約束よ

紀祈-toshinori-

零章

啜り泣く声が聞こえた。

目の前で小さな子供が泣いている。その傍でひとりの女性が優しい瞳を向けていた。


『あら、どうして泣いているの?』

『お母さん……』


目の前の光景は古いフィルムの映像みたいに褪せていて、けれどどこか懐かしい匂いだけはする。

これは記憶だ。


『あのね……みんながバカにするんだ。僕にはお父さんがいなからって……』

『そう……それは辛かったわね。でも大丈夫よ、あなたにはお母さんがいるんだから』


そう言うと、女性は優しい笑顔で少年を抱き寄せた。

ああ、こんなことが確かにあったな。

その光景を眺めながら、宗一はそんなことを思った。その時自分がどんな顔をしているのか、彼は知らないのだろう。悲しいような、虚しいような、哀れむような、蔑むような、そんな目で二人を見ていることを、宗一は知らないのだろう。


突然世界が切り替わった。

相変わらず褪せたフィルムの映像みたいに見える世界。目の前には見覚えのある台所と食器棚があって、じめついた空気とやけに煩い蝉の声が聞こえていて、その中に風鈴の音が紛れ込んだ。

ふと気が付くと目の前にひとりの男が大の字で倒れている。頭部からは大量の血が流れ出ていて、血痕を目でたどっていくと自分の右手に握られた金属製のバットに行き着いた。

これは子供の頃よく使っていたバットだ。よく覚えている。元々黒っぽかったバットは塗装が殆ど剥がれてくすんだ銀色になっていたが、その上からへばりついた赤黒い血がそれを隠していた。ベコベコにへこんだ部分を沿うように血が滑り落ちて地面にぽたぽたと落ちる音がする。

何が何だか分からない。

蝉の声は次第に強まっていき、耳の奥で鳴いているような気がする。

視線を横に移すと、

気が付いた。

隣で身を震わせる一人の女性の姿に。こちらを見ているその目はまるでバケモノでも見ているようで、完全に怯えきっていて、あの優しかった瞳は最早どこにもなかった。

頭の中にセミがいた。



「あいつまた来たぞ……」

「何しに来てるんだろね……」

「おい、聞こえるぞ……」


二年A組の教室に入ると、またいつものようにヒソヒソとした声が宗一の耳に届いてきた。気にせず自分の席に座ると、彼は鞄の中に入れておいた小説を取り出して黙読を開始した。


宗一が本を読む理由、それは今いるこの世界から自分を切り離すためにある。本を読んでいると不思議と周囲の雑音が消え、自分がここじゃないどこかにいる気分になる。

そうして並べられた文字列を意味もなくただ目で追っていれば、チャイムの音が鳴り響いて、教室に入ってきた先生が無理やり周囲を黙らせてくれた。

本を読む理由が消え、宗一は栞も挟まず本を閉じた。


「え~今日はお前らに転校生を紹介するぞ」


担任の言葉を聞いて周囲が再び騒がしくなる。それが少し嫌で、宗一は耳を抑えて俯くのだった。


――――――


時刻は二時三十二分。五限目の授業が終わり、そこから六限目が始まるまでの十五分間を凌ぐために宗一はまた本を読んでいた。

そのとき、


「……え…………ねえってば」


宗一の右耳に話しかける声が彼を現実の世界へと引き戻した。

声のする方へ視線を送れば、知らない女子生徒が話しかけてきていたのだと理解出来た。


しかし焦った。

なぜ彼女は自分に話しかけているのかと。なぜ今、こんな公衆の面前で自分に話しかけるのかと。

宗一はこのクラス、いやこの学校で鼻つまみものだ。それは校内生徒全員が知っていることで、関わらないことが暗黙の了解となっている。だと言うのに、彼女の行為はそのルールから逸脱していた。だから宗一は彼女の思考が読み取れないで、ただ焦ることしか出来なかった。


「ねえ聞いてる?」

「な、なに……」

「だから、本好きなの?」


本は好きか。彼女はそう聞いているらしい。

答えを出すのなら「好きでも嫌いでもない」が正解であると言える。

しかし、


「…………」


宗一は何も答えなかった。答えるのが面倒だったわけでも、答えを忘れたわけでもない。言葉が出なかった。


「むっ……何で無視するの?」


女子生徒は顔をむくれさせる。

こう言われては答えないわけにはいかないと宗一は思って、


「別に……好きじゃない」


とだけ答えた。

答えを出し、役目を終えた宗一は再び本に目を移す。

しかし、


「へぇ、好きじゃないのに読んでるんだ。ねぇ、何読んでるの?面白い?もし良かったらおすすめの本教えてよ。あ、私のおすすめはねぇ……」


彼女の攻撃は終わらない。

どうあっても会話を終了させるつもりは無いらしい。

周囲の視線も痛い。このまま晒し者にされるのはゴメンだと、宗一は本を閉じて立ち上がると逃げるように教室を出た。


早足で廊下を歩きながら、バクバクとうるさい心臓を必死に抑える。そして人気の少ない階段の踊り場に着くと足を止め、一息つく。


「はぁ……何だあいつ……」


突如現れた未知の生物に、宗一は動揺を隠せないでいた。

これまで彼にまともに話しかけてくる人間なんていなかった。それなのに彼女は気さくに、まるで友達のように接してきた。彼女はきっと知らないのだ、浅羽宗一のことを。

頭の片隅に残っていた今朝の担任の話が引っ張り出され、宗一はひとつの結論に至った。

転校生だ。

スっと頭の奥が冷える感覚がする。

思った。

どうせそのうち彼女も離れていく。無知な彼女に親切な周りが全て教えてくれるはずだ。浅羽宗一のことを知って、それでも態々関わろうとする人間はいない。だから明日になったらまた、変わらないあの日常が始まるのだ。


しかし一週間が経った。


「ねぇ君、私と君の家近いんだよ?知ってた?てことで、今日一緒に帰ろうよ!」

「…………」

「あ、今日オープンのクレープ屋さんがあるんだって!やっぱり帰る前にクレープ屋さんに寄っていこうよ!」

「…………」

「あれ?もしかしてお金ない?しょうがないな~私が貸してあげるよ。その代わりまた今度何か奢ってね。あ、ちなみに私今欲しい洋服があってね」


彼女は離れるどころか、より一層しつこさを増していた。

朝学校に行けば「おはようと」挨拶をしてくるし、昼になると「一緒に弁当を食べよう」と言い出す。今度は一緒に下校だのクレープだのと言い始めていた。

席が隣だからか、お節介な先生に頼まれたかは分からないが、来る日も来る日も彼女は宗一に粘着し続けている。流石に周囲の彼女を見る目も変わり始めている頃だろう。

だから、


「あのさ、そろそろ迷惑なんだけど。悪いけど、もう関わんないで」


言ってやった、と宗一は思う。

その表情と声音は何ともクールで聞いたものは皆彼を冷たい人間だと非難するに違いない。それほど強烈な一撃をくらわせたのだ。


「…………っ、」


流石の彼女も一溜りもなく、愕然とした表情を浮かべた。

これでよかった。これで不要な縁を断ち切ることが出来た。宗一はそう思っていたのだが、


「……や、やっと口聞いてくれたぁ!」


これである。

流石の宗一も一溜りもなく、愕然とした表情を浮かべるしかない。

宗一は呆れ果てたように溜息を吐くと、静かにその場から立ち去った。



時は夕暮れ。

空の青に夕日の茜が混じって淡い紫色に見える。上から聞こえてくるのはカラスの声で、横から聞こえてくるのは川のせせらぎだった。

横を流れる川が目に付いて、何となく眺めながら歩いてみる。けど、いつにも増して照りつける夕日の光が水面に反射して眩しくて、やっぱり見るのをやめようと視線を逸らした。


「よっ、何見てるの?」


その先に少女の顔があった。


「うわぁっ!!」


宗一は驚いて数歩後ずさる。自分でも久々に聞いたくらい大きな声を上げていた。

そんな宗一を見た少女は、


「あっはは、そんなに驚かなくてもいいのに」


と笑う。

笑い声で彼女がいつもウザイくらい自分に話しかけてきていた女子生徒なのだと、宗一はすぐに理解出来た。そして同時に、宗一は初めて彼女の顔をしっかりと見たことに気が付いた。

黒く艶やかな長い髪に、大きく光る綺麗な瞳。透き通るような白い肌は陽の光で少しばかり赤く見える。


「な、なんで……」


思わず聞こうとしてやめる。だが彼女はその意味を予測して答えてくれた。


「帰り道、私もこっちだから」

「そ、そうじゃなくて……」


なぜそうまでして自分に関わろうとするのか聞きたかった。


「ねぇ、少しお話しない?」


彼女は小さな顔を少し傾けて、宗一の顔を覗くように言った。


――――――


「はい、これあげる!」


彼女はすぐ隣にある自販機から買ったきたであろうジュースを差し出す。ジュースの缶には奇抜な文字で『シェイクシェイクゼリー』と書かれていた。とにかく5回、10回振れば中のゼリーがバラバラに分裂して飲めるようになるのだとか。しかし宗一は炭酸が苦手だったりするわけで、缶を開けた時のカシュッという音を聞いて口を付けるのをやめた。


ベンチに座る宗一の隣に彼女が腰掛けたことで不安定なベンチがグラりと揺れた。老朽化しているのだろう。

そこは宗一の現住所から中々近い位置にある駄菓子屋で、小学校の頃よくここで買い食いをして下校していた記憶がある。

現在店の扉は固く閉ざされていてビクともしなさそうで、唯一店前に置かれた自販機だけが今も年中無休で営業を行っていた。

錆び付いていて今にも折れそうな二本の頼りない柱が支える店前のオーニングテントは、低い位置から照り付ける夕日には全く効果がなく日除けにもなっていない。


「飲まないの?」


不意に尋ねてきた少女にビクリと反応する。覗き込んでくる彼女の顔はキョトンとしていて、嫌味なほど綺麗な瞳をしていた。


椎名小春、それが彼女の名前だそうだ。

夏休みも手前というおかしな時期に転校してきては、一週間以上にもわたり宗一に付きまとってきた粘着少女だった。

その可愛らしい見た目から誰が予想できただろうか。


「あ、もしかしてゼリー嫌いだった?私好きだしみんな好きだと思ってた」

「いや、炭酸が苦手で……」

「なんだ~、じゃあ私のとかえっこしてあげる!私の午前の紅茶だし。はい、どーぞ!」


小春はほぼ無理やりシェイクシェイクゼリーと午前の紅茶を取り替える。しかし手渡されたペットボトルの蓋は既に開いていて、中身が少し減っていた。

だが小春はそんなことはお構い無しにシェイクゼリーに口を付けてごくごくと喉を鳴らす。


「ぷはぁ……やっぱり美味しいなぁ」


こんな少女だと、一体誰が予想できただろう。

宗一は一息ついて尋ねた。


「ねぇ、聞いていい?」

「うん」

「僕のこと、知ってるの……?」

「うん……クラスの子から聞いた」


ああ、そうか。

別に構いはしなかった。だが何故か、宗一は彼女が自分を知っていることをほんの少し残念に思った。


「ならどうして、僕に関わるの?」


最大の疑問はそこである。

彼を、浅羽宗一を知っているのなら関わろうとするはずがない。彼女の行動は理解出来ない。


「ねぇ君、クラスで何て思われてるか知ってる?怖いって、思われてるの」

「…………」

「同じ国の、同じ街の、同じ学校の、同じクラスの、同じ人間が。たかだか高校二年生の普通の男子が、みんな怖いと思ってるんだよ?こんなの、変じゃない……」


彼女の持つジュースの缶がペコッとへこんだ。


「しょうがないよ。僕は――人殺しだから」


中学二年の夏、宗一は人殺しになった。


咄嗟のことだった。

居間で母が襲われているのを見て、慌てて玄関の傘立てに差し込まれていた鉄バットを持ち出した所までは覚えいる。

その後記憶にあるのは、ジメジメと妙に暑い部屋に煩いセミの鳴き声が聞こえていて、地面に転がるよれよれの服を着た見覚えのある男と、床に溜まった血がみるみる広がって行く光景だった。

震えるような声が聞こえてきて、振り向いた先にあったのは、いつも優しい笑顔を向けてくれたはずの、母の怯えきった目だった。


死んだ男の名は沖野和久。

宗一の実の父である。宗一が小学校二年に上がると同時に母と離婚、その後何度か母に金をせびりに来ていたらしい。

あの時も、金を出さない母に激昂して暴力を奮っていたようだ。そこへ正義の鉄槌を下したのが、浅羽宗一だったというわけだ。


その後母は家を出た。

宗一は祖母に預けられ、これまでずっと罰も受けずにのうのうと生きてきたという話だ。


「誰が広めたのか、夏休み明けに学校に行ったらみんな知ってたよ……」


宗一は気がつくと全部話していた。

誰にも詳しいことは話したことなど無かったはずが、一時の気の迷いで無関係の人間にベラベラと話をしてしまった。隣に座る彼女は何も言わず、ただ真剣な目をしている。

だから、


「信じられる……?あのバット、昔父さんが誕生日にって僕にくれたものなんだよ。笑えるでしょ……」


笑ってほしかった。軽蔑してほしかった。自分という存在を否定してほしかった。

しかし彼女は、


「笑わない。笑わないよ」


真っ直ぐな瞳でそう言った。


「……怖いだろ?気持ち悪いだろ?」

「怖くない。気持ち悪くない。私は君を、立派だと思う」


立派。彼のやったことに対して、彼女はそう言ったのだ。そんなこと有り得ないはずなのに。

怒りにも似た感情が込み上げてくる。


「……嘘、つくな。お前もどうせ、僕から離れていくくせに……!みんなそうだった!友達も、先生も、母さんだって……!!」


立ち上がって大声で叫ぶ。彼女の言葉が、あまりに無神経に思えたからだ。


だってそうだった。

みんなあの目を向けてきた。

怖がって、彼を置いていった。

彼女だけ違うわけがない。彼女だけ特別なわけがない。彼女は嘘をついているはずなのだ。

だが少女はスっと立ち上がると、


「みんな知らないだけ、君のことを。君の気持ちを。教えてよ、君のこと……」


彼女は笑っている。

どこかで見た事のある笑顔で。

その表情を見ただけで、強ばった力が抜けてしまう。


「な、何を……」

「将来何になりたい?今日明日、何をしたい?得意なことは何??好きなものは?」


そんなものは存在しなかった。

人の人生を奪った宗一には、そんなものあってはならなかった。


「無いよ……そんなもの……」

「…………つまんない」


そうだ、僕はつまらない人間だ。

彼女の言葉に、宗一は全くの同意見なのだ。


「それじゃつまらないよ、君の人生。なら私が決めてあげる!」

「は……?」

「君の将来の夢はパイロット!今日は美味しいご飯を食べて寝て、明日は学校で私とお話をしたいの!得意なことは早食いと縄跳びと、人と仲良くなること!それから……好きな人は私」

「なっ」


訳が分からなかった。

こんな人間初めてで、対処の仕方が分からない。

何て強引な奴だと思った。こんな人間世界に二人といないだろうと思った。


「ははっ」


不思議と、笑いがこみ上げてくる。

宗一は耐えきれずに吹き出した。


「ちょ、ちょっと何で笑うの!?」


笑いが止まらない。

笑いすぎて、涙が出る。


「……はっ、馬鹿だな。君が決めたら意味が無いだろ……?」

「じゃあ、決まったら教えてよ」


彼女は小さな小指を差し出して

こう言った。


「――約束よ」





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