終章
忌語りの災難
雲が落とした影の境に、クランは悠々と寝転んでいた。遠く市環を見下ろす斜面に、王都の喧騒は届かない。髪を毟ろうとした仔山羊を追い払ってからは、独り柔らかな陽射しに微睡んでいる。
帰還したサルカンに事後の雑事を放り投げ、さっさと宮廷を出たのは正解だった。一連の事情を察する一握りも、居ては却ってややこしくなると、クランを追うのは諦めたようだ。
どうせ未払いの給与を盾にして、当面、クランはまだワーデンに繋ぎ留められている。
何せ、今回の絵を描いたのはサルカン自身だ。強くは出られない。穏便に進めるつもりだったのかも知れないが、弟子の動きを読み違えたのは失態だ。同情する気も起こらなかった。
偉そうに髭を伸ばす前に、もう少し捻ってやればよかった。一〇〇年ほど逸したようだ。
実際、
ラエルの投獄は避けられないが、カーディフの名も古魔術の関わりも、公には伏せられるだろう。王位継承の余震はまだ続いている。ここで火種を増すのは、双方にとっても、ただの愚行だ。
いささか過ぎた感もあるが、ラエルが図太くなったのは僥倖だ。魔術書の差し入れがある限り、あれに不満はないだろう。公然と引き籠る師匠に、アディの気苦労は増えるだろうが。
風の境が緑の色合いを変えて、牧草の上を渡って行く。クランはポツンとその中にあって、長衣の裾が風に引かれている。さて、未払いの給料と、この先の面倒をどちらを取るべきか。
草を踏む音が忙しない。仔山羊が髪を毟りに来たのか。クランは微睡から引き戻された。
「起きろクラン、寝ている場合か」
不意に日射しが陰った。覗き込んだ頭巾の奥に、大きな螺鈿の瞳がきらきらと輝いている。
「誘拐されるかも知れないぞ」
キャスロードを邪険に押し除けて、顔を顰めながら身を起こした。後ろ手を組んだキャスロードは、鼻歌まじりにクランの周りをひと廻りすると、すとん、と勝手に隣に座り込んだ。
「本当だ、サルカンがそう言っていた」
「呼び出された覚えはない、講義だってあれの仕事だ」
ふと思い至って、クランは隣のキャスロードを半顔で見おろした。
「魔術を習うのが嫌で逃げて来たのか」
モルダスに押しつけられた講師の役目は、結局、熨斗をつけて投げ返した。そもそも、最初からモルダスが務めればよかったのだ。王女にも、
勿論、
「いや、それはなくなったぞ」
「何だと」
「よくわからないが、強力な二つ名が付いたせいで、サルカンの術派も刻めぬらしい」
クランが呻いた。シリウスの悪戯だ。
「あの大英雄が付与したものだ、さもあらん」
キャスロードが満面の笑みを浮かべて胸を張る。それが何を意味するかを知っていれば、そんな顔はできないだろう。クランは嘆息した。不穏な事実を伏せるのも、忌語りの役割だ。
「マリエルなぞ、未だ羨ましいと泣くのだ」
「泣いていません、殿下」
追い付いて来たマリエルが、憮然として言った。一拍おいて、口を尖らせる。
「いえ、確かに羨ましいですが」
心酔する物語の英雄を見損ねたマリエルは、あのあと回復を待つ間、延々と悲嘆に暮れていたらしい。治癒院で同室にいたコルベットは、鬱陶しさの余りマリエルを病室から蹴り出したという。
「この体力馬鹿」
喘ぎの混じった声が後ろから追い掛けて来た。コルベットが肩で息をしている。かく言うコルベットも、同院のアディをからかいに通った挙句、面会禁止を言い渡されて放り出された。
「早くしないと、来ちゃうわよ」
斜面の下を指してコルベットが言う。
「来るって、何がだ」
不穏な言葉にクランが睨む。
「言ったであろう、サルカンが貴様を攫いに衛士を寄越したのだ」
訳がわからない。
「だから、攫われる前に助けてやろうと、こうしてわざわざ来てやったのだ、有り難く思うがよい」
満面の笑みを浮かべるキャスロードを眺めて、クランは不意にそのツンとした鼻を摘んだ。
「ひゃめろ、ひゃめないか」
「何があった」
クランの手を振り払い、キャスロードは鼻を押さえた。
「竜だ、東崖の裂孔に竜が出た」
涙目で答える。
「言っちゃった」
「騙して連れて行こうって言ってたのに」
マリエルとコルベットが呟いた。
「竜だぞクラン、見たいであろう」
キャスロードが口を尖らせる。
「修行によいと思うのです」
「鱗を何枚か持って帰れやしないかな、と」
勘弁してくれ。クランは喉の奥で悲鳴を上げた。未払いの給与など放り出して、さっさと逃げればよかった。キャスロードが跳ねるように立ち上がり、尻の草を払ってクランを見おろした。
「来いクラン、我の供をさせてやるぞ」
螺鈿の瞳を輝かせ、キャスロードはクランに手を差し出した。
王女の迷宮譚 marvin @marvin
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