第3話 私という存在

大きな出窓のバスケットから、かわいらしい二体のぬいぐるみが私を見つめている。ひとつは黒うさぎで耳が垂れ下がっている。その隣に寄り添うベージュの子うさぎの片方の目は取れかかっていた。

白くて清潔なラグマットとバラ柄のカーテンは、私の気持ちを落ち着かせてはくれない。

ソファに無造作に置かれた赤いランドセルと黄色い帽子は、この家の娘のものだろう。


「美幸は塾に行っているんですよ」


私の目の前の、化粧気のない若い女の口元が緩んだ。

女は下平奈津子といって、私の父親と愛人との間に出来た最初の子供だ。しかし、奈津子にとってはそんな昔の事など関係ないのだろう。

私は居心地の悪さを感じてはいたが、今更引き返す訳にもいかずに黙って差し出されたお茶をすすった。

奈津子は言った。


「お父さん、きっと喜ぶと思います」


私にとっては不甲斐ない父でも、奈津子達にとってはかけがえのない存在なのだろう。

昔に母から聞いてはいたが、父は新しい家庭では酒も一切飲まずにギャッブルにも手を出さなかったのだという。


真面目に働いて陶器の販売会社を立ち上げて、妻と二人の娘と幸せに暮らしていたのだ。私達家族が借金まみれの中で…。

無論そんな事は口には出さなかったが、私にはそれを許した母親も理解が出来なかった。

母の葬儀の時、父は泣き崩れていた。

自分のせいだと何度も頭を下げていたのが許せなくて、私は父の胸ぐらをつかんで声を張り上げてしまった。


「あんたのせいな訳がないだろう! 母は病気と闘って立派に死んだ! あんたの存在は関係ないことだ!」


父の存在など関係ないのだ。

母と私と、姉と弟で苦難を乗り越えて生きて来た。どんなに食うものがなくたって、窓の割れたボロ屋に住んでいたって、笑い声だけは絶やさずに生きて来たのだ。

私達の親は母だけだ。

だから父のその言葉が許せなかった…。

私は忌々しい記憶を排除しようと、奈津子の部屋を見渡した。

小さなテーブルの上のバームクーヘン。ファンシーケースと化粧台。マガジンラックの最新号の夫人雑誌。

整理整頓が行き届いた部屋だ。

私は気を取り直して聞いた。


「あの、ご主人は?」


奈津子はかすかに微笑んで言った。


「今日は夜勤なんです」


「工場勤めか何か…?」


「いえ、タクシーの運転手なんですよ」


「そうですか」


奈津子は壁掛けのミッキーマウスの時計を見て。


「あ、そろそろ行きましょうか?」


と立ち上がった。

沈みかけの太陽を私は気に入っていた。

西の空の切れ目に、エメラルドグリーンの光の帯がどこまでも続いている。

途中の商店で私は父の好物の煙草を買った。

すっかり忘れているものと思っていたが、私の記憶には父の吸っていた煙草の銘柄が刻み込まれていた。

舗装された綺麗な道を、私と奈津子はゆっくりと歩いて登る。

父に合わせてくれと頼んだのは私の方なのだ。

母の手帳の父の電話番号を頼りに、この鹿屋の地に辿り着いた。

奈津子は私と一回りほど年齢が離れてはいたが、立派な母親に思えた。

父が再び離婚をしたと聞いたのは、母が死んで一年後の事だ。

だが理由には興味がなかった。他人の家庭の事情など知ってどうなるものか。

砂利道を踏みしめる音に混じって、奈津子の声がした。

それは独り言のようにも聞こえる。


「父が離婚したのは、母の浮気が原因なんです」


私は黙って聞いていた。


「いろんな話は聞かされてましたから。私は正直自業自得なんだと思っています…」 


私は奈津子を横目で眺めた。

淋しげな口元と鼻筋が父と似ている。私にも似ているその顔は、ぼんやりと空をみつめていた。

砂利道を下って来る人々が私達とすれ違う。

その度に砂の粒が舞った。

私達は急いだ。

この先で父が待っている。

父の墓前に花を供え、線香をあげながら奈津子は話し始めた。


「お父さん、真治さんが来てくれたよ…」


線香の煙はゆらゆらと風に身を捧げている。

凛とした空気の中で、私は奈津子の猫背の後姿を眺めて父の墓に手を合わせた。

父は自殺を図ったのだ。

離婚して会社も倒産して自宅アパートで首を吊った。

誰にも看取られることもなく、たった一人きりで居なくなってしまった。

父の足元には大量の酒瓶が転がっていたという。最後まで弱い人間だった。

残された子供たちの事など全く考えもしないで、女に振り回され続けた一生。こんな親にはなりたくないと思い続けた父はこの霊園で静かに眠っている。

私は買っておいた煙草を供えて墓石に手を触れた。

そうするつもりではなかったが、自然に触れてみたいと思ったのだ。

冷たい感触はやはり何も語ってはくれない。

言葉を交わした最後の日からの濡れた温もり。

あれから何年経ったのだろう。考えた事もなかった。考える事をやめていた。

しかしこれが父なのだ。

奈津子の嗚咽が私の背後で聞こえる。

大切な人を失った悲しみの声だ。

父はこんなにも必要とされていたのに、自分で人生を終わらせてしまった。

私は悔しくて何度も何度も父に触れた。

そして心の中で詫びた。

あの時、声を荒げた事を許してください。

エメラルドグリーンの空に、いつしか線香の煙は真っ直ぐに立ち昇っていった。


大家さんは昔からの人懐っこい笑顔で、私にみかんを差し出して言った。健康的に焼けた肌はとても八十歳とは思えないくらいに若々しい


「また来んね。そん時は立派なマンションが建っちょっが!」


私はみかんの皮をむいて、四,五粒まとめて頬張った。

幼い頃からの食べ方だ。

大家さんはそれを見て微笑んでいる。

轟音が周囲に響き渡り、土埃が防塵シートの隙間から舞い上がっている。私達家族が住んでいたアパートは、剥き出しの骨組みをさらけ出し、見るも無残な姿となっていた。

落書きした柱も、テレビにずっと光を奪われていた壁の黒ずみも、線香花火を家族で囲んだベランダや、美味しい匂いが立ち込めていた台所も。重機の騒音と一緒に消えてしまおうとしている。

家族の笑い声は、この場所でどれくらい聞こえたのだろう。

私が一緒に暮らそうと言っても、断固としてこの場所を離れなかった母の気持ちが少しだけわかる気がする。

死んだ父に涙する奈津子の存在を目の当たりにして、何故だか安心した正直な私の心も知る事が出来た。

アパートの梁が、重機の圧力に耐え切れなくなって真二つに裂けた。しがみついていた想い出は、こんなにも簡単に崩壊してしまうものなのだろうか。

私は考えていた。

遮二無二追っ駆けていた家族の理想とはなんだったのだろう。

その答えに納得できる日は、人の一生のうちに起こり得るものなのだろうか。

私の母は天命を全うし、父は自ら放棄した。

そこには死に物狂いに生きた人間の、強固なまでの意志が存在していた。

私に同じ事が出来るのだろうか…。

胸ポケットの中で、いつも通りの振動が私を感傷から呼び覚ましてくれた。私にはまだ帰れる場所があるではないか。

静子と娘の顔を思い浮かべながら、私は大家さんと握手を交わし歩き始めた。


「さてと」


太陽の温もりを、背中いっぱいに浴びながら呟いた。

東京に戻ったら、久々にキャプランにでも行ってみよう。

妻と娘を連れて。




おしまい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遠い故郷 みつお真 @ikuraikura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ