【番外編】修之輔の日記

 吹く秋風が涼しさよりも肌寒さに、そろそろ木枯らしにも変わろうかという頃、羽代城で住み込みの下働きとして働く木村が昼前の仕事を終え、居室の菊部屋に戻ると同室の三山が既に部屋の中にいた。自分の仕事は終わったのか、何かを熱心に読んでいる。

「三山、何を読んでるんだ。お前が書を読むなんぞ珍しい」

 木村がひょい、と三山の肩越しに覗き込んだ文机の上、広がっているのは綴じられる前の紙の束で、一枚一枚に読みやすい端正な筆遣いの文字が書き記されていた。紙の右端には日付が書かれている。思い当たって思わず大声が出た。

「それ、秋生が書いている日記じゃないか。お前はまた人の物を勝手に」


 秋生修之輔は三山と同様、木村と同じの菊部屋に詰める下働きである。半時ほど前に木村が三の丸の敷地ですれ違った時、秋生はこれから港の荷降ろしの手伝いに行くと言っていた。さっさと自分の仕事を終えた三山は同室の者が誰もいないのをいいことに、秋生がこまめに付けている日記を盗み読みしていたらしい。

「いいじゃないですか、減るものじゃなし」

 木村がそれを咎めても三山は気にする素振りも見せず手元の日記を読み続けている。

「だけどそれは秋生のだろう。読むなよ。今すぐ元に戻せ」

「読まれたくない物だったらここに置いたままにしますか」

「だってそりゃあ、書いたばかりのものならば墨を乾かさなければならないだろう。これを読め、という理由で置きっぱなしにしているわけではないことぐらい分かるだろうが」

「それにしたって不用心ですよ」

「いいから元に戻せ。秋生だって戻ってくるだろう」

「秋生殿はさっきここに来て、昼食を取ったらここには戻らず、そのまま次の仕事に向かうと言っていましたから、しばらく戻ってきませんよ。それよりほら、興味ありませんか。秋生殿はあまり口数が多くないから、普段何を考えているのか分からないところもあるし」

「秋生は普通に話すぞ。お前が口をきいてもらえていないだけじゃあないのか」

「そうは思いませんけど。でも今のところ日記を読んでみても秋生殿のことはあまり分からないです」

「秋生のことより少しは己の身を振り返ることをしろよお前は」

 三山の身勝手に呆れながら、木村は中腰だった腰を畳に下ろして腕を伸ばし、三山の手から秋生の日記の束を奪おうとしたが、あまり強く引っ張ると紙が破れそうでそうそう迂闊に手が出せない。三山は躊躇いがちになる木村の手を適当に交わしながら日記をめくり続けている。

「ここに書かれていることといえば、その日の仕事の内容、分からなければ誰に聞けばいいか、物の置き場所、馬の飼葉の比率」

「飼葉の比率って、秋生のする仕事か」

「秋生殿、時間が余ると時々うまやに行っているみたいです」

「この間は台所にいたぞ。包丁を持たされて何か刻んでいた」

「ほんとうに都合よく、いろんなところでこき使われていますねえ」

「いろいろできることがあるんだろう、重宝がられていると言え。お前なんかどこにもよばれないじゃないか」

「こう見えて私は字の美しさを認められていますから、書状や記録の代筆で呼ばれることもあるんですよ。木村殿こそ手が空いたと思えばすぐに他の方々とぐうたら駄弁っているだけではないですか」

「儂の話は関係ないだろう。いいから秋生の日記を戻せ」

「ただ良く分からない言葉も時々あるんですよねえ。例えばほら、さっき書いていたばかりのここですが、日付の下に、右肘、とひと言」

「怪我でもしたのかな」

「さあ」

「秋生は昨夜当直だっただろう。一晩中詰めていたのだから寝ぼけてうっかり意味のないことを書くことだってあるだろうが」

「当直明けて日記を書いてから仮眠を取って昼前から港の荷揚げとか、働き過ぎですって。で、こっちがこの前の当直の次の日に書かれた日記ですが」

「左腰。なんだあいつ、あの傷が開きでもしたか、それとも重い荷でも持って腰を痛めたのか。そんなそぶりはしていなかったと思うが」

 先だって、この藩の藩主が巻き込まれる刃傷沙汰が立て続けに起き、藩主の身辺警護をしていた秋生が敵の刃を受けて大怪我をした。二の丸御殿の奥で施された厚い手当で刀傷は塞がったというが、まだ完全ではないだろう。

「あの辺りいろいろありましたからねえ。さすがに秋生殿も忙しかったのか、日記の日付が飛び飛びで、でもこの当直の日の日記には、右肩口、と」

「当直明けの日だけ書かれているのか。確かに何の事だろうな」

「気になりますよね」

「ならないよ。戻せ今すぐに」

「ほんと、木村殿はそういうところの融通が利きませんよね」

「そんなもの、利かせなくていい融通だ」

 三山は不服そうな表情と渋々という態度を隠さないまま、文机の上に日記の紙の束を重ねて寄せた。

「それでいいのか。何か上に置いてあったりしなかったのか」

「最初からこうなんですよ。秋生殿は隠す気がないんです」

「そうじゃなくて、誰もわざわざ自分の日記を見るとは思っていないんだろう」

「どちらにしろ不用心というか、抜けてますよね。秋生殿、色々考えているようで鈍いところがあるから」

「秋生も小賢しいだけのお前にそんなことを言われたくないだろう。減らない口を叩いていないで、今日これからの仕事を確認してこい。お前のことだからとっくに昼飯を食い終わっているんだろう」

「はいはい」

 三山もこれ以上は木村の小言を聞く気はないらしく、さっさと立ち上がって部屋を出て行った。


 そんな三山とのやり取りの後に木村は菊部屋を出たのだが、無駄に時間をくったせいで昼食の時間に遅れてしまった。二の丸御殿に入って台所脇の座敷を覗くと、昼食用に出されていたはずの米が入った櫃は既に下げられていて、代わりに握り飯がいくつか盆の上にならんでいた。一つ貰って頬張っていると、どたどたと廊下を走る音とともに、下働きの総締めである山崎が息を切らせながら座敷に入ってきた。

 なにも各段急ぎの用事があるというわけでなく、山崎は常態がこうである。それでも聞いてみるとやや急ぎの用事ではあって、会議の合間に藩主様が庭を歩きたいと言っているから、食事が済み次第、同室の秋生とともに庭の掃除を直ぐに始めてくれ、ということだった。

 木村が握り飯の残りを冷めた茶で流し込み、早速、掃除に使う道具を取りに物置へ行くと、一足先に来ていたらしい秋生が必要な道具を全て外に運び出して木村を待っていた。

「秋生、待たせたな。もう昼飯は食ったのか」

「ああ。さっき木村が二の丸御殿の中に向かうところを見た。行き違いだったな」

 秋生の言葉は少ないが、こちらの言葉をおざなりにしているわけではないのは会話の合間に合う目線で読み取れる。

 ただお喋りの三山の口数に合わせるのは大変そうで、秋生が三山と話していると、秋生の言葉がどんどん少なくなっていくのが端から聞いていて良く分かる。さっきの三山との会話を思い出せば三山はその辺りに全く気づいていなさそうで、いつか三山が秋生に気を使うことができるようになる日は来るのだろうかと、そう思ってすぐ、来ないだろうなあと、木村は心の中でため息を吐いた。


 毎日掃除の手が入っている二の丸御殿の庭は日頃から整然とした佇まいを保っている。木村は秋生と一緒に、昨日の掃除の後に落ちた踏み石の上の落ち葉や、取っても翌朝には張り直される蜘蛛の巣を取り払いながら庭を一周した。そうして辺りに異常がないか、庭をもう一回りしていると、二の丸御殿の縁台に人影が見えた。

 羽代藩の藩主となってまだ数カ月の朝永弘紀が、奥の侍従数人を従えて庭に下りて来たところだった。

 秋生の方を見ると既に藩主の姿に気づいていたようで、そっちをまっすぐに見つめている。木村も藩主の一行に注意深く目を向けた。下働きが藩主の近くにいるのは無礼になるので、距離を確認しておく必要があった。だが、この距離ならばもう少しこの場に留まっていても大丈夫だろう。今、避けようと動けばかえって動線がぶつかってしまう。

 木村は間近に新しい藩主の姿を見たことは無く、このような掃除のときに何回か離れたところから見たことがあるぐらいだ。ただ、遠目に見ても華やかで気品のある雰囲気は見て取れて、なるほど生まれついての殿さまとはこういうものかとその姿を見る度に思う。年若い藩主は金襴の着物を常に着ているわけではなく、平素は簡素なものを身に着けていることが多い。だが今着ている明るい青の羽織は、この藩主の闊達な若さを表しているようで良く似合って見えた。

 池のほとり、水際にせり出したひときわ大きな石の上で弘紀が足を止めた。侍従を振り返り池の水面を見て指をさす仕草から、池で飼っている鯉を見ているのだろう。鯉が餌を貰えるものと思い、足元に寄ってくるのを面白がっているようだ。侍従が木村たちの姿に気づいて手招きをした。

 木村は横にいる秋生とちょっと顔を見合わせてから、二人揃って表を伏せたまま、藩主一行の近くへ小走りに近づいた。二間ほどの距離で改めて膝をつき頭を下げると、侍従の一人から声を掛けられた。

「その方たち、鯉の餌を持っていないか。弘紀様が鯉に餌をやってみたいと申されておられる」

 一掴み程度の餌ならば庭掃除のときに小袋に入れて持たされている。木村がそれを渡すと、侍従から受け取った弘紀が早速、鯉の餌を池の水面に投げ始めた。

 鯉が水面に集まって口をぱくぱくと開け閉めする、その様子を楽しそうに眺める弘紀の横顔は、英邁な藩主というより十七歳の年相応に見え、木村はふと故郷の村にいる自分の弟や、むかし遊んだ友人達の姿を思い出した。秋生の方を見ると藩主の姿を眺めるその口元に珍しく微笑が浮かんでいて、秋生もやはり自分の家族のことを思い出しているのかと、木村は勝手に親近感を覚えた。


 弘紀が池に餌を投げる何度目かの動作の途中、侍従の一人が何かを見咎めたらしく弘紀に声を掛けた。

「弘紀様、御殿には蚊が出ますか。お気に障るようでしたら今夜お休みになる前までには退治させておきますが」

 弘紀の良く通る声が、疑問をはらんで侍従のその質問に応えた。

「蚊は出ないが、なぜ」

「失礼ですが弘紀様、右肘の内側、少し赤くなっているようにお見受けしました。蚊に喰われた跡ではございませんか」

 常になく藩主一行の近くにいるので木村たちにも会話のやり取りがつぶさに聞こえる。侍従のその言葉を聞いた弘紀が、袖を持ち上げて自分の肘を確かめて、そのまま無言で袖を下ろした。弘紀の視線が少し彷徨い、木村の隣に跪礼する秋生の上で止まる。しばらく弘紀は秋生を見つめて、けれど何も言わずに視線を外した。

「蚊の退治は必要ない」

 言葉短く侍従にそう命じた弘紀は、残りの餌を袖を抑えた手で丁寧にぱらぱらと池に放って、御殿の方へと戻っていった。


 二の丸御殿に上がる前、弘紀が池の脇に立って見送るこちらの方を一度振り返ったような気がして、木村は思わず再び跪礼しそうになったが、秋生がそのままなので思いとどまった。


 そういえば肘という言葉。木村は菊部屋で見た日記を思い出す。今朝、当直から帰ってきたばかりの修之輔が日記に記した文字が、右肘、ではなかったか。ちょっと考えて、でも藩主の右肘と秋生の日記の間に何の関連も思い浮かばなかった。偶然だろう。

「もう少し上の方が良かったか」

「何か言ったか秋生」

「いや、なんでもない。木村、さっき手伝いに行った台所で聞いたのだが、今夜は食事に焼き魚が付くらしい」

「おお、それは楽しみだな。鯵か鰯か。このところ芋だの南瓜だのしか食っていないから久しぶりだ。今晩は飯を三杯は食うぞ」

「ここの掃除の後は、確か風呂掃除だったな。ついでに足も洗って一休みすれば夕食の時間に丁度良さそうだ」

「あまり遅く行って尻尾ばかりの焼き魚を出されたらたまったもんじゃない。早く行くに越したことは無い。さっさと風呂掃除も終わらせてしまおう」


 藩主の去った庭をもう一度見て回り、そういえば今日の出来事も秋生はあの日記に書くのか、と聞きそうになって、木村は慌てて口を閉じた。日記を書いていることを秋生は隠しているわけではないから聞いても良かったのに、何故ためらったのか、自分でも分からなかった。

 ただその日記、箱に入れるなり、せめて大きめの文鎮を上に置くなりしてみてはどうだろうか。焼き魚が出るという今晩の食事の時にでも秋生に提案してみよう、そう木村は思った。


 秋から冬に向かう季節の中、木村と秋生が掃除道具を担いで歩く羽代城二の丸御殿の庭には、穏やかな波音が絶え間なく聞こえていた。

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風浪の残響 葛西 秋 @gonnozui0123

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