金色の額縁

 落下した。途端、静かなアトリエ内に張り巡らされた緊張の糸がプツリと切れる。灰皿、と視線を巡らせかけた時には既に遅く、先生の綺麗な指に挟まる煙草の先端でギリギリのバランスを保っていた灰が机を汚した。

「駄目だ。良い色が浮かばない」

 先生は深く煙草を吸い、煙と同時に言葉を吐き出した。そして煙草をボールペンのように耳にかけ、腕組みをしながらさらに続けた。

「色が浮かばないというのはどういうことかわかるか。そうだ、スランプだ。既に依頼人には三ヶ月も待ってもらっているのに」

「先生、待ってもらっているのは半年ですよ」

 煙草の灰を片付けながらそう訂正するが、返ってくるのは細かいことなどどうでもいいと言いたげな生返事のみで、すっかり思考の海に飛び込んでしまっていた。一度自分の世界に入ってしまった先生は、こちらの話には全くと言っていいほど耳を貸さない。溜まった膿を吐き出すようにしゃべり続けるのは先生の悪い癖でもあり、好きなところでもあった。

「人間の瞳にピッタリの夜を、だなんてとんでもない依頼だ。全く、君の大切な人の依頼だというから請けたらこれだよ。僕は先につくりあげた夜を、いっとう美しく映えるように切り取るのが仕事なんだ。オーダーメイドなんて本来受け付けてないんだよ」

 先生は長身を屈めながら天井から吊り下げられた図案をくぐり、夜の原材料である闇や星の入った棚を開けては閉めてを繰り返して、もう一度深くタバコを吸った。吐き出された煙は空気中に解けることなく漂い、天の川銀河を形作る。それを絵筆にたっぷりと含ませて一番近くの暗幕に夜空を描いた先生は、気に入らないとばかりに上から闇色の絵の具をチューブごと叩きつけた。

「瞳、瞳……猫の瞳では駄目なのか? しかしわざわざ人間の瞳と指定してきたんだ。駄目なんだろうな。くそっ、せめてどんな人間の瞳に飾りたいのかさえ分かればなんとかなるかもしれないというのに」

「一度依頼のことは置いておいて食事にしませんか。どうせ完全栄養食すらとっていないでしょう」

「闇の単色では美しくない。だが何色を混ぜるべきか……」

 手早く食事の用意をし、徘徊する先生を何とか捕まえて座らせる。両手にスプーンとフォークを握らせたところで漸く気がついたようで、大人しくスープを口に運び始めた。冷蔵庫には碌な食材が無かったため簡単な物しか用意できなかったが、まともな食事をしていない先生の胃にはこれくらいがちょうどいいだろう。スープに浸すためにパンを小さく千切っていると、先程の天の川銀河の残りが漂って来た。

「先生、これどうにかできませんか。口に入っちゃいそうです」

 目の前を横切る星たちから先生に視線を戻すと、何故か先生はこちらを凝視していた。

「そうか、元の色をベースに」

「先生?」

「動くな、そのまま」

 そう言った先生は、幾つかの引き出しの中から黒い小瓶と小さなピペットを取り出してくると、まるで目薬のように左右の目に点した。瞬間、世界が闇に包まれて何も見えなくなる。そのくせ視界はチカチカと明滅し、あまりの眩しさに固く目を閉じた。何も見えなくなった分鋭くなった嗅覚がいつもの銘柄の匂いをより強く感じさせる。その匂いが近くなったり遠くなったりして、部屋中を動き回っているのがよくわかる。カチャカチャとガラス製の器具がぶつかる音が響いて、何かが目元にかけられた。

「もう目を開けても大丈夫だ。よく見せてくれ」

 先生の優しい声にそっと目を開けると、明滅は収まっていて、その代わり視界がフレームに区切られていた。

「これは? いったい何を」

「その眼鏡は外さない方がいい。何も見えなくなる。……うん、美しい」

 じっと瞳を覗き込みながら頬に手を添える先生の顔はうっとりとしていて、自分の瞳がどうなっているのかを何となく理解した。

「クビってことですか」

「いいや、全額返金だ」

 折角先生の為にと引き受けて来た依頼だったが、もうどうでも良かった。この瞳がある限り先生の傍にいられる。それだけでよかった。

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四方山話 よもだ @yomoda

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