孝行息子

嶋丘てん

孝行息子

張黙庵はこの県の生まれだった。幼少の頃に父親を戦で失い、母親ひとりの手で育てられたが、根っからのなまくらもので、何もせずに腹いっぱい食べることばかり考えていた。

二十三の夏の終わりに科挙という国家試験があることを知り、この試験に合格し、官吏になりさえすれば、いつでも腹いっぱいでいられる、と聞いた。彼は学問というものをまったくしたこともなかったが、いつでも腹いっぱいだ、と言う言葉に釣られて母親にことわりもしないで、都へいってしまった。

学問を知らない彼が、科挙の試験に合格するわけがない。三度、四度と受けてはみたが一向に受かる兆しはみられなかった。

そうこうしているうちに十年の月日が流れ三十三の春を迎えた。が、嫁の来手もなく相変わらずだらしない生活を送っていた。そんなある日親元から一通の手紙が届いた。滅多に届かなくなった親元からの手紙を、喜び勇んで開いてみると、そこには母親の死んだことが書かれてあった。彼は号泣し、とるものもとりあえず大急ぎで郷里へ戻ることにした。

七日七晩かけてやっと郷里についたときにはすでに母親の遺骸は埋葬されたあとだった。彼はがらんとした家のなかで、やっと母親のありがたさを知り、自分の愚かしさを知った。また、これからの行く末を思うと途方に暮れるしかなかった。

その夜、彼はひっそりと静まり返った屋敷で、一人沓を履いたまま寝台に横になっていた。と、老婆が部屋に入ってくる。よくよく見ると、それは死んだはずの母親だった。

「おっかさん!?」

慌てて跳び起き叫んだが、相手には聞こえていないのか、見向きもしない。彼は、不気味に思いながらも、また、

「おっかさん、私です。あなたの息子です。たった今都から帰って来ました。この親不孝者をどうかお許しください」

と叫んだ。すると母親はこちらに気が付き、ゆっくりと歩み寄って言った。

「官吏にはなれたかえ…」

彼は面目なく立ち尽くしていると、また、

「都で腹いっぱい飯が食えたかえ…」

と尋ねてくる。彼は、

「そのどちらも叶えることができませんでした。私はこれからどうすればよいのやら」

と答えた。母親はしばらく息子の顔を覗き込んでいたが、ニヤリと笑みをひとつこぼして、

「それなら、仙人にでもなるがええ…」

と言った。彼は母親があまりにもばかげたことをいうのに困惑したが、ともかくどうすれば仙人になれるのか尋ねてみた。

「ひっひっひっ、やはり楽がしたいかえ。なあに簡単なことさ…気を鎮め、欲を制して大気を導き、体内に吸引する。これを三月の間続けていれば、仙人になれるのさ…」

と言い、すっと部屋を出ていった。

翌朝、隣の者に話したが、一向に信じてはもらえない。それどころか、狐にでも憑かれたのだろう、とまで言われた。彼もこんな不思議なことはない、きっとなにかに化かされたのだろう、と放っておいた。が、それから毎夜のように母親があらわれ、同じことを言っては去っていく。さすがに彼も、これは母親が自分のことを心配してくれているのだろうと思い、言われた通りにすることにした。

屋敷の真ん中に座禅を組むと、この歳になるまでのらりくらりとしていたこの男、暑さ寒さも何のその、三月の間修行をつづけ、どうやら兆しが現れたようだった。

ある日、腹の底から蝿ほどの声でささやくのが聞こえた。

「行ってもいいか…」

目を開くとふっと聞こえなくなるが、瞼を閉じて呼吸を整えると、また聞こえてくる。こんなに簡単に仙人になれるのか、これで楽して飯が腹いっぱい食えるのか、と内心ほくそ笑んだ。

以来座禅を組むたびに聞こえる。そこで、今度言われたら答えてみよう、と思った。

数日後、また言うので、

「行ってもいいぞ」

と小声で答えると、急に胸が悪くなり、挙げ句コボリと何かを吐き出した。こっそり細目で盗み見してみると、身の丈五寸ばかりの小人で、母親そっくりの顔をしたのが、地べたをくるくる回っている。なんと奇っ怪な、と暫く見守っていると、小人は動きを止めてじっとこちらを見つめ、

「わしはずっと苦労してきた。三十三にもなる息子がいるのに、石のように固くなった肩のひとつも揉んでもらうことすらしてもらえんかった。だから最初で最後の孝行じゃ、大馬鹿者のおまえには、これが唯一の親孝行だよ」

というが早いか、小人は二言三言何かを唱えると、男の口から生気を抜き取りそのまま飲み込むと、何処かへ行ってしまった。


張黙庵の死体が見つかったのは、それから三日後のことだった。物を借りにきた隣の者が、座禅を組んだまま既にこときれていた彼を見つけた。

せめて遺骸は母親と同じところに、と母親の墓を掘ってみると、そこにあるはずの母親の遺骸は影もかたちもなかったのだった。

唐の文宗の頃に起こった話である…


〔了〕

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孝行息子 嶋丘てん @CQcumber

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