この子に釣りざおを買ってやりたいんだが」

 店に入るなり、ヨシノが言った。店頭に座る老主人が、ヨシノの隣に立つ少年の姿を認めた。虫取り少年然とした子供だった。

 少年の名はワタルといった。最近引っ越してきたらしい。湖にいたところをヨシノが見つけ、釣り具が欲しいと言うので連れて来たのだった。

「安いのでいいから、何か売ってくれないか。――ああ、このボロいのでいい」

「売り物をボロと言わんでくれ。坊主、何を釣りたいんだ? 狙う獲物によって、竿は変えなきゃいけないぞ」

「龍だよ!」ワタルは答えた。「赤い龍を釣るんだ!」

 老主人は目を丸くした。

「ヨシノちゃんが教えたのかい?」

「いや、見たんだそうだ」

「へぇ。そりゃ、幸運なことだ」

 老主人はヨシノの意図を理解し、笑顔になった。

「よしわかった。坊主、このすごいやつにしなさい。安くしとくよ」


 町の北のはずれに、大きな湖がある。毎年春になると、北の山の雪解け水がここに流れ込む。山から降りてきた白い物が、湖を膨らませる。その様は、まるで山を食らう龍のようだ。それでこの湖は、ヤマハミ湖と呼ばれるようになった。

「姉ちゃん物知りだな。他には何か知ってるのか?」

「そうだなぁ……あ、この辺、人食いモンスターが出るよ」

「えっ」

「ウ、ソ」

「なんだよー」

「でも、危険な獣がたまに出るのは本当だ。気を付けたまえ」

「平気平気! 俺なら、どんなやつだって倒せるよ!」

 ワタルは拳を前に突き出した。

「あはは、そうかい。期待してるよ」

 ワタルが向かった場所は、龍をまつる祠だった。この近くで赤い龍を見たという。釣り針にエビを刺し、湖に投げ入れた。それを見て、ヨシノは背を向ける。

「ま、せいぜい頑張りたまえ、少年」

「え、行っちゃうの?」

 ワタルが振り返ったときには、ヨシノの姿は消えていた。


 数日後、ヨシノは再びワタルに会った。ずっと動いていないかのように、祠のそばで釣り糸を下げていた。

「見上げた根性だな、少年。すぐ飽きると思っていたぞ」

「あ、姉ちゃん、久しぶり」

「コイの一匹くらいは釣れたか?」

「一匹だけ」

 初日に一匹、小さいコイを釣りあげたのだ。だがそれだけだった。ヨシノは少し気の毒になった。

「作戦を変えるべきだな。ここらの魚はみんな、エビが少年の罠だと気づいたんだ」

「魚ってそんな頭良いの?」

「もちろん。それに龍が入れ知恵してる」

「龍が……」

 ワタルは赤い龍の姿を思い出しているようだった。大きな口に鋭い目、そして鬼のように赤い体。怖ろしい見た目だが、どこか優しそうでもあり、龍の周りにはコイがたくさん泳いでいた。

「あの龍なら、そうするかもしれない」

「だろう? 同じ手は二度通じないさ」

「どんな手がいいの?」

 さぁねと言って、ヨシノは去った。


 翌日、ワタルは銛と撒き餌を買った。その日から毎日同じ時間に、餌を祠の近くに撒いた。コイに、安全な餌場があると思い込ませるためだ。

 それを七日続けると、コイ達は餌を撒く前に集まるようになった。その日ワタルが祠に行くと、水面からコイが見えた。

「おはよう、少年。何か思い付いたようだね?」

「わ、姉ちゃん。おはよう。うん、こうやって毎日餌を撒いておけば、そのうち龍が餌を食べにここへ来ると思うんだ」

「なるほど。龍は魚の餌も食べるからね。それで?」

「今日、ここにテントを立てる。明日の朝、油断してやってきた龍を、銛でひとつきにするんだ!」

「恐ろしい作戦だね。ま、頑張れよ」

 ワタルは翌朝、日の出とともに目を覚ました。薄く靄のかかる湖面に、赤いウロコがきらりと光った。

 龍だ。ワタルは銛を握りしめた。水音がする。コイが集まり始めたのだ。龍はゆっくりと、ワタルの隠れるテントに近付いてくる。

 あと少し。もう少し近付いたら、テントから飛び出して、銛を突き出そう。

 しかし、ワタルがそう決めたとき、龍はふいに向きを変えた。ワタルのいる湖岸に背を向け、湖底へと潜っていく。コイ達も龍のあとを追った。

 ワタルはテントから飛び出した。龍の姿もコイの影も、もう見えない。逃げられたのだ。

「残念だったねぇ、少年」

「わっ、姉ちゃん。いつの間に」

「たった今だよ。あれはたぶん、テントに気付いたんだね。龍は賢いから、罠だと察したのさ。そしてそれを、コイ達に教えたんだ。さ、次の作戦は?」

 ワタルは胡坐をかいた。


 伝説によれば、赤い龍は湖の守り神らしい。山の上から降りてくるを食らい、湖の魚を守っているという。

 ワタルは初日に釣り上げた一匹のコイを連れてきた。賢い魚は、数日の訓練でワタルに懐き、少しの言葉を理解するようになっていた。

 釣りざおにつけた釣り糸を、そのコイのしっぽに巻き付けた。

「弱ってるふりをするんだ。きっと、赤い龍が助けに来る」

 コイはゆっくり泳ぎ出した。時折水面に腹も見せる。今にも死にそうだ。

 そのとき、ひゅっと、ワタルの横を何かが駆け抜けた。

 それは、白く大きな獣だった。大きな牙を持つ、獰猛な狂犬だ。狂犬は一目散に、ワタルの放ったコイを襲った。

 コイのしっぽに噛みつく。ぐい、と陸へ強く引っ張る。竿を持つワタルまで、引きずられそうになった。踏ん張ろうにも、全くかなわない。

「た、助けて!」

『何をしている、早く手を離せ!』

 聞いたことのない声がした。湖の中から、赤い龍が現れた。神々しい龍は、狂犬に体当たりした。

 口を離した狂犬は、しかし龍に噛みついた。龍は体をしならせ、湖面へ狂犬を叩きつける。狂犬は龍の背中にしがみつき、硬いウロコに歯を立てる。

 龍は狂犬を乗せたまま、湖へ潜った。ウロコのように赤い血が、湖に広がる。波が収まらない。水中でもなお、狂犬は暴れている。

 しかし、水中で龍に敵うものはいない。やがて狂犬は龍に絞め殺された。

 湖面に上がってきた龍は、体中に傷を負っていた。ワタルの前で、ぐったりと横たわる。

 ワタルは震えていた。龍は今にも息絶えそうな声で話した。

『どうした、少年。私を捕まえるなら、今が好機だぞ』

「でも、怪我してる」

『それがどうした? 狩人なら、こんな大物を捕まえる機を逃さないぞ』

 ワタルは龍を抱きかかえた。引っ張って、どこかへ連れて行こうとする。

『何をしている?』

「怪我を治すんだ! うちに良い傷薬がある、きっとそれで治るはずだ!」

『捕まえないのか?』

「まだ捕まえない! 俺はこんな卑怯な方法で、お前を捕まえたりしない! お前とは、正々堂々と勝負するんだ!」

 その瞬間、ワタルの手から龍が消えた。代わりに横たわっていたのは、ヨシノだった。

「やあ、少年。見上げた根性だな」

「え、なに? 龍は?」

「察しが悪いな。私が赤い龍だよ」

「えっ?」

「町の人は、みんな知っていることだ。あの釣り具の店主もな」

「えっ、えっ」

「少年、君はある種の生贄だったのだよ。この湖の守り神は、見ての通り女神だ。そして他所からやってきたを食らう。この意味がわかるか、少年?」

 ワタルは首を横に振った。

「そうか。まだ子供だからな。しかしただのガキかと思ったら、なかなか良い心を持っている。気に入ったぞ。あと数年したら、またここに来い。そのときは、私がお前を食ってやる」

 ヨシノは大きな口を開けて笑った。ワタルはこぶしを前に突き出して言う。

「いいよ、来てやる。そのときは、逆に俺が姉ちゃんを捕まえてやる!」

「堂々と恥ずかしいことを言ってくれるな。意味がわかっているのか?」

 ワタルは首を傾げた。ヨシノは大きな声で笑った。

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