第9話

 映画館に到着して、そして三人それぞれに自分のお金を出して自分のチケットを買った。座席は三人横並びに、俺、和泉、水無瀬さんの順。会話にしても位置にしても、和泉を中心にしておかないとこの集団は何もできない。


 スクリーンに入場できるようになるまでほんの数分時間があったので、俺たちは適当に売店を見て回ることにした。売店で水無瀬さんと和泉がなにやらこそこそ二人で話していたが、俺は少し離れた場所にいたのでその会話の内容はわからなかった。


 時間になったので三人順番にチケットを見せて(もちろんこのときの順番も座席の順と同じ)、そのままスクリーンに入って各々の席に座った。


 先にスマホの電源を切っておいてから、和泉の席ではない方の、誰も座っていない方のひじ掛けに頬杖をついた。


 和泉と水無瀬さんはまたも二人で何かを話していたが、俺の耳にはかすかにぽしょりぽしょりと聞こえてくるだけで、話題の輪郭すらもよくわからなかった。


 さっきからいったい何の話をしているんだろうかと気になりこそしたけど、俺は女子高生同士の話に聞き耳を立てたがるほど気色悪い神経は持ち合わせていなかったので、頬杖の位置を和泉側に移動させたりはしなかった。


 ほどなくして映画の予告が始まって、映画館特有の大音響によってそのかすかな話し声は聞こえなくなった。いや、大音響でかき消されたのか、単に話し終えただけなのかはわからないけど。


 それからぼーっと予告を聞き流し見流ししていたら、やがて劇場がすっと暗くなり、スクリーン上でビデオカメラの覆面が踊って、簡単な注意事項が流れたあと、映画が始まった。


 俺たちが買ったチケットで観られる映画は、二年前くらいに話題になった小説の実写化だった。大学生たちの青春群像的な恋愛映画らしい。和泉がこれがいいと言ったので、俺は特に観たい映画があるわけでもなかったし、水無瀬さんも俺と同じだったようなので、この映画を観ることになった。俺は実写の邦画を観て面白かったことが一度もなかったので、全く期待していなかった。


 原作の小説は読んだことがないので、映画の内容は初見だった。映画の主人公は、どこにでもいそうな冴えない男子大学生。なんでもそれなりにこなすことができるが、自信をもって人よりも上だと言える分野がひとつもないらしい。そんなの大体みんなそうだろ。


 最近話題になる小説の主人公は大抵自己紹介の接頭語に冴えないが付いてくるよなぁとか考えながら、ぽけーっと頬杖をついて拳で頬の肉を潰して、俺はスクリーンを眺めていた。この映画はそこまで人気がないのか、人が座っている席よりも若干数空席のほうが多かった。和泉とは逆の俺の隣も、空席だった。


 その映画は面白いといえば面白いし、つまらないといえばつまらないというくらいの出来だった。この映画を人が面白いと言えば俺は全面的に同意するし、もしくはつまらないと言えばそのときも俺は全面的に同意する。そんな感じだった。


 今上映されているシーンは、主人公である男子大学生が、酷い風邪を患った女子大学生の部屋に見舞いに来ているというシーンだった。そしてどうやら主人公はこの女子大生のことが好きらしい。対して女子大生のほうは全くそれらしい素振りを見せず、いつも主人公に対して素っ気ない。だが、こうして自分が風邪を患っているのに主人公を部屋に入れてしまっているあたり、女子大生ももうだいぶ気を許していて、そしてたぶん二人の想いは共通しているのだろう。


 だが監督の意向的にはまだここでは女子大生の想いはわからない想定らしく、ずっとじれったい空気が流れる。どうせ最後にはそれっぽい劇的な展開があってそれっぽく二人は結ばれて、そしてそれっぽくエンドロールが流れ始めるんだろうなぁと思った。時折ふとあくびが漏れてしまうほどには、俺はこの映画に飽き始めている。


 スクリーンから視線を外してちらりと横の和泉を見ると、和泉は俺に後頭部を向けて、またも水無瀬さんとなにやらこそこそ話していた。それに対してマナー違反だ、と言えるほどの度胸は俺には備わっていなかった。


 和泉は話が終わったのか水無瀬さんから離れてスクリーンに向き直り、そこで俺の視線が自分の方に向いているのに気付いて、そしておもむろに俺の耳元に顔を寄せてきた。


「にーさんと映画観るのなんて何年ぶりだろうね?」


 こしょこしょと、俺の耳元付近の空気が小さく振動する。鼓膜がこそばゆい。ほんのり桃の香りが漂ってきた。


「……一緒に映画観たことなんてあったっけ」


 そんな出来事があったとすればそれはおそらく小学校低学年のときだろうが、高校生ともなると小学生のときの記憶なんて曖昧だ。小学二年生のときのクラスメイトの名前を言ってみろと言われても、俺は十人も言えないかもしれない。だからもちろん記憶もかなり断片的だ。


「あったじゃん、ドラえもんの映画、二人で映画館で観たの」

「…………あー……」


 思い出した。小学三年生のとき、和泉が急に家を訪ねてきて、チケットを手に入れたから二人で見に行こうと誘ってきたんだ。そして俺は何の疑いもなく、ここで俺を誘ってくれるなんて和泉はなんて良い奴なんだろうとか思いながらほいほいついて行った。その頃の俺は毎週ドラえもんを視聴していた。


 そのときの和泉は、上映中にやたらと俺に話しかけてきた。そして俺も何も考えずに普通にそれに応対していた。今から考えれば周囲の人間は迷惑がっていたのかもしれないが、小学三年生にそんなことはわからない。子供というのは社会性よりも圧倒的に野性のほうが優位な生き物だ。周りのことなんか気に掛けるはずもない。


「あのとき以来だから、えーっと……八年ぶりくらい?」

「そうだな。八年か」


 和泉はさっきも上映中に和泉に話しかけていたし、そして今もこうして俺と話しているから、和泉は小学三年生から精神的な成長が止まっているんだろうか。いやまあ、こそこそ話すようになっただけ成長したのか。


「八年でいろいろ変わったよね」

「……お前は見た目しか変わってないように見えるけど」

「ちょっとそれどういう意味?」


 そのまんまの意味でしかない。小学校三年生の時点で和泉はお転婆な娘から穏やかな娘へと変貌を遂げていた。そしてたぶん、そのときから和泉は俺にだけ普段とは違う顔を見せていたのだろう。小童だった俺が気付かなかっただけで。


「てゆーかさ、この映画の主人公とヒロイン、にーさんと水無瀬の関係に似てない?」

「え、どこが? は? え?」


 声が大きくなってしまいそうになったのを抑えた。いきなり何を言い出すんだ。


 今のスクリーンでは、主人公が買ってきたゼリーをヒロインである女子大生が照れ臭そうに受け取っていた。額に冷えピタを貼った女子大生は目を逸らして、頬を赤らめて、手をわななかせて、しどろもどろになりながら感謝の言葉を口にしていた。


「主人公がそれとなくアプローチしてさ、それをヒロインが突っぱねるふりして受け取ってる。ほら、似てる似てる」


 和泉はにやりを口角を吊り上げていた。


 いや、どこも似てないだろ。


「ちょっと酷いことを言うけど、お前には人の気持ちを推し量る能力が欠けているのかもしれない。それか、お前は現代文の赤点常連だろ」

「は、はぁ? 全部違うし」


 全部違うと言いたいのはこっちのほうだった。どこをどう見たらこの映画の登場人物たちと、俺と水無瀬さんとが似ているように見えるのか。


 俺は水無瀬さんにそれとなくアプローチした覚えはないし、水無瀬さんもそれを突っぱねるふりして受け取った覚えはないだろう。


「俺にこんな、青いビー玉みたいな透明感のある綺麗な恋愛ができるわけないだろ。俺と水無瀬さんの間にこんなじれったい空気はない」


 そもそも、俺は恋愛しているわけではない。


「ん~? いんや、あるよ。にーさんたちの間にはじれったい空気が流れてる。見てると身体中がかゆくなってくるような空気感があるよ」

「お前の眼球には水晶体が入ってないんじゃないか?」

「ちゃんと入ってますけど~。全部しっかり見たうえで言ってるんだよ。第三者視点っていうのは大事だよね」


 第三者よりも当事者のほうが圧倒的に事情を理解している。第三者の存在意義は公平な判断を下すためだけ。よって第三者の和泉よりも俺のほうが詳しい事情を知っている。


 難しい言葉を使って簡単なことを考えつつ、俺はちらりと和泉の向こうの水無瀬さんに視線を寄越した。


 水無瀬さんは彫像のような無表情で、首をスクリーンに向けていた。スクリーンの光にうっすらと照らされたその姿は、まるでどこかの絵画のよう、だなんてべたな比喩を思わず使ってしまうほど、水無瀬さんはやはり美しかった。


「ほら、今も見惚れてる」

「え?」


 完全にスクリーンから目を外して呆けていると、手前の和泉が言った。


「今、水無瀬に見惚れてたでしょ?」

「いや、別に見惚れてたわけじゃ……」

「いや完全に見惚れてたじゃん。あの表情は意中の人に見惚れている表情以外のなにものでもないね」

「ちょっと見てただけだから。別にそういうんじゃないから」

「にーさんは昨日もそうやってはぐらかしてたよね。それに、この前もか。なんでそうやって自分の気持ちを誤魔化すの? なんで素直にならないの? 中学生なの?」

「……俺は水無瀬さんのことが好きなわけじゃないしな……」

「好きでもない女の子にあんなに話しかけるの?」

「…………」


 和泉の声は小さいけれど、ひそひそ声と呼ぶには大きかった。だが俺たちの周りには和泉の正面の席に女子大生風の人が一人座っているだけで、他は全部空席だからあまり気にする必要はない。


 スクリーン上では場面が切り替わっており、無事風邪が完治した女子大生が大学構内で主人公に照れ臭そうにお礼の言葉を口にしていた。それに対して主人公も同じく照れ臭そうに、露骨に目線を逸らして曖昧に対応していた。さっきからこの女子大生は、いわゆるツンデレと同じような言葉遣いと行動が目立って、俺はそれがあまり気に入らなかった。男性客を満足させようという製作側の魂胆が見え透いていた。


 はやくこの映画終わらねぇかな。


「……俺は水無瀬さんと友達になりたいんだよ」

「好きでもない女の子と友達になりたいの?」

「じゃあ俺は和泉のこと好きじゃないから、和泉の友達やめるぞ」

「そ、それは屁理屈じゃん」

「そっちだって屁理屈だ」

「…………そ、そんなにわたしに本当のことを言いたくないなら別に言わなくてもいいけどさぁ、でも、くれぐれもにーさんが後悔しない道を選んでね? わたしのことは気にしないでいいから」


 わたしのことは気にしないでいいから。


 一度軽くため息を吐いた。


「……ああ、わかった」


 そこで、和泉が俺から顔をすっと離した。


 スクリーンでは、女子大生が見舞いに来てくれたお礼に夕飯を奢ると言っていた。つまり主人公はデートに誘われていた。初デート。ということは、二人が付き合いだすのはもう少し先ということだ。まだまだじれったい空気感が続くということだ。もうこれ以上は冗長なのではないか。


 そしてたぶん、ここ数日の俺の行動も、いい加減に冗長だ。

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