第8話

「ねぇ天野くん。今からわたしと水無瀬さんと天野くんの三人で一緒に帰るから、わたしは先に下駄箱行ってるね。じゃよろしく~」

「え」


 和泉はそれだけ言い残して、颯爽と素早く走り去っていった。俺に拒否権はないらしい。


 そこで俺は咄嗟に、水無瀬さんの席を見やる。そこには誰も座っていなければ何の鞄も引っかかっていなかった。


「先に行ったってことか?」


 言いながら、自分の順応力の高さに自分で辟易する。辟易した俺の脳の二割は、まだ状況を完全に理解できていない。


 ホームルームが終了して、俺がロッカーから参考書やらなんやらかんやらを取り出してから教室に戻る途中に、和泉がすれ違いざまにああ言って、そして俺に有無を言わさず廊下の奥へと消えていった。


 和泉と水無瀬さんと俺の三人で一緒に帰る。……ん?


 和泉と水無瀬さんと俺の三人で一緒に帰る。


 つまりは和泉と水無瀬さんと俺の三人で一緒に帰るということだ。


 ……それって相当にやばくないか。


 女子二人と男子一人というその比率だけでもやばいのに、その女子二人が和泉と水無瀬さんだ。これは相当にやばい。これがやばくなかったらいったいこの世界の何がやばいというのだろう。


「やばいって言っても……」


 この学校から出るためには下駄箱を通らなければならないから、その三人で帰るイベントは避けては通れないらしい。二階の教室のベランダから飛び降りれば、あるいは突破できるかもしれないが、そこまでのことをしたらそれはそれでやばい。


 まぁ、とやかく考えていても仕方あるまい。ここでいくら考えたところで事態は好転しない。下駄箱へ向かう以外の選択肢はすべて徒労だ。


「行くしかないか……」


 俺は参考書を詰めてからリュックを背負って、重い足取りで教室を出て、のろのろと階段を降りた。



「おっそいなぁー天野くん。ホントとろくさいよなぁー天野くん」


 下駄箱の、透過度の低い擦りガラスが張られたスライド式のドアの傍に、和泉と水無瀬さんが二人並んで立っていた。その姿を確認した俺はすぐさまキビキビと下駄箱から靴を取り出し、あたかもここまで来る間も急いでましたという風を演出した。


「いや、急いだんだけどな。ごめん待たせちゃって」

「ホントだよ。もっと謝った方がいいよマジで」


 珍しく辛辣なことを言う和泉。いや、本来の和泉はこういう人なのだっけか。


 和泉は俺と二人きりになった途端に人格が変わる。最近得た知識だ。


「そ、そこまで言ったらかわいそうだよ……」


 水無瀬さんが横から控えめに和泉を窘めた。


 水無瀬さんは俺の味方をしてくれるのか。


「あはは。冗談だよ冗談。だからそんな鬼畜に怯えるような目でわたしを見ないでよ水無瀬」


 確かに水無瀬さんは和泉の言うように、怯えた子猫のような瞳をしていた。ふむ、水無瀬さんは自信がないうえに臆病、ね。

 

 俺が靴を履いてつま先を地面に打ち付けると、和泉が言った。


「それじゃ、行こうか。三人で一緒に帰るんだもんね?」

「……ああ、そうらしいな」

「…………」


 水無瀬さんは何も言わずに、ぐっと身を固めて俯いた。緊張しているのだろうか。だが俺はその何百倍も緊張している。


 校舎から出て少し歩いたところで、頭がぐらぐらと揺れるような感覚が襲ってきたので、一度ぎゅっと目を閉じた。目を閉じて、このまま目の前の暗闇の中に身を投じたいなぁとか考えてみたけど、ここで立ったまま眠ってしまったらどうなるだろう。……和泉と水無瀬さんに軽蔑されるだけか。


「天野くんはさぁ、どっか行きたいとことかある?」

「え、なんで?」

「いや、せっかく三人で一緒に帰るんだからさ、どっか寄って行こうかなーと思って」

「えぇ……」


 和泉は怖いもの知らず過ぎないか。この状況で、このメンバーで、どうしたらそんなことをしようという発想になるのだろう。どうして俺と水無瀬さんを少しでも長く一緒にいさせようとするのだ。


 俺としてはとりあえず、一刻も早く水無瀬さんから離れたい。この空気感に耐えられそうな自信がない。


 それは決して俺が水無瀬さんのことを嫌いになったとかではなく、ただ、朝にあんなことがあった日の放課後に一緒にどこかへ遊びに行くというのは、あまりに気まずいというか神経が磨り減るというのが主な理由だった。


 和泉を挟んだ向こう側を歩いている水無瀬さんは今も、切迫したような表情で俯いている。前髪で目が隠れていても、雰囲気だけでそれがわかる。


「……その、今日はどっか寄るのとかやめないか? ほら、俺最近受験勉強始めてさ、時間取りたいんだよな」


 無論、二年生の五月に受験勉強なんてしない。嘘を吐いた。


「『今日は』ってことは、また今度はどっか寄るんだ?」

「………………あー……」


 思わず後頭部に手をやりながら和泉から視線を外す。まさかそんな返し方をされるとは思ってもみなかった。まさか別日の提案をされるなんて。こうしてやんわり断ってみても別日に予定を入れられてしまうし、はっきりと行きたくないなんて言ったら水無瀬さんとの関係性が今よりももっと酷いことになってしまう。まさに八方塞がり。どうしようもない。


 寄り道するしかないのか。寄り道って強制力を持つようなものでは絶対にないと思うんだけどな。


「水無瀬にどっか行きたいとこある~? って訊いてもさ、どこでもいいとしか言ってくれないんだよ~。だから天野くんが男らしくばしっと決めてよ」


 だったらお前がさっさと決めてしまえばいいだろと思ったけれど、口には出さなかった。和泉に口答えするとろくなことがないというのも、ここ最近で得た知識だ。


「って言ってもな……」


 女子高生二人を連れていくのに最適な場所なんて、俺はひとつも知らない。なぜなら、女子高生と出かけて遊んだ経験なんて俺の人生には一度だってありはしないから。別に悲しくなんてないけど、そういう経験がないことがここにきて困りごとを作ることになるとは思っていなかった。


 女子高生が喜びそうな場所、か……。


 うーむ…………。


「……タピオカ屋、とか?」

「いや、別に女子高生に気を遣わなくてもいいから。それに、タピオカ屋なんてここらへんにはもうないんじゃない? 全部閉店しちゃったっぽいから」

「そ、そうなのか……」


 時代の変化を感じる若者だった。いやだって、昨日までみんな取り憑かれたようにタピオカタピオカ言ってたし……。古泉が『タピオカの黒いやつってなんかカエルの卵みたいで気持ち悪いよな』って言ってたのってそんな前のことだったっけ……。


「女子高生イコールタピオカとか、感覚がおっさんとおんなじだねぇ天野くん。安直すぎるよ」

「いやだって、知らないしな……」


 イマドキの女子高生のトレンドなんて、俺は知らない。同じ高校生として、女子高生と同じ空間で一日を過ごしているからといって、女子高生について詳しくなるわけではないし、詳しくなるはずがない。俺は女子高生の教室での姿しか知らないわけだから、放課後に女子高生が何をしているのかも知らないし、家に帰って何をしているのかも知る由がない。あるいは恋人がいればそういう情報が少なからず入ってくるのかもしれないが、もちろん俺に恋人など存在しない。


 俺は女子についてなにも知らない。そして自分が今まで知ろうともしていなかったことに、今更ながら気づいた。


 だからこそ、水無瀬さんという一人の女の子とまともに話せるようになるためだけに、こんなにもあくせくとしているのだろう。


「深く考えすぎなんだよ天野くんは。わたしたちが女子だなんてことは気にせずに、普通に男子と一緒に遊びに行くようなところでもいいんだよ」


 でも空気に脂が含まれていそうなギッタギタのラーメン屋に連れて行ったら絶対文句言うよねキミ。


 気づけば俺たちはもう校門を通り越していて、俺たちの足は自然と駅の方角に向いていた。俺と和泉の自宅への方向とは真逆だが、俺たちは何も言わない。水無瀬さんもさっきから一言も発しない。何を考えているのかわからない。


 まだ日は高く頭上には突き抜けるような青空が広がっていて、その下の道路には制服姿の学生がまばらに歩いていた。俺たちの前方のバス停にはそれなりの長さの列が形成されている。その中には、手を繋いでいる高校生カップルも並んでいた。


 そういえば、俺たちの集団、俺と和泉と水無瀬さんの一団は、傍からはどう見えているんだろうか。ただの友達か、それとも……。


 それとも、なんだろう。


「てゆーかさ、わたしたち今どこに向かってるの?」

「駅、かな」


 どこにこの二人を連れていくかを考えながら、ぼんやりと答えた。


「ねぇ、水無瀬って電車通学なの?」

「あぇっと……はい、そうです……」


 和泉は至って自然に話を振ったが、水無瀬さんの反応はあまり芳しくなかった。まるで話しかけられるのが迷惑だと言わんばかりの反応だった。


 いや、迷惑とは、俺の考えすぎかな。


「あはは、なんで敬語なんだよ~」


 言いながら和泉は水無瀬さんの肩を揺する。水無瀬さんは切迫したような表情のまま、少しだけ口元を緩ませた。明らかに無理して作ったような笑顔だった。


 絶対水無瀬さんも早く帰りたいと思ってるよなぁ。


 本当、和泉はどういうつもりなんだろうか。


「それで、天野くんは行きたい場所決まった~?」

「……映画館とか、よくないか」


 唐突にそんな言葉が、口をついて出た。今まで映画館なんてワードは脳内にはなかったし、俺の周りに映画館を想起させるような何かがあったわけでもない。だが、なぜか口をついて出た。


「映画館~? 映画館、映画館ねぇ~。なんか見たいやつでもあるの?」

「いや、別にないけど、でも、いいだろ?」


 我ながら映画館というのは名案だと思った。それなりに時間を潰すことができるし楽しめるし、それに、映画の上映が始まってしまえばもう俺たちは無理して話さなくてもいい。逆に、映画の上映中には人と話してはいけない決まりとなっている。映画館に行けば、気まずい空気が流れる時間を最小限に抑えつつ、そしてそれなりに楽しむことができる。うむ、これほど良い案もないだろうと自画自賛。


「まあ、いいんじゃない? ちょうど駅前に映画館あるし。水無瀬もそれでいいでしょ?」

「あ……は、はい。いい、です」

「だからなんで敬語なんだよ~」


 また和泉が水無瀬さんの肩を揺する。そして水無瀬さんはまたさっきと同じような引きつった笑顔を浮かべる。また無理して笑顔を作る。


 そうして、無事目的地も決まった俺たちは、駅前の映画館を目指して歩いた。途中で和泉がくだらなくて他愛ない話を振って、それに俺と水無瀬さんが曖昧に反応して、そしてしばらく沈黙が降りたらまた和泉が話題を振る、というのが六回ほど繰り返された。もし和泉がこの場にいなかったら果たしてそこにはどんな地獄が展開されていたんだろうかとか考えなくてもいいことは考えずに、俺は映画館を目指して歩いた。


 その間、俺と水無瀬さんが二人で会話をすることは一度もなかった。


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