終章 旅の終わりは……

36 その日まで

 それからの数年はあっという間だった。


 国際軍事法廷に証人として駆り出されたイヴァンは、センセーショナルな存在として、一時は日々の報道に、彼が登場しないことは皆無といった有り様だった。

 だが、イヴァンの立場は微妙で、つまりは、彼の証言により自国の政府を追い詰める結果になったわけだから、それを当然良く思わない輩もいて、家に脅迫状が届くこともあれば、さらにはイヴァンの命を狙う者すら現れた。

 本当に、法廷の保護下に置かれていなかったら、せっかく助かった私たちの命は、あっけなく消し飛んでいたに違いない。


「まったく、戦時中のどの戦場でよりも、戦後の生活でのほうが、よっぽど命の危機を感じるってのは、一体どんな皮肉なんだ」


 イヴァンはそのたびに、左目の薄いブルーの瞳を陰らせては、私に嘆いたものだ。


 それでも裁判が結審し判決が下り、さらに講和会議も無事終結して、ある程度の落ち着きを国際社会が取り戻すと、私たちの周りからマスコミも退いていき、ようやく私たちは普通の市民としての生活を送れるようになった。



 そんなある小春日和の秋の日、近所の公園へ散歩に出かけたときのことだ。

 イヴァンは、ゆっくりと歩を進めながら、唐突に、私にこう零した。


「なあ、スノウ。俺は生き延びて良かったのだろうか。俺は結果として、巨大な戦争犯罪を公にする役目を与えられて、のうのうと証人なんて演じてみせたが、この手を血に染め、あるいは自らの命令によって、幾多の敵と味方をあの世に送りつけた日々を、俺は、忘れていない」


 そして彼は、眉をひそめて、呟いた。


「たしかに、俺は、国を信じ、だが、奴らに裏切られ、愛するものを謀殺された。とはいえ、同じ人殺しというならば、俺が告発した連中と、俺は大して変わりはない。俺に、戦争犯罪の被害者を気取る資格は、本来はないんだ」


 それに対して、私は少し時間を掛け考えた後、ゆっくり、言葉を選びながら彼に向かい合い、こう言った。


「ねぇ、イヴァン。当たり前すぎる答えかも知れないけれど、あなたは、生きていて良いのよ。むしろ、生き続けることが、あなたの責任、いえ、これからの旅じゃないかしら。あなたが殺した人、あなたのせいで死んだ人、そしてあなたを陥れた人の分だけ、生き続けて、生き続けて、その末にやっと、その手を血で染めつつも裏切られたイヴァン・ドヴォルグという人間は、戦争を全うできるのよ。そして、私はその闘いと同じ旅路にいることを選んだの」


 そして、私はさらに語を継ぐ。


「そういう意味では、私たちの旅はあのヒモナスの雪の中で終わったんじゃないわ。それに」

「それに?」


 私は彼に、悪戯っぽく笑って見せる。


「それに、私に長生きするって、約束したでしょ。大切な人との約束を守るのも、人生では重要なことじゃないかしら」


 左手の薬指にはめた、青い石の指輪を秋の陽にかざして、私はそう微笑んだ。

 イヴァンが頷く。そして私に囁く。


「スノウ、ありがとう。俺は、君のおかげで生き続けられる」


 そして彼は、立ち止まると、私を抱き寄せ、唇に自分のそれを重ねる。

 相変わらず不器用で、でも、激しくて、柔らかくて、温かい口づけ。

 そのたびに私は彼の存在の大きさに溺れそうになる。


「こちらこそ、ありがとう。イヴァン」


 私は彼から顔を離すと、秋のひかりのなか、呟いた。


「人間は清くも在り続けられないし、逆に、汚れても在り続けられないものね。私はそれを教えてくれただけで、あなたという存在が愛しい」


 そして、私はその自分の言葉から、あることを思い出す。


「そういえば、あの旅の途中にも、私にそんなことを教えてくれる絵を描いてくれた青年がいたわ。彼の名はなんていったかしら。あの絵は、私がキースに捕まったときのどさくさで、どこかに行ってしまったけれど」


 途端にイヴァンが、むっ、とした顔で私を見る。


「違う男のことを考えるなよ、俺の前で」

「やだ、ジェラシー?」


 彼は即座に頷いた。そしてもう何も喋るなと言わんばかりに、また私の唇を覆う。

 次に、彼はひとつ咳払いすると、あの綺麗な薄いブルーの左目で、私の顔をのぞき込みながらこう囁いてくれた。


「本当に大事なことなら思い出せるさ。そうでないことなら、忘れてしまう。それが人間だ」


 さらに、イヴァンは真面目くさった顔でこう付け加えるのを忘れなかった。

 

「俺が言うんだから間違いない」

「たしかに、そうね、あなたが言うんだから、間違いないわ」


 そして私たちは、また歩き始める。

 ゆっくりと杖を支えに歩むイヴァンの足元で、枯れ葉が、かさかさと音を立てる。

 私はその速度に合わせて、寄り添うように、足を運ぶ。

 

 そう、私たちは、足を運び続ける。


 あるときは、記憶を求め、あるときは、それを捨てて。

 新たな思い出を、互いの人生に上書きしながら。


 真の旅が終わるその日まで。


 了

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Dearest.最愛の君よ、星屑の向こうで待つ つるよしの @tsuru_yoshino

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