第20話 あの日の貴方を真似ている

ラルゼは宿屋の前で、深く息を吐き出した。空っぽになった肺にゆっくりと冷たい空気を吸い込むと、冷たさが全身に行きわたって背筋が伸びる。不安と恐怖を体の中から吐き出して、ラルゼはシュラルのすだれを持ち上げた。


 そっと中に体を滑り込ませると、受付嬢がぼんやりした顔でラルゼに視線を向ける。


「おはようございまーす」


 カウンターの横には草編みの椅子が五脚と石造りのテーブルが置かれている。ラルゼはソワソワと奥に視線を向ける。受付嬢はぼんやりした顔のまま、ラルゼの目の動きを追って「あぁ」と呟く。


「チーニさんと待ち合わせの方ですか」

「え、あ、えっと、はい」

「ちょっと待ってくださいねー」


 間延びした声を残して、受付嬢は奥のすだれの中に消えていく。一人残されたラルゼはフィルに貰ったカゴをぎゅっと強く握った。心臓がドクドクと早鐘を打つ。ラルゼは目を閉じて、深い呼吸を繰り返した。


「お待たせしましたー」


 受付嬢の声で、ラルゼは目を開く。


「答えが出たってことでいいのかな?」


 チーニの灰色の瞳がラルゼをまっすぐに見つめる。息を吐いて、吸って、ラルゼは口を開いた。


「ああ。俺はあんたとの取引に乗る」


 チーニの口角が小さく上がった。ラルゼは緊張で強張る体で深い呼吸を続けながら、チーニの言葉を待つ。


「お別れは済んだみたいだね」

「お別れなんてしてねえよ。俺は、すっげー金持ちになってまたここに戻ってくる」


 チーニの口から吐息のような笑い声が零れた。


「なんで笑うんだよ」


 唇を尖らせたラルゼの頭を撫でながら、チーニは口を開く。


「いい目標だなって感心したんだよ。聞きたいこともあるけど、それは馬車の中でにしようか」


 大ぶりの葉の包みをラルゼに手渡して、チーニは外を指さす。宿泊代金を払っているチーニを背中に、ラルゼは温かさの残る包みとフィルのカゴを抱えながら、すだれをあげようともがく。


 と、不意に後ろから手が伸びてきて、すだれを持ち上げる。ラルゼが振り返ると、受付嬢に顔を向けたままのチーニが腕だけ伸ばして、すだれを掴んでいた。


(なんか腹立つ)


 ラルゼは腰を曲げて外に出ながら、心の中で悪態をついた。そのすぐ後ろからチーニが出てくる。


「なあ、一個いいか」


 歩き出そうとしたチーニの背中に向かってラルゼは言葉を投げた。首だけで振り返ったチーニはラルゼの顔つきを見て、体ごと彼の方に向ける。


「なに?」

「なんであんたは俺を学院に入れようとすんだ? 取引の材料ならもっと他にもあるだろ」


 例えば、あの場で誰かを人質に取られたらラルゼは抵抗できなかった。

 例えば、病弱な妹の治療と引き換えにされたら、ラルゼに迷う余地はなかった。


 灰色の瞳が、じっとラルゼに視線を送っている。まっすぐに視線を返して、ラルゼは言葉を待つ。


「それが、君にとって最も魅力的な報酬だと思ったからだよ」

「だから、なんで報酬を与えようとすんだよ。普通脅すだろ」


 チーニは小さくため息を吐いた。


「君が断ったらそっちの方向で行こうと思ってたよ」

「なんでそれが最初じゃねえんだよ? 地上では報酬のが普通なのかよ?」

「さあ? 普通かどうかは知らないけど、僕らは穏便な取引を一番最初に提示する」

「なんでだ? 相手が報酬だけとって逃げたらどうすんだよ?」

「そしたら、また別の手掛かりを探すか、追いかけるよ」


 ラルゼは唇を尖らせて、首をひねった。


「僕は面倒くさがりだし、待つのも嫌いだから、正直、脅した方が早いし、安上がりだと思う」

「じゃあ、なんで?」

「それが国王陛下の望みだから。僕らに与えられた特権やお金は、陛下の望む未来を、より早く、より安定した状態で、掴むためにある。だから、僕らは陛下の望む形で権力を使うし、そうしなくちゃいけない。そこがブレたら、僕らは僕らで居られないから」


 チーニはそこで一度言葉を切って、小さく笑った。


「っていうのが、半分」

「半分?」

「もう半分は、僕の個人的なお節介だよ」


 柔らかな声が吐き出されて、ラルゼは首を傾げる。個人的に何かを貰えるほど、チーニとの関りが強いとは思えなかった。


「僕も、随分前に、ある人に拾われたんだ。まあ、その頃は推薦状なんて便利な制度はなかったから、戸籍を作るのにだいぶ無理を通したらしいけどね」


 チーニが肩をすくめて笑う。向けられた視線が優しくてなんだかむず痒い気持ちになったラルゼは、チーニから顔を逸らした。灰色の瞳はラルゼの奥に彼を拾った人を見ているのだろう。柔らかな吐息がその口元から零れる。


「質疑応答は終わりでいいかな?」

「へーきだ」


 ラルゼの言葉を確認したチーニは、公共馬車の乗り場とは別の方向へ歩き出した。ラルゼは自分より大きな歩幅で進むチーニに、小走りで追いついて声をあげる。


「馬車乗り場こっちじゃねえぞ」

「知ってるよ。ここから三番地に向かうとなると十三番地で乗り換えなくちゃいけないからね。個人用の馬車を借りて貰ってるんだ」

「こじんようのばしゃ……」


 ぱちくり、と瞬きを繰り返すラルゼを見て、チーニの口から笑い声が零れた。


「な! 笑うなよな!」


「ごめんごめん」


 ラルゼは唇を尖らせる。


「しょーがねえだろ。俺は金持ちじゃねえんだから」


 ラルゼがぶつくさと文句をこぼしている間に、この街唯一の貸馬車屋が見えてきた。黒い馬車を引く馬に話しかけていた金髪の女性が、二人の方に視線を向ける。


 黒いコートを羽織っているところを見るに、彼女も第一師団の人間なのだろう。ラルゼが近づいていくと、笑みを浮かべた女性が先に口を開いた。


「私は第一師団所属の一等士官で、レナ・メルザラ。よろしく」


 にこにこと愛想のいい笑顔で右手を差し出されて、ラルゼは戸惑いながらチーニに視線を向ける。


「握手だよ。右手に右手を重ねればいい」


 ラルゼはカゴと包みを左腕に抱えなおして、おずおずと右手を差し出す。柔らかな温かい手がラルゼの右手を包んで、柔らかく握られる。離れていった手の温かさに驚いて、ラルゼは呆然と自分の掌を見つめた。


「えっと、なんて呼べばいいかな?」

「え、あ、えっと、名前はラルゼ。みんなはラルって呼ぶ」

「じゃあ、ラルくんだね」


 レナはラルゼに笑いかけてから、欠伸をこぼしていたチーニに視線を向ける。


「この後どうします? 馬車はもう出発できます」


 チーニは馬車に視線を向けた後、鞄の中から巾着袋を取り出してレナに渡した。


「レナ、馬車の運転できたよね?」

「あ、はい、一応」


 困惑しながらも、レナはずっしりと重い巾着袋を両手で受け取る。


「じゃあ、それ使ってレナが運転できるように交渉してきてくれる?」

「え? なんでですか?」


 チーニは馬車を指さして、口を開いた。


「運転手に中の話が聞こえたら面倒だから。個人用の馬車は、記録を見ればどの運転手が誰をどこまで乗せたのか、すぐにわかる。僕らが探してる相手が、運転手を脅さないとは限らないでしょ」

「なるほど」


 レナは頷きながら、巾着袋を開いて中を確かめる。重さどおりの大金が入った袋を両手でしっかり持ち直して、レナはチーニに差し出した。


「いやでも、こんなに使ったら、今度こそニフさんに怒られますよ」

「全部使えとは言ってないでしょ」

「あ、ですよね。びっくりしたぁ」


 レナは差し出した両手を引き寄せながら、言葉を吐きだす。チーニは小さく息をついて、レナを半目で見やる。


「僕は別に経費を無駄遣いするタイプじゃないよ」

「あはは。そんな事おもってないですよー」


 レナは苦笑いを浮かべて「じゃ、行ってきまーす」と呟くと、逃げるように貸馬車屋に向かった。


「じゃ、僕らは乗ってようか。ラル」


 袋に入っていた銀貨の量に目がくらんでいたラルゼは、一瞬遅れてチーニの言葉に反応した。ぐるぐると回る大金を頭の隅に追いやって、チーニの後を追う。チーニに促されるままに馬車に乗り込んで、柔らかな背もたれに恐々と体を預ける。


(すっげーフカフカ。へんなの)


「じゃあ、始めようか」


 チーニはラルゼにそう言葉をかけて、口元から笑顔を消した。

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