無言と化物

夢月七海

無言と化物


「おい、ラクゴロウがいるぜ」


 前方の井原健也が、下品な笑い声と共にそう話しかけてきたので、隣の西本豊と話していた岡島洋輔は、彼の指差しているその先を見た。

 車道を挟んだ反対側に、クラスメイトの町野秀樹がいた。パリッと糊の効いたYシャツを着た背中を伸ばして、しゃくしゃくと歩いている。


 三人が耳を澄ますと、微かにだが秀樹の声が途切れ途切れに聞こえてきた。それを確かめると、彼らは顔を見合わせてにやにやと笑った。

 中学生だが落語が好きなため、秀樹は「ラクゴロウ」と、健也たちから呼ばれている。本人はまったく気にしていないが、洋輔はその態度が癪に触っていた。


 健也が、向こうに渡ろうと目で合図をした。洋輔と豊は、嫌な笑みを口元に浮かべたまま頷く。

 三人でぞろぞろと車が一台も通っていない道を横断し、秀樹と付かず離れずの位置を陣取っても、彼は全く気付かなかった。右肩にかけた鞄の紐をぎゅっと握り、やはり何かをぶつぶつ呟いている。


 健也は、側溝の中に転がっていた空き缶を拾い上げて、秀樹に向かって投げた。赤い缶は、底に残っていたコーラを零しながら弧を描き、秀樹の背中にぶつかった。

 「いって」と呟き、缶が当たった背中に触りながら、秀樹が怪訝そうに振り返った。アスファルトで跳ねた缶が立てる音よりも、甲高い声で三人は一斉に笑った。


「なんだい」


 不機嫌そうに、秀樹は呟きながら、三人から目を逸らした。言葉遣いが少々古臭いのは、いつも落語ばかり聞いているからだと、健也は陰で話していた。

 そのまま、去ろうとする秀樹の鞄を、健也は掴んで引き留めた。普段は泰然自若としている秀樹も、流石に今回は嫌がっていた。


「ラクゴロウ、何ぶつぶつ言ってんだよ」

「落語の練習だ。文句あっか」

「薄気味わりぃだろ」

「人が来たら黙るからさ、好きにさせてくれよ」

「はあ? そういう問題じゃねぇんだよ」


 健也は、秀樹の肩を、右や左を小突きながら、決して彼を逃がそうとしなかった。秀樹は眉を顰めているが、それに対しては抵抗しない。

 その時、洋輔は秀樹が、健也よりも自分たちの背後を気にしているのに気が付いた。一度振り返ってみるが、誰もいない上に、車も野良犬や猫もいなかった。


「なあ、向こうになんかいんのか?」


 洋輔は何とはなしにそう尋ねてみた。

 健也は小突くのを止めて、水を差されたかのようにむすっとした表情で彼を見て、終始へらへらと笑っていた横の豊も睨みつけてきた。洋輔は肝が縮む思いがした。


「あ、黙ったら駄目だ、駄目なんだ」


 突如、湯が沸騰したかのように、秀樹がそう声を上げた。

 三人に一斉に見られている中で、秀樹は怯えた表情だけを浮かべていた。


「喋んねぇと、なんか言わねぇと、歌でもいいからよぉ。いや、俺が一席、弁じるか? えー、毎度馬鹿馬鹿しい話を一つ……」

「うるせぇぞ、町野!」


 壊れたラジオの如く、会話ですらない言葉をまくしたてる秀樹を、健也が鋭く叱責した。

 一瞬だけ、その場に沈黙が下りたが、すぐに秀樹が「いや、黙んじゃねぇ、黙んじゃねぇよぉ」と話し始める。


 豊は「きめぇこいつ」と引いているが、洋輔は逆に話し続けようとする秀樹に興味を持ち始めた。


「なんか訳でもあんの? 喋ってるのは?」

「あー……あるにはあるんだが……」


 秀樹は、それぞれに怒りと困惑と好奇心を浮かべる三人の顔を見回した。その間も、口の中では聞こえるか聞こえないかの声で話している。

 しばらくして、埒が明かないと判断したのか、秀樹は諦めたように言った。


「笑わねぇでくれるかい?」

「そういうのはこっちが決めるもんだろ」


 健也に鼻で一蹴されながらも、秀樹は、仕方ないと首を振りつつ、口を開いた。


「それは、九月の初めだったんだがねぇ……」






   □






 ……学校が終わってからの帰り道、俺は、いつものように一人で歩いていた。

 その時は、別に落語の練習なんざしていなかったんだ。流石に、外でもやんのは非常識だからねぇ。


 学校には、歩いて通っているんだが、家までまあまあ距離がある。そもそもにして、校区ギリギリの位置にあるから仕方ない。

 それでも、親はバス代なんて出さないからさぁ。世知辛いもんだ。


 まあ、そんな距離でも、一年半くれぇ通い続けていたら、もう慣れてくる。その日も普通に、歩いていたんだ。特に疲れも感じてなかった。

 だが、なーんか妙な感じがした。うまく言えねぇが……視線を、感じるんだ。後ろの首筋に、何か針でチクチク刺してくるような視線を。


 俺は立ち止まり、振り返る。……今でも思うよ、見なきゃよかった、ってな。


 化物が立っていた。三本先の電柱の後ろに。


 そいつの頭は獣なんだよ。何の動物だか分らねぇが、白い毛に、馬のように前へ飛び出た口に、肉食獣のような鋭い歯が剥き出しになっている。

 人間のものと変わらない、黒い髪の毛がぼさぼさと映えて、目を隠していたが、こちらを睨んでいるのを感じる。耳はあるのかないのか……ともかく、俺の角度からは見えなかった。


 ただ、角が生えているのは確認できた。髪を掻き分けて、顔の左右から上向きに二本、上にも二本。

 体は、人間だったが、不自然なくらいの猫背のせいで、性別は分からない。来ているのは朱色の浴衣だが、死人が着るのと同じように、襟の左右が普通のと逆になっていた。


 直立不動の袖からは、腕が見える。透けるような白い色だ。爪が、掌よりも長く、尖っている。そこからは絶えず、新鮮な血が滴り落ちていた。

 足には何も履いていなかった。瑞々しい腕とは違い、こっちは老人のように皺だらけで、足の爪はひび割れていた。


 あらゆる所が矛盾している。この世にいてはいけない存在だ。

 俺は、ぞわぞわっと、体中の毛が逆立つのを感じた。


 ともかく、こいつから逃げようと、俺は走り出した。体育には自信がねぇが、この時が一番速く走ったんじゃねぇかな?

 一度、走りながら振り返ってみたんだ。すると、そいつはついてくる。足は動いていねぇで、突っ立っているだけだが、位置がさっきとは違うんだ。それも、明らかに俺の方に近付いている。


 俺は焦りのあまり、意味が分からなくて「やべぇ、やべぇ、やべぇ」といいながら走っていた。そん時はほぼ無意識だ。言わずに一生懸命走った方が効率がいいからな。

 だが、もう一度だけ振り返った時には、化け物の位置は遠くなっていた。混乱しながら、「なんでだ? なんでだ?」と言いながら走って、もう一度振り返ると、さらに遠くなっている。


 ぱっと思いついたのは、何か言っていると、化け物は近寄れないんじゃないかということだった。

 俺は走るのを止めて、代わりに何か呟きながら歩いていこうと決めた。……しかし、こういう時、咄嗟に何かが出て来るもんじゃない。一先ずは、舌が覚えている寿限無の名前を唱え続けた。


 五回目の暗唱の後、最後に振り返ると、化け物は点に見えるほど遠く離れていた。だが、そこからいなくなったわけではない。

 俺は無事に帰ることができたよ。でもな、あの化物に目を付けられた以上、道の上では何か言い続けねぇといけなくなっちまったんだよ。






   □






 ……秀樹が話している間、通行人も車も通らなかった。彼が口を噤むと、三人とも何も言い出さない。

 洋輔は、握っていた掌に汗が滲んでいるのを意識しながら、「なあ」と秀樹に話しかけた。


「その化物は、必ず来るのか?」

「まあ、俺も色々試してみたよ。そんで分かったことは、見渡せる場所に人が二人以上いる、それから建物内やアーケードのような屋根のある場所では、自分が黙っていなくても、化け物は絶対に現れないということくらいだ。一人でいるなら、絶対に無言になってはいけねぇ」


 ちらりと、秀樹は洋輔たちの背後に視線を送る。何もいないはずだと分かっていながらも、洋輔は後ろを振り返れなかった。

 次は、豊が口を開いた。「あのさ」という第一声は、酷く掠れて聞こえ辛かった。


「その化物って、一体何なんだよ。なんでお前に付きまとうんだよ」

「さあ。それは俺にも分からねぇ。もちろん、調べてみたけどな、ああいう化物の話はどこにも載っていねぇんだ。俺も、罰当たりなことをした覚えもねぇし、こっちが聞きてぇくれぇだ」


 眉を顰めながら、秀樹はそう説明した。そしてふいっと、顔を空に向けた。


「なんかのきっかけで、俺を狙うようになったのか、もしくは、元々いたのを、俺が意識しちまったのかすら、見当つかねぇんだ」

「……ずっと何言ってんだよ」


 これまで黙り込んでいた健也が、俯いたまま呟いた。そのまま、何も言わずに歩き出し、秀樹を追い越しても進んでいった。


「あ、おい」


 洋輔と豊も後に続く。終始むすっとしていた健也が何を考えているのか、二人とも測りかねていた。

 

「俺がこの話をするのはお前らが初めてだ。何が起こるか分からねぇから、気を付けろよ」


 去っていく三人の背中を追いかけるように、秀樹の呼びかけだけが、静かな街中で響いていた。






   □






 健也と豊と別れて、洋輔は一人で歩いていた。

 左手側には小さな公園があり、学校から解放された子供たちが、跳ねるように遊び回っている。


 その様子を横目に見ながら、洋輔は健也の先程までの態度を思い出していた。

 健也は、秀樹から離れた後も、ずっと彼の悪口を言っていた。洋輔はそれに合わせながらも、健也が秀樹に対して絡んでくるのは本人を目の前にしている時だけだったので、こういう態度は珍しいと不思議に思っていた。


 もしかすると、秀樹の話が健也にとっても怖かったのでは?

 そんな可能性を考えてしまい、洋輔は「まさか」と心の内で笑い飛ばした。健也は昔からリアリストで、クラスメイト達が怪談話で盛り上がっていても、鼻白んだ顔をして決して入ってこようとしなかった。


 洋輔はそんなことを考えながら、いつものように角を曲がった。公園が視界から外れて喧騒も遠くなる。

 普段は気にしない静けさが、やけに気になる。誰もいない、何も言わない。それを意識すると同時に、首筋にチクチクと視線を感じる。


 まさか。足を淡々と動かしながら、頭の中は恐怖と混乱で吹き乱れていた。

 立ち止まり、振り返ればいい。それが分かっていても、絶対に出来なかった。


 洋輔の脳内に、秀樹が話していた化物の姿が蘇る。白い獣の顔、黒い人間の髪、赤い着物と爪から落ちる血……。

 ひたひたと、迫る裸足の足音に、鋭い歯の隙間から漏れる生臭い息……。秀樹が語らなかった、化け物の細部まで洋輔は感じ取ってしまう。


「あ、あーーーーー……」


 洋輔は、まずは声を発してみた。あまりに間の抜けた声だったが、こうしないと、化け物に追いつかれてしまう。

 その後は家に着くまで、思いつく限りの歌を、洋輔は小声で歌い続けていた。






   □






 朝のチャイムが鳴り終わっても、クラス内に健也の姿が見えなかった。席に着いた洋輔の体内では、血潮のように不安が全身を駆け巡っていた。

 やがて、担任教師が教室に入り、さざめきが波のように引いていく。


「昨日の帰宅中に、井原が怪我をして入院した」


 日直の号令が終わった後、担任の一言に、洋輔は自身の耳を疑った。

 クラスメイト達の驚きが、「え?」という小声や息を呑む音や、顔を見合わせる時の衣擦れの音となり、教室中に広がった。


 洋輔は、戸惑ったまま、後ろの方に座っている豊の顔を見た。

 彼は酷く青褪めて、「知らない」と言う代わりに首を横に振る。


 次に、前の方に座る、秀樹を見た。洋輔からは秀樹の頬杖をついた横顔しか窺えない。

 彼は我関せずと言った様子で、担任の教師を見ているだけだった。全く動揺していない姿が、洋輔にはただただ不気味だった。






   □






「なんだい。わざわざこんなところでする話ってのは」


 放課後、理科室が並ぶ校舎の三階に、洋輔は秀樹を連れてきた。切羽詰まった洋輔とは正反対に、秀樹は不機嫌さを露骨に表している。

 二人がいる廊下は、しんと静まり返っていた。この日は職員会議があるので、普段は準備室にいる教師たちもいないようだった。


「お前、健也に何が起きたか知ってんのか?」

「何の話だい?」

「とぼけんなよ。先生も、どうして怪我したのか知らねえんだよ。連絡しても繋がらねえしよ……。まさかあの化物に……」

「化物?」


 話の内容を把握できずに、眉を顰めていた秀樹は、不意に「ああ」と納得した。

 そして、ゆっくりと満足したように、口角を挙げて目を細めた。


「おめぇら、俺の話を信じたのか」

「え?」

「あれは俺の即興話だよ」


 秀樹の一言の意味が分からず、洋輔はぽかんと口を開いていた。瞬きをしても変わらない秀樹の表情に、ますます混乱が深くなっていく。


「腹が立ったんだよ。おめぇらに何の迷惑もかけていないのに、落語の練習を邪魔されて。だから、ちょっくら驚かしてやろうっていうんでね、思い付きで話したのさ」

「け、けど、お前が好きな落語は笑い話だろ? そんなすぐに、怪談なんて思いつけんのか?」

「いや、存外、落語の中にも怪談話はあるんだよなぁ。有名どころは、『牡丹灯籠』と『死神』かねぇ。昔から、笑いと恐怖は紙一重というくれぇだから、親和性が高いんだろうな」

「ほ、本当に、作り話なのか?」


 秀樹が話す真実を、未だに洋輔を受け入れがたかった。あの話が嘘だったなら、一人でいる時に通学路で感じた、あの息遣いや足音は何だったのだろうか。

 あまりに必死に話す洋輔に、秀樹はくすりと笑いを零した。そして鋭く、目前の相手を見据える。


「あんた、気付かなかったんかい」

「何を……」

「俺は、人が二人以上いる時には、黙っていてもそいつは現れないって言ってたよな?」

「あ、ああ」

「けど、俺はおめぇら三人に詰められた時に、無言にならないように必死になっていた。それって、矛盾してんじゃねぇか?」

「あ……」


 秀樹の一言に、洋輔は頭が真っ白になった。それからしばらくして、マグマのように、恥ずかしさと怒りとが一斉にふつふつと沸き上がった。

 「お前、」と言いかけて胸倉を掴みかけた洋輔の手を、秀樹は後ろに下がって避けながら、苦笑を浮かべた。


「俺も、あとからそのことに気付いて、ああ、失敗しちまったなって反省したんだよな。まあ、おめぇらが話に呑まれてくれたお陰で助かったよ」


 くるりと踵を返した秀樹は、棒立ちになった洋輔を残して、階段に向かって歩いていった。しかし、一段目に足を掛けた彼は、不意に首を伸ばして、洋輔の方を見た。


「けどもし、おめぇら三人が俺の即興怪談を信じたせいで、あの化物が本当に誕生しちまった……その可能性も、あるんじゃねぇか?」


 秀樹が階段を下りていく音が聞こえなくなるまで、洋輔はその場から動けなかった。

 突如、洋輔は随分と長い間一人きりで無言を貫いていたことに気付いてしまい、後ろを振り返った……寒々とした廊下には、何もいない。


 そうか、屋根の下だと現れないんだった。

 洋輔はそのことを思い出し、ほっと胸を撫で下ろした。










































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