第19話 きっとこの夜を何度でも思い出す

 一日の仕事を終え、わずかな給金を受け取ったラルゼは深くため息を吐いた。


「迷ってる」


 平坦な声が背後から聞こえる。振り返ったラルゼの視線の先で、フィルが首を傾げていた。声のトーンを操ることが苦手な彼女の疑問符は、いつも分かりにくい。最初に文句を言ったのは誰だったか。首を傾げたらわかりやすくて良いと言ったのは誰だったか。


 曖昧になってしまった記憶を探るラルゼと距離を詰めて、フィルは冷たい手で頬に触れた。


「つめてえよ」


 ラルゼは文句をこぼしたものの、その手を振り払うことはしない。冷たいフィルの手が、ゆっくりと優しくラルゼの頬を撫でる。


「好きなようにして」


 ラルゼよりも少し高い場所にある顔が、ゆっくりとほころぶ。珍しく笑ったフィルは頬を撫でながら言葉を続けた。


「ラルの好きなようにして。ベラもレイもプピーも私がちゃんと大人にしてみせる。ダンもアスもいる」


 ラルゼの頬の温度がフィルの手に移って、だんだんと温かくなる。残していく不安も。学院への期待も。一人だけ地上に行く葛藤も。全部、フィルにはバレてしまっているのだと、ラルゼは悟った。迷って、迷って、冷たくなっていた心が溶けていくような気がした。


「だから、大丈夫だよ。ラルがいなくても、ちゃんと生きていけるから」


 優しい顔をした姉貴分に、ラルゼはぎゅっと眉を寄せる。


「おれ、ひとりになったら、だめかもしんない」


 みっともなく震えた声がダサくて、ラルゼは更に眉間の皺を深めた。そうしていないとうっかり泣いてしまいそうだった。フィルはラルゼの頭を引き寄せて、その髪に指先を通しながら、囁く。


「ラルなら、だいじょうぶだよ」


 大丈夫だよ、と繰り返すフィルの声が、ラルゼの心臓に柔らかく浸み込む。優しい温度が体中の力を抜いてしまって、ラルゼの目からうっかり、涙が零れ落ちた。



 泣くことが久しぶり過ぎて止め方が分からず、ラルゼは随分長いこと泣いていた。ようやく涙が止まったころには、すっかり日が落ちていて、あちこちの酒場に明かりが灯っていた。


「俺が泣いてたとか誰にも言うなよ」


 ラルゼは鼻をすすりながら、フィルに視線を向ける。


「うん。でも、遅くなったからバレてると思う」


 平坦な声が返ってきて、ラルゼは小さく息を吐き出した。冷たい空気を吸い込んで、不安を飲み下す。フィルの冷たい手を引いて、夕飯を買って、ラルゼはいつも通りの帰途についた。フィルの冷たい手を、いつまでも覚えていられるようにラルゼは強く握る。


(これから先、すんげー辛いことがあっても、たぶん大丈夫だ。この手を思い出したら、たぶん、全部大丈夫になる)


 息を深く吸い込みながら見上げた空は、いつも通り真っ黒で、ちかちかと光る星がいつも通り腹立たしかった。



 フィルと一緒に、狭い我が家に帰ったラルゼはざわめきに迎えられる。


「あ! ラルやっと帰ってきた!」


 なぜかラルゼの家に集まっていた仲間たちの中心に座っているレイが最初に声をあげた。入り口で固まって瞬きを繰り返すラルゼの横で、フィルは我が物顔で家の中に入っていく。


「お兄ちゃん」


 ベラの声で我に返ったラルゼは、いつもより狭く感じる家の中に足を踏み入れる。


「ラル、ボクからはこれあげるね。それね、すっごい綺麗でしょ? 前に河原で拾ったの。すごいでしょ」


 レイが差し出したのは、丸くてすべすべした白い石だった。その横に座っていたアスは、変色し端の破けた本をラルゼの手に握らせる。


「僕からはこれさ。地上に行っても僕らのこと忘れないでくれ給えよ」


 それから次々に、ラルゼの手に大事なものを乗せていく。ダンは小さな光石。プラーピは破けた布切れ。よく見れば、破けた部分がメッセージになっている。ラルゼはプラーピの頭をなでながら笑う。


「私からはこれ」


 フィルの平坦な声と一緒に差し出されたのは、アストラガスの蔦で編んだカゴだった。


「ぼろだけど、まだ使えるから。大事なものたくさん入れられるように」


 ラルゼはカゴを受け取って、鼻をすすった。またみっともなく泣いてしまいそうで、目に力をこめる。寝床に座ったベラは満面の笑みを浮かべて、ラルゼに顔を向けた。


「いってらっしゃい。お兄ちゃん」


 ベラの顔があんまり綺麗で優しかったから、ラルゼの目からまたうっかり、涙が零れる。


「ねえねえ、ラル、お金持ちになってもボクらのこと忘れないでくれる?」


 涙目になったレイがラルゼの服を掴む。不安でいっぱいの顔をしたレイの頭をそっと撫でて、ラルゼは大きく頷いた。嗚咽を飲み込んで、涙を拭って、ラルゼは口を開く。


「金持ちになって、みんな迎えに来る」


 レイは涙が溜まった目を細めて、笑う。


 満腹になるには程遠い量の夕飯を囲み、欠けたマグカップで乾杯して、ラルゼたちは小さな宴会を開いた。狭い家の冷たい床に寝ころんで、身を寄せ合って眠ったこの夜のことを、ラルゼは一生忘れないだろう、と思った。


草編みのカゴに、大切な思い出を詰め込んで、ラルゼは明日、地下街を出る。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る