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雷比

青くて、そして群青い

ただ単調だ。只々単調なのだ。甚だ単調だ。単調でしょうがない。

床に置かれた籠から一枚を取り出し、只々決められた通りに縫っていくだけ。周りの人間も同じだ。同じ様に座り、同じ様に息を吐き、同じように疲れていく。そして終わった後はこういうのだ。

「今日も飲みに行くぞ!」と。覚えていない程服を縫った時、今日もそう声を掛けられた。その大男は酒臭い息で私の肩に手を回す。この事をされる度に嫌気が差す。だが、断れない情けない自分がここにいるのだ。この男が少し偉いからと頭が上がらない自分が。


ぬるくて、異常に苦い出所の知れぬ瓶ビールを飲み干し、喧噪から目を背けくぐもった姿見を見た。何度見てもそこに映るのは青い服を着た自分だ。

『ブルーカラー』私は世間でそう言われる人間だ。企画や事務等をやる人間は襟が白い服を着ているからホワイトカラー対して、今、青い服を着ている私の様に工場などの現場で働く人間は襟が青い服を着ているからブルーカラーと呼ばれる。

ブルーカラーの中にも資格を取らないとなれないものがあるが、私はそうではない。誰でもできそうな裁縫の仕事だ。


私は一体何処で道を間違えたのだろうか。いや私は何も間違えていないし、誰も間違えてはいない。一つの不運があっただけだ。私は勉強ができた。それはそれはできた。将来官僚になって家族を豊かにする。幼いながらそんな夢を抱いたものだ。

ロドリゴ・ペレス、国にとっては一人の労働者に過ぎないが私にとってはたった一人の偉大で厳しく、そして優しい父親であったし、大学に行かせることを約束してくれた。だが、彼はもうこの世にいない。何の予兆もない突然死だった。

数年経ち、小さかった私、ミゲル・ペレスは16歳になり学校に行かずに働きだしてからもう四年になる。

いくら酒を飲み酔ってもこの心の渇きは癒されないし、忘れることもない。


この生活が変わることはない。決して抜け出すことはできない。だが働けているだけマシなのかもしれない。窓の外に広がるゴミの山とそこにいる人を見てそう思った。私にとってこの世は煉獄の様な場所でしかないとつくづく思う。母も働いているがそこまで稼ぎが良いわけでもなく、私もそこまである訳でもない。別に死にはしないが、色々なものをあきらめなくてはいけない。そんな毎日だ。


今日も同じことの繰り返しだ。布を取り、いつもの様に縫う、それだけ。

ミシンは不快な轟音を出し続け、寸分違わぬ面構えで同僚は作業している。大男は自分こそが神と言わんばかりに虚栄で満たされた胸を張り、大黒天の様な腹を得意げにぽんぽんと叩き、気に食わぬ人間を脂ぎった拳で殴るのだ。

私は勿論その「気に食わぬ人間」の一人だ。毎日殴られている。

「3月ももう最後だと言うのになんだこの生産量は!お前だけ少ないじゃないか!」

今日もそういちゃもんをつけられ殴られた。思わず涙が出てきた。別に殴られ痛かったわけでも言われて悲しかったからではない。それは私の日常なのだから。

私は大男の言葉を聞きこう思ったのだ。

嗚呼今日私は誕生日なのだと。ついにそのようなことも自覚できなくなったのかと悲しくてしょうがなかった。同時に誕生日にもこんな職場に縛り付けられる不甲斐なさと、誰も祝ってくれない職場への怒りがふつふつと湧いてきた。


私は怒りに任せ、白いペンを取り出しこう書いた。『今日は私の誕生日!』と。嗚呼解雇かなぁと思いながら大男に向かいそのシャツを投げると、そのシャツは突風により窓の外に飛んで行った。別に面白くもなんともないのに、何故か笑いたくなりクスクスと声を押し殺して笑った。「売り物を粗末にするな!」と大男にグチグチと言われたがどうせ私の給料はこの大男が決めるものではないからどうでもよかったし、殴られても痛さを感じなかったから何も覚えていない。


仕事が終わった後笑った。ビール瓶を叩きつけアスファルトに転がる砕けたガラスの破片を見て笑った。そんな自分を見て私は私を嗤った。今日何かの線が切れたのだ。プツリと。捻じれ、縒られ、引き裂かれ音も立てずに切れた。


もう何も望むものも生きる理由も無いと思った。


私はゴミの山に向かい歩き出した。何の価値の無い私には相応しい最期がある。私には人に迷惑を掛ける資格が無い。金が無いだけで夢を諦めるような男だ。それも家族を幸せにするという夢をだ。そんな人間が一丁前に飛び降りて自殺しよう等思ってはいけないと思う。マフィアに刺されるか、ゴミの山に埋もれるのがお似合いだ。


名状しがたい腐敗臭がする。自殺者の気持ちなんてわからないだろう。何故なら多くの人間は自殺しようと思わないのだから。私も今日何かの線が切れるまではそうだった。だが、今なら言える何故か晴れやかな気分なのだ。例えるなら、そう!課題が終わったような感覚である。私は今日、無意味な生をここで終わらせることに決めた。


決して心残りが無い訳ではない。何よりも愛している母がいる。私が学校に行かなくなった時も、夜遊びをし、朝に帰った時もこの荒んだ私を信じて肯定してくれた。そんな純粋無垢な母と私は暮らしている。


私はそんな母に良い暮らしをさせていない。私のちっぽけな稼ぎの大半は母の収入と合わせても食費や光熱費に消えていく。昔は良かった。父が生きていた頃はそれなりに豊かで、何より希望に満ち溢れていた。その頃の父母は思い浮かべていたはずだ。私が大学に行き、稼ぎ、父母と私とその妻と孫とで幸せに暮らす未来を。

そんな黄金の過去とあり得たかもしれない未来が私の心を苛み、囁く。こんな人生を続けるのかと。母をまだ苦しめるのかと。


母は苦しい素振りを見せない。いつも笑顔で私が夜遊びから帰ってきた時にはこう言った。

「いつもお仕事お疲れ様。あんたはすごいんだからこんなに仕事をしても弱音の一つも吐かない。やっぱり自慢の息子だわ」

母は、本心で、心からそう思って言っているのだ。私は、そんな母の期待も優しさも普段から何時に帰っても温かい夕食を出すその献身をも裏切り続けている。酒を飲んでいるのに仕事をしていると嘘をつき続けている。

そして、私の首を、その嘘を本気で信じ、私の可能性を信じ続ける母の純粋さと優しさが真綿で絞めていく。私の首が私自身の悪行と母の善行で絞まっていく。


もう裏切りたくない。私はそう思い続けていた。だが、私自身が変わることは出来ない。何度も何度もやめようと思った。酒を止め、勉強し公務員になれば少しでも母に償えると思った。しかし、私は堕落し尽くしてしまった。気づいたら場末の酒屋にいる。


私は私に絶望し続けていた。そして今日、その問題の最終解決を図ることにした。


私は、堕落し尽くしてしまった。この私は、いないほうがいい。このまま無意味な人生を続けたところでどうなる。私は勿論、母も私の為に結婚もせず、私の世話をし、歳をとった後は私によるどうしようもない介護を受けて死んでいくだろう。

私はビール瓶を割って笑う私を見て気づいたのだ。このどうしようもない『私』という男はいるだけであらゆる人間を不幸にすると。


私がいなくなれば母を裏切ることはない。

私がいなくなれば、まだ三十代であんなに性格が良い母は誰とでも結婚できるだろ。う。そして私なんかより優秀で人格者の人間といつまでも幸せに暮らせるだろう。

愛しているからこそ、母には私を忘れてほしい。そして、母には自分を責めないでほしい。私は私自身の意思で死ぬのだから。


私は、墓を建てられない為に、忘れられる為にこのゴミの山へと来た。下劣な私はここで死ぬべきなのだ。


今までごめんなさい。母さん。これが、これこそが私にできる精一杯の親孝行なんです。最後に一つ願うのなら、私を忘れてください。


私はそう唱えて、ゴミの山を登る。何か変われた気がした。私は、この私以外美しい星でたった一人の愛する人を救う為に死ぬのだ。そして、迷いもなく悔いもせず、自らを殺し抹消する一歩を



踏み出せなかった。


私が踏み出せなかった訳ではない。誰かが裾を引いている。私は顔も振り替えずに手を離させようとした。どうせ警察とかだろ。


「その自殺意味ないよ」

そう言ったのは少女だった。驚き振り返ると「そんな訳ない」と口を開くことすらできなかった。

美しい。ただそう思った。肌は荒れを知らず、髪はスラリと腰まで伸びる銀髪で、目は大きく緑色の目はまるで翡翠がはめ込まれているようで、思わず息を呑んだ。細すぎず、太すぎない脚は足元のゴミの山とは余りにも不釣り合いであった。ワンピースは煤で汚れいていたがそんなことは問題ですら無い。だってそうだろう。宝石は曇っても宝石なのだから。


改めてこう聞いた。

「どうして意味がないんだい?私には生きる理由がない、そして私が死ねば母が救われる。それにここで死ねば見つからない」

彼女は、不敵に微笑みこう言った。

「12日と23時間46分28秒後あなたの遺体は見つかるよ。貴方の母が一生懸命探してね」

彼女は何を言っているんだ?ホラ吹きかな?

「例えそうだとしても私が死ねば母はいい男と結婚できるだろう。だからそれでも私は死ぬ」

「貴方の母も死ぬよ?」

「そんなはずは......」

「貴方のぐちゃぐちゃになった遺体を見て、自分が悪かったと後悔して死ぬよ?」

「さっきから適当に言っているのか?あまりおちょくらないでもらいたい」

「事実死ぬよ?」

何も根拠が無いのに、彼女はにやけているのに、信じろと脳が訴えるのはなぜだろうか?脳に直接事実が入ってくるような本能的に信じたくなるようなそんな話し方を彼女はする。


「そうだなぁ.....」

そう言って彼女は私の周りをグルグル周り始めた。

「昨日貴方は、ビールを7杯飲んで、タバコを11本吸い、家に帰ってから2時37分から6時52分まで寝た」

彼女は私の行動を突然述べ始めた。

「今日貴方は10時27分に上司の大男に殴られ、その3秒後に大男を睨みつけた。貴方は10時48分に気分が乗らないから昼飯を抜こうとしたけど、11時18分にやっぱり食べようと思った」

心底驚いた。そして恐怖を抱いた。なぜ私の心の内まで知っているのだろうか。おそらくさっき彼女が述べた母が死ぬことは本当なのだろう。彼女は一体何者なのだろうか。

「ね、信じてくれた?」

いつの間にか近づいていた彼女がそう耳元で囁き、理性は飛び、黙ってうなづくしかなかった。


「少女よ、どうして知っているのか分からないが教えてくれてありがとう。私は帰らせてもらうよ」

私は、そう言い帰ろうとした。あんなことを聞かされた後に自殺する気など無くなっていた。それに、これ以上ここにいると彼女に引き寄せられてしまう気がした。

「お兄さん、待って!」

彼女は内緒話をするように人差し指をふっくらとした唇につけ

「お兄さん、私と契りを交わしましょう」

と言った。

「契り?」

「私はこのボロボロの服の通り、行く宛がないの。でお兄さんはどうすればいいかが分からない。じゃあ私が色々とアドバイスしてあげるから私を住まわせない?って話。いいでしょ?」

そう言い彼女は微笑む。私が死ねば母も死ぬ。かと言って死なずに帰っても何をすればいいか分からない。そんなことはわかった上で提案しているのだろう。彼女の美しさと全能さを見ると疑いたくなる。彼女はどうしようもない私の為に降りてきた天使なのかと。はたまた私をさらに地獄へ突き落とす悪魔なのかもしれない。

私はそんな謎の少女の提案に首を縦に振った。少しでも母の生活が良くなることを願って。


「交渉成立ね!」

そう言い彼女は手を差し出す。とても冷たい手だった。

「そういえばお兄さん今日誕生日でしょ?」

唐突にそう聞いてきた。

「そりゃ....まあ」

「売り物を粗末にするのは良くないよ?」

そう言い彼女は私が今日窓の外に投げた落書きTシャツを出した。

「誕生日おめでとう、ミゲル・ペレス」

彼女のその言葉に私は涙を流していた。彼女は私の涙をその美しくて冷たい手で拭った。彼女は私に語りかける。

「ここから始まるの、私達の新たなる半生が」

「そんな大げさな」

「まあ大袈裟なぐらいがいいんじゃない?そうだ、誕生日プレゼントとして、契約の一貫として一つアドバイスをお兄さんに」

「何だい?」

彼女はいつになく真剣な顔でこう言った。

「お兄さん、幸せって当たり前だけど物質じゃなくて精神なの」


最初は何を言っているか分からなかったけど、だんだん分かって来た。私が今の優しい母親との衣食住には何とか困らない生活を共に笑い合って過ごせたら、確かに幸せかもしれない。頭を殴られたような気分だった。


これからは不思議な居候の少女と私と慈悲深い母親の三人で笑い合って暮らそう、貧しくてもこれが幸せというものかもしれないと思った。『清貧』、馬鹿にしていた価値観だったがそれは過ちだったのだろう。


今日、私は『等身大の幸せ』というものを知った。よく考えれば人によって幸福の価値観が違うのは当たり前だ。彼女は『当たり前』をくれた。感謝してもしきれない。しかしそれは私が彼女に依存していくことを意味した。


でもそれでもいいと思う。共依存でも共に堕落しきっても、彼女と母過ごせて笑えるならそれでいいのだ。それが『幸せ』なのだから。私の中では既に名前も知らないその少女は無くてはならないものになっているだろう。心臓が少女の顔を、脚を、声を思い出す度に高まってしまう。


ゴミの山から海を見た。自分の失敗に囚われ自分を駄目だと思いこんでいた昨日までの私なら、汚らしいと思っただろう。まるで自分のようだと。だが今は違う。ゴミの先にある海を見て


青い、そして群青い海だと思った。


青い、そして群青い春だと思った。

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