ストリッパー

ちょっぴい

ストリッパー

 暗闇をスポットライトが切り裂く。強い光の刺激に二三度瞬いて眼を開くと、舞台の中央に薄いパープルのスーツに身を包んだ長身の女性が正面に半身を向け腕組みして立っていた。ブルネットの髪はアップ、大きな黒縁の眼鏡をかけて口元をキリリと結んでいる。軽妙なポップスナンバーが流れ始めると、黒のパンプスを履いた右足でリズムを取り、全身に行き渡らせたところでステップを踏んでいく。スカートから零れ出た膝から伸びる長い下腿が躍動し、腰が揺れるとやはり長い両腕が水平に広がる。

 電話の着信音が鳴るとスーツの胸ポケットからスマホを取り出し耳にあて、更に手帳を取り出し片手で開けて一つ二つ頷くと、スマホと手帳をスーツに戻して舞台上手へと駆け出す仕草。今度はペンシルタイプのICレコーダーを取り出し口を動かしながら前に差し出しインタビュー。下手に移ってもう一度、更に軽やかなステップで舞台中央から客席を割ってせり出した円形の盆に進みレコーダーを正面左右へとかざしてターンする彼女はきっと敏腕女性記者。

 両肩の張った背中を弾ませながら盆から花道を下がり始めたところでもう一度着信音。腰を捻って振り向きスマホを耳に、首を傾げ眉根を寄せて通話を終えると、静かに眼鏡を外し懐に収めた後ろ姿のヒップが揺れる。待つこと数秒、敏腕記者の目元涼しいシャープフェイスがこちらを向いて純白のブラウスの前をパッと両手ではだければ、ゴールドに縁どられた真紅のコスチューム。激しくフラッシュするライトにエナメル調の胸元が光り輝き、観る者に強烈なインパクトを与えて舞台は暗転。

 次に灯が燈った時の彼女の姿を想像しながら視界を塞がれた観客が痺れを切らす寸前、燦然と輝く光を受けて諸手を頭上で絡ませながら登場したのは、最近リバイバル映画化されたばかりのアメコミヒロイン。髪を下ろしゴールドティアラで留め、真紅のチューブトップにホワイトスターズ柄のブルーハイレグショーツ、境い目のウエストに巻かれたゴールドのベルトの中央にレッドスターが煌めき、右腰骨辺りに正義の投げ縄が揺れている。足元はトップスと同じ真紅のピンヒールブーツ。すっくと両脚を開き、腰に両手を充てるお馴染みのポージングと同時に切迫感のあるかの映画のテーマソングがホールに反響し、ヒロインが躍動を始めた。蹴り、パンチと攻撃、次には片膝立ちで両腕のガントレットをクロスする受け、引き締まった表情で曲に乗って小気味よく展開するストリートファイト。

 背走して舞台袖に寄ったスーパーヒロインが右手にかかげたのは銀色に輝く太く大ぶりな洋剣。上手から下手、舞台を一杯に使った剣舞が始まった。剣を水平に薙ぎ払い、頭上に大きく振りかぶって切りつける。刃と刃を合せた力比べはやがてヒロインの劣勢となり、剣は跳ね飛ばされて尻餅。両手を後ろについて観客には見えぬ敵を茫然と見上げるポーズ。振り下ろされた敵の剣がヒロインのトップスを両断したかのように、素早く前開きのチャックが外された。観客の呑み込む息の音が聞こえるようだ。

 曲がもの哀しい調子に変わり、敵の二の太刀を防ごうと頭上にかかげたガントレットも両断されたように割れて舞台袖へ飛び、闘いに敗れたヒロインが引き出されるように劇場中央の盆に移動する。それでもパンチを繰り出し抵抗を試みるが、裂けたトップスから零れ出るお椀を伏せたような乳房が気になり手数が減ると、ブルーのショーツに敵の手がかかりバタつかせる両脚も空しく、剥ぎ取られるように脱ぎ捨てられ下半身が露わになる。驚きと羞恥の表情で真紅のブーツも脱いだヒロインが今身に着けているのは、前のはだけたトップスと腰回りのゴールドのベルトのみ。回転を始めた盆にうつ伏せに頽れるヒロイン。

 静かなピアノバラードにもう一度曲が変化するとヒロインが顔を上げベルトを外し、吊るされた正義のロープを手に取り自らの裸身の上を滑らせる。黄金のロープが生き物のように這い回り、盆を転げまわる彼女の身体に巻きつく。

 曲がクライマックスを迎えると二つに折ったロープの中央に足裏を掛けた長い右脚が宙に伸びる。お決まりのポージングに湧き上がる拍手。体を入れ替え反り立つ上半身から両乳房が零れ、ロープの端を手にした両手を前に出すと、膝を支点に足首がピンと跳ね上がる。拍手の渦。続いて身体を起こし左膝を胡坐状にし長い右脚が高々と天を向いてL字を描く。スポットライトを浴び透き通るように白く輝く脚に投げ縄のようにロープが絡みつき、脹脛から太腿へと螺旋状に滑り落ちる。大きな拍手に満足したかのように立ち上がった裸のヒロインは優雅に縄跳びをしつつ花道を舞台中央に戻っていく。キリッとした筋肉質の背中の白さが眩しい。正面を向いて覆う物のない両脚を大胆に開くと、両手を腰に汗の滴が光る凛々しい顔を上げて力強いラストポージング。盛んな拍手に送られ舞台を照らす灯りが消えた。


 その踊り子の名は日向愛(ひゅうがあい)。彼女のパフォーマンスを観るのは二度目、いやというより世にストリップと呼ばれるライブエンターテイメントを目にするのも今日が二度目だ。


 「おいクニ、お前ストリップって観たことある?」

「ないですね」

「何だよそのつれない返事!実はこの近くにあるらしいんだ」

十日ほど前のその日、会社の部内飲み会が盛り上がらないまま早々にお開きになり、カラオケに誘った女性社員にも袖にされた僕と佐々木先輩は、男二人あてもなくまだ夜も早めな晩秋の新宿の繁華街をぶらついていた。

「先輩は観たことあるんですか?」

「ねえよ!”踊り子さんに手を触れないでください!”、なんて劇場のオヤジがダミ声上げてる昭和の風俗だぜ」

そこで佐々木先輩が人差し指を立てて首を傾ける。

「でもだクニちゃん、男二人ただ飲むだけじゃつまんねえ。だけど平成バリバリ風俗じゃ、俺たちの薄~いお財布じゃついてけねえ。ここは一丁化け物屋敷に飛び込んでやろうじゃないか!」

有無を言わさぬ早業で取り出したスマホを覗き見しながらスタスタと夜の巷を歩いていく佐々木先輩。

「も~、強引なんだから……」

 目当てのホールは意外と近くにあり、控えめなネオンサインの横には出演者宛と思われるスタンドフラワーがいくつか。街路に開いた入り口をくぐると地下への階段。下を覗き込んでいた先輩が突然振り向いて僕の肩を掴んで後ろに回り、僕を盾にする。

「突撃の先鋒はかわいい後輩に譲ってやるよ」

いつものチキン星人に変身した先輩に呆れながらも、恐る恐る先に階段を下りるとジーンズにブルゾン姿の我々とあまり変わらぬ世代のお兄さんが待っていた。

「今からだと最終回の途中なので、深夜割引三千円になります」

「安!でももう終わっちゃうの?」

チキン星人が横から口を挟む。

「すぐ入ればまだ四人観れますよ」

事実のみ告げるお兄さんは結構素っ気ない。

「どうしますか?」

振り返って訊ねる。

「い、いってみようぜ!」

「お支払いはあちらで願います」

お兄さんが手を差し伸べる先の壁には、昔の映画館のチケット売り場のような半円形の穴がポツンと開いていた。二人して穴にお札を突っ込んでやはり古風なテキストのみの入場半券を受け取る。

「お客さんたち初めてですよね?」

あ~とも、うんとも言わないうちにお兄さんの説明が始まる。

「タレントさんには絶対お手を触れないでください。それと場内でスマホ、携帯電話を取り出すのは厳禁です」

「やっぱりこの台詞は言うんだ」

先輩のつぶやきとともに扉を押して劇場内へ。


 その夜劇場内の二時間弱、僕たちが目にしたものは、入場前漠然と抱いていたストリップに対するイメージを良い意味でも悪い意味でも叩き壊すものだった。

「踊り子って言うの?女の子たちすっげ~キレイで最後はスッポンポンで股開いてるんだけど、何だか全然エロくないって言うか……」

終電の都合で最後の一人のダンスだけを見届けて抜けてきた道すがら、緊張の解けたチキン星人が口火を切る。

「お客さんも最初っから最後まで無言で、整然と手拍子入れたり拍手したり。壁際でタンバリン叩いてるおっさんは客なの?そんで紙テープかと思ったら投げた人がクルクル回収してんの、あれリボンだよな?ステージが終わったら写真と握手タイムだろ。これどっかにあるよな?」

「秋葉原のアイドルグループと仕組みはいっしょですよね。ただ服着てるか裸かって違いだけ。まさに会いに行ける何とかですね」

うんうんと頷いて佐々木先輩が納得顔をこちらに向ける。

「最後の嬢はAVでも結構有名で俺もそっちでお世話になったことあるんだけど、その実物が目の前で裸になってるのに、勃たないんだなあ全然」

「ショーとしてパフォーマンスとしての完成度が高いからですかね?」

 そう”美しい”この形容詞がしっくり収まる何かを久しぶりに観た気がした。男にとって女の裸は究極の美なのかもしれない。先輩の指摘したトリの女の子も、満面の笑顔を観客に振りまいていたひと際若く見える別の娘のことも、キレイ、カワイイとは思ったが、僕が惹きつけられたのはトリの一つ前に舞台に上がった長身の踊り子だった。長い手足、白い肌、キレのあるダンス、さながら”美しい”パフォーマンス。しかしそれだけなら十日後の今日この客席に座っていなかったと思う。彼女のダンスを観ているうちに陥った強烈なデジャヴ。いつ?どこで?思い出せない。でも僕は彼女に会っている。この既視感の正体を僕は知りたい。

 「いや~、この三千円はお得だったな、クニちゃん。でも次はない」

「次はないんですか?」

先輩が腕組みして一つ頷く。

「たぶん俺はもっと露骨でシンプルなエロを求めていて、様式美の追求には向いてねえってことさ」

「今日初めてまともな発言ですね」

佐々木先輩の毛深くて太い腕が僕の首に絡みつく。劇場でガバガバ飲んでいたアルコール九%缶チューハイのせいで呂律も怪しくなってきた。

「うっせ~、この野郎。だったらお前は次はあんのかよ?」

「僕もないですよ」

次は独りで来ますので。ダンサー日向愛と僕を結びつける何かを確かめるために。


 その日から僕は彼女の所属する劇場グループの公演日程や、ストリップ基礎講座的なサイトを漁りまくり、今日川崎にあるこの劇場の客席にいる。ステージを終えた日向愛が再びアメコミヒロインの衣裳を身に着けて舞台袖に戻り、ポラロイド撮影を待つファンたちを迎える。お目当ての踊り子に千円を渡すと、お好みのポーズでポラロイド写真が撮影出きて、その合間に握手と短い会話。まさに秋葉原と同じビジネスモデル。今日の彼女の香盤(出演順)は六人中四番目。これまで登場した踊り子たちが一様なアニメ声で、”いつもありがとう!”と明るい笑顔で元気に語りかけるのとは些か雰囲気が異なる。まるで糸の切れたマリオネットのように肩を落としてぺたりとおばあちゃん座りをし、小さな声でぼそぼそと客の問いかけに答え、淡々と要求ポーズをこなしていく。ついさっきスーパーヒロインになりきってダイナミックに舞台で躍動した踊り子とはまるで別人だ。

 「お兄さん、愛ちゃんのファンなの?」

隣席に彼女の写真を手に戻った初老の男が声を掛けてきた。無意識に彼の手元を覗き込んでいるのに気づかれたようだ。

「えっ、まあそんなところで……」

「ポラ行かないの?」

今つき合ってる彼女に部屋の合鍵を預けてる関係上、リアル画像は持ち帰れない。この間机の抽斗や箪笥の中味が変化していることに気付いて戦慄を覚えたばかりだ。

「やっ、まあ、その……」

「応援してやってよ。顔はきつめで好みが分かれるかもしれないが、背が高くてスタイル抜群、ダンスのキレもピカイチ。そんでもお客に何だっけ?”塩対応”してるとか言われて、ポラが伸びずに香盤も今の位置なんだよな」

舞台袖では彼女がコスチュームを脱ぎ全裸でファンに求められたVやMの開脚ポーズを取り始める。

「何だろうな?この娘がデビューしたころから観てるけど、男の視線に固いんだよ。商売って割り切ってもっとあけすけにすればいいと思うんだがな。他の踊り子に聞く分にも楽屋でも同じだってんだから。人嫌いなのかね?不思議な娘だ」

「そう、なんですか……」

そんな一風変わったストリップダンサー日向愛と、平凡なIT企業のシステムエンジニアの僕、国友一寛(くにともかずひろ)の人生のどこに結節点があるのか?いや単なる妄想なのか。


 他の踊り子と比べて明らかに少ない十人ほどの客に写真を撮らせ、ぼそぼそと客席に挨拶した踊り子が下手に引っ込むと場内照明が消える。フフフッという女の嬌声のイントロが流れ、アップテンポなユーロビートが流れ出す。デュランデュランというバンドの”ハングリー・ライク・ザ・ウルフ”という曲だと前回新宿で聞いてネットで検索した。日向愛のオープンショーのテーマソングだ。

ヒロインのティアラも外しブルネットの長い髪を振り乱して登場した彼女が身に纏うのは、ようやく乳房が隠れる程度の濃いパープルのショート丈Tシャツと同色のサンダルのみ。アップテンポの曲に軽やかに乗って盆へ進み出ると、客席に向かいヒップを突き出し長い脚を大きく広げたかと思うと、次は腰を下ろしてこちらを向いてV→M→L字と開脚ポーズを続けていく。このサービスパフォーマンスを”オープンショー”と呼ぶ所以だ。盆の各方向へポーズを決めると後ろ向きの花道上でTシャツを脱ぎ捨て全裸になり、舞台中央でこちらを向いて右手でTシャツを頭上に掲げ、高い目線で客席を睥睨するかのように振り回す。笑顔が少ないことを除けば、さっきの壊れた操り人形と同一人物とは決して思えない、羞恥の欠片も感じさせない大胆なダンス。僕はただただ夢中で手を叩いていた。


    二

 クリアな蛍光色のスポットライトが集中する舞台中央に、レインボーカラーの刺繍に縁どられたソンブレロと呼ばれる大きな麦わら帽子が浮かび上がる。生成り無地の七分袖プルオーバーシャツに同色の膝丈パンツ、素足。首元には帽子と同じ七色のスカーフがフワリと巻かれている。場内に流れ始めたのはマリアッチの調べ、第二のメキシコ国歌とも呼ばれる”シェリトリンド”。聞くものの心に優しく沁み渡るメロディーに合わせて踊り子の身体が左右に揺れ、両手が深く被っていたソンブレロの大きな鍔の端をつまみ上げると、日向愛の少し顎の尖った細面が表れた。遠目に今までよりアイラインの濃さが増し、付け睫毛を長くしているように見える。

 “ア~イ♪ア~イ♪アイア~イ”、一度聴いたら誰もが肩を組んで口ずさみたくなるサビを踊り子自身も口ずさみながら舞台を上手から下手、更に中央にせり出した盆へと両手を広げて振りながらゆったりと揺らめいていく。ゆら~り、ゆらり。突然踊り子がソンブレロを脱いで盆から舞台中央に向かってクルクルと投げると曲が変わり、照明もライムグリーンに。タタタタタタタンタン、タタタタタタタンタン、これも聞き覚えのある陽気なメキシコ民謡のアップテンポに乗って小走りに駆け寄ると、踊り子が帽子の周りを小刻みにステップを踏んで踊り回る。ステップを一瞬止めて耳元で両手を叩く、二周目からは観客が拍子を合せ始めた。三週目の途中で帽子を拾い上げ胸に抱えると、客席に投げキッスして舞台袖に弾むように消えていった。

 

 「今度の土曜、映画につき合って欲しいんだけど。空いてる?」

「あっ、いや~、日曜日じゃダメかな?」

「日曜は親の実家の法事なのよ。”普段不義理してるんだからこの日だけは空けときなさい!”って二ヶ月も前から母親にうるさく言われてるの。だから一寛、ど・よ・う・び!」

大学時代のサークルの同期がセットしてくれた合コンで知り合い、ほどなくつき合い始めた絵里奈の誘いの電話に冷や汗が背中をつたう。二十日土曜は外せない。ストリップ公演は全国共通概ね十日単位で行われていて、毎月一の日で演者が変わる。横浜の劇場で日向愛が踊るのはこの土曜が最後、翌日からオフで来月初は小倉に乗ると、淡々とスケジュールのみをつぶやく彼女のSNSに記されていた。

「今納期ギリギリのアプリ開発があって、休日出勤になる可能性大なんだ」

「そんなの日曜にやればいいじゃん!」

「いや、それが日曜サービスインの案件で……」

我ながら苦しい言い訳。受話器の向こうで頬を膨らませる絵里奈の気配が伝わる。

「わかった。何とか昼間のうちに終わらせるから、夜の上映に間に合わせるよ」

「しょうがないなあ、絶対だよ!時間と場所入れとくから」

通話を終えたスマホをベッドに放り投げて大きな溜め息。三十二になった自分より四つ下の絵里奈は中堅商社の事務職で、あっけらかんと朗らかな性格が気に入っている。リアルの恋人絵里奈と独り善がりの言ってみればヴァーチャルな存在の日向愛、現在納期かバグフィックスか常に仕事の優先度判断を要求されるプログラマーとして十年働いてきた僕にとって、答えは自明。なのに今、僕は朝早くに家を出て横浜に出かけ、劇場前で行列してかぶり席と呼ばれる盆周りの最前列に初めて陣取り、舞台でマリアッチに乗り軽やかにステップを踏むデジャヴがなす幻に盛んな拍手を送っている。


 灯の消えた劇場の闇に目が慣れ、客席の頭のシルエットが見え始めたその瞬間、パッと赤いライトが舞台中央を照らすがそこには誰もいない。すぐさま流れるフォルティシモギターの旋律に乗り、カツカツとシューズの音を立てながら下手から真紅の衣裳を身に纏ったダンサーが登場した。たっぷり裾の広がったスカートを歩み出す方向にたくし上げた姿は、日本人にも広く知られるようになったフラメンコスタイル。アップにした髪に真っ赤な一輪の薔薇が挿され、唇にも同じ色のルージュがいつの間に引かれている。先ほど気になった濃いアイメイクが腑に落ちた。花道から盆に進み出た踊り子は”葡萄を摘む仕草”とも言われる独特の手つきで観る者を幻惑し、その腰を激しく振れば、黒い縁取りの真紅のロングスカートが巻き起こす一陣の風がかぶり席の僕の頬を叩く。挑発のリズムに乗った客席の手拍子に応えるように踊り子は髪から薔薇を抜いて咥え込み、それが燃料の投下であったように更に過激に手足を動かす。これ以上はない強いギターのビートが、呼応する手拍子とともに場内に響き渡り曲が最高潮を迎え、舞台中央に戻った狂乱の踊り子は、真紅のドレスを一気に脱ぎ去りバサリと舞台袖にかなぐり捨てた。

 一瞬のライトの明滅の後、スローダウンしたギターの旋律と淡いピンクの照明に浮かび上がるのは、赤いアンダーバストコルセットで腹部をきつく締め上げただけのダンサー日向愛。コツコツとシューズの音を響かせながら、再び盆へと進み出る。露出した高い位置にある腰骨を起点に一歩二歩と振り出される長い脚は、疲れを知らない激しいステップの原動力となる筋肉が凝縮されたような力強い太腿と、そこから足首へ向けてキュっとしまってシャープなシルエットを形作る脹脛のバランスが何とも美しい。

 胸も露わ、下半身を覆うのも申し訳ほどの自らのヘアのみの踊り子。回転を始めた盆の上を寝転がりながら、ふと気づいたように口元から薔薇の花を引き抜くと腹這いになり、重なり合う真紅の花弁を客席に向けて誘惑の表情。今かぶり席の僕の目線と同じ高さ、わずか数十㎝の間合いで、激しいパフォーマンスで汗ばんだ踊り子の妖しい笑みを浮かべた顔が通り過ぎる。黒めがちな彼女の潤んだ瞳と目が合ったと思ったその瞬間、僕は強い衝撃を感じる。二度目のデジャヴ。やはり僕は彼女に遭ったことがある……はずだ。その後の彼女の開脚ポージングはあまり覚えていない。周囲に合わせて反射のように拍手をしていただけだ。トリップしていた意識が戻った時、踊り子は舞台中央で右手を折って客席に深々と礼をしていた。


 どっかり後ろに倒れようとして、支えのないことに慌てる。ここ横浜の劇場の客席はベンチ状で背もたれがない。

「おはようございます。日向愛です」

今日もぼそぼそとした挨拶でポラロイド撮影タイムが始まった。日向愛と僕はこれまでの人生のどこかで出遭っている。しかし、それはいつ?どこで?まただ。眉間を指で挟んで俯いてみるが気休めにもならない。もう一度彼女のステージを観て確かめたいと思うが、出演者五人中四番目の香盤でこの次に観られるのは二時間後。東京へ戻る移動時間を考慮すると絵里奈との約束に間に合わない。

 「ご協力ありがとうございました」

十人に満たない客をさばくとその場で立ち上がって軽くポーズをとり、再び低いトーンで挨拶した日向愛が舞台裏に消える。今日この場で彼女に相まみえられるのは、ほどなくして始まるオープンショーのみ。一分ほどの間にもう一度目を合せて確認したい。デュランデュランが流れ始める。僕は財布から千円札を掴み出してシャツの胸ポケットに捻じ込んだ。

 弾むように登場した裸のダンサーは前回と同じハーフタイプTシャツ姿だが、今日のカラーはローズレッド。盆の中央で軽やかにステップを踏んだ後、シャツを乳房の上にたくし上げてかぶり席前を脚を開いて回り始める。三席ほど向こうの客が縦に二つ折りした千円札を踊り子に差し出す。両手で受け取り握手。僕だけじゃなかったようで勇気が出る。震える指でお札を取り出し、端を右手で持って盆へと伸ばす。客席にお尻を突き出していた踊り子が足元のお札に気づいてこちらを向き、両膝をついて僕の手を両手で包み込むようにして受け取ると、向かって左の唇をぎこちなく上げた困ったような笑みを浮かべ、”あ・り・が・と・う”と口元が動く。すぐに立ち上がってダンスを再開、更に一枚、二枚とチップが差し出された。この間わずかに二、三秒だったが、僕にはそれで十分だった。

 僕はこの笑顔の主を目の前のダンサー以外に知っている。しかしそれは”以外”で正しいのか?原体験が昔過ぎて現在とは重ならないだけかもしれない。日向愛が数枚のチップを持った両手を客席に向かって振るのを見届けて席を立つと、迷惑そうな周りの客に詫びつつそそくさと劇場を後にした。


    三

 あれから二十日間悶々とした日々を過ごし、僕は今夜その踊り子と最初に出遭った新宿のホールの立ち見スペースで腕組みしている。季節は真冬を迎え外は小雪が舞って冷え込んでいるが、窓のない場内は数多のライトと人いきれで汗ばむくらいだ。公演替え初日が金曜日と重なり、人気AV女優がトリを務める香盤のため、最低限の仕事をこなして駆け付けたものの既に客席は完全に埋まっていた。初めて来た時の僕たち同様、酒が入っていてストリップというエンターテイメントに違った意味の期待を抱く一元客が過半を占めて、劇場はある種異様な室温とは異なる熱気に包まれているかのようだ。僕はと言えば二十日前に感じたあの確信めいたものは、間延びした時間とともに曖昧模糊とした遠い記憶の切れ端へと逆戻りしていて、これからトリ前にステージに登場する日向愛に何となく集中できないでいる。

 AVからの転向組ではなくストリッパーとして直接デビューしていることもあり、検索サイトで得られる日向愛に関する情報は極端に少ない。そこにある僅かな手がかりによれば彼女は僕より二つ年下で、出身地はこれまでの僕の人生とは無縁の遥か彼方の土地。やはり勘違いなのか?ネットの情報などいかようにも捏造可能と、仕事柄最も理解しているはずなのに気持ちが揺らぐ。一つ前のダンサーの甲高い嬌声に包まれたポラタイムも、流行りのK-POPに激しく腰を振るオープンショーも、困惑の渦に巻き込まれた僕の網膜には早送りビデオのように映り過ぎていくだけだった。


 「ありがとうございました~!」

薄ピンクのマシュマロのような小柄なダンサーが満面の笑みで客席に両手を振って投げキスしている姿が暗闇に消える。

 ざわめく客席上を舐めるように一渡りしたライトの束を浴び、舞台中央に集まった客の視線を跳ね返すのは眩い白。パールホワイトのシフォンドレスに包まれ、膝上ミニのスカートはボリュームのあるフレアシルエット、フラワーレースのトップスは肩の部分がシースルーで背中がパックリ開いている。ブルネットのロングヘアはドレスと同色のシンプルなシュシュでポニーテールに高く結われ、公称一六九㎝で八㎝のヒールを履いて舞台に立てば、いっそ神々しいまでの圧力で観客たちを圧倒し、彼らのざわめきを完封する。

 ステージに速いテンポで流れ出したピアノの音色に、瞠目しあんぐりと口を開くことしかできない僕。ショパンの名曲、そして僕にとって忘れ得ぬ〝子犬のワルツ〟の軽妙なピアノタッチに乗り、ダンサーは流れるように手足を小刻みに動かし始める。やがて舞台袖から転がってきたピンクの風船にじゃれつくように舞台に蹲り、交互に手を出しそれを弄びながら転げ回る。上半身を起こしお尻を起点に片脚を高く上げて風船を跳ね上げ、落ちてきたところに逆の脚を出して蹴り上げる。好奇心溢れる子犬を表現するクリっと開かれた瞳、左右に広げて少し上がった口角。もっと近くで観たい。入りから放心状態の僕は、思わず一歩踏み出した膝を立見席のフレームにぶつけて声を上げそうになった。

 ここで一気に曲調が変化し、タンタタンと鍵盤に激しく指を叩き付けるような同じショパンの”革命のエチュード”。素早く立ち上がったダンサーは、強い鍵盤タッチが場内に響くたびに両手のポーズを次々と変え、右に左に激しくステップを踏んでいく。もういい。もうわかった。三曲目は”英雄ポロネーズ”に違いない。そしてきっとベッドはあの曲。整理の悪い僕の記憶の戸棚においてさえ、立ち返るポイントは二十年前のあの時、あの場所しかなかった。


 「山県琴音(やまがたことね)です。今日からよろしくお願いします」

教壇に立ったひょろりと背の高いショートボブの女の子が、抑揚のない声と表情でクラスを見渡していた。花柄のワンピースのサイズが合っていないのか長い手脚の露出面積が広く、僕は上げた視線をすぐに逸らす。五年二組の教室に疎らな拍手が起こった。

「じゃあ山県さんはどこに座ってもらおうかな?」

担任の中年女教師が教室にいくつかある空席に目をやる。

「背が高いから後ろに座ってもらおうかな。あそこ国友くんの隣で。はい国友くん手を上げて場所を教えてあげて」

煩わしさと興味が綯い交ぜになった心のうちが透けて見えそうなうっそりとした挙手目がけ、転校生がキュッキュッと上履を鳴らしながら近づいてきて、僕に軽く目礼して席についた。顔を上げられずそれを気配で感じた時、チャイムが授業の開始を知らせる。

「はい一時間目は算数。国友くん、山県さんの教科書今日は間に合わなかったから机くっつけて見せてあげてね」

「え、僕が……」

ヒューヒューとお約束の口笛とともに、クラスメイトが一斉にこちらを振り向いた。頬を紅潮させる僕に構わず、彼女は淡々と机を寄せてきた。


 当時の僕は背が高いものの太っていて体育は苦手、手先も利かず図工もからきしだったが、勉強だけはそこそこ出来るその一点でクラスメイトとの関係性を維持している図体のわりにあまり目立たない少年だった。三学期の途中で転校してきて冴えない僕の隣に座らされた琴音本人が、隣席のよしみでぽつぽつと語ったところによると、親の仕事の関係で転校を重ねていて、勉強の進度がかなり遅れているとのことだった。特に算数に苦労しているようで、あまり表情を変えない彼女が数式や図形を相手にして困った顔で首を傾げるのを見かねて、ある日僕は上(じょう)の教科書を持ってきて授業でやってる下(げ)の前段階箇所を開いておさらいしてあげて感謝されたりもした。

「出来た!ありがとう。国友くん」

感情表現に乏しい琴音がえくぼを作って静かに微笑む様子に、僕は何となくこの転校生の少女に好感を持ち始めていた。

 しかし、クラス内での彼女の立場は日が経つにつれて悪くなっているように感じた。最初は琴音の容姿に興味を持った女子たちが、昼休みや放課後彼女を取り囲んで質問攻めに合わせているのをしばしば見かけたものの、しばらくすると誰も彼女に近付かなくなり、おかしな噂話がそこここから耳に入りだしたのだ。

「山県さんってお母さんと二人で駅の近くのボロアパートに住んでて、お母さんは毎日夕方になるとコテコテの化粧と派手な服装でいそいそと出かけて行くんだって。きっと水商売よってうちのお母さんが言ってた」

「そうなんだ~。最初ワンピース可愛いって思ったけど、何となくうす汚れていてサイズも合わないのは新しいの買えないから?」

「だって三つローテだもんね」

「質問した時、外国に住んでたことあるとか、音楽はクラシックが好きとか答えてたけど、あれ全部嘘よね。見栄張んなくていいのに」

キャハハと笑い合うクラスメイトの井戸端会議を偶然耳にして、居たたまれない気分になったのは一度や二度ではなかった。


 六年生の卒業式まであと数日、式での在校生呼びかけの練習を終え、生き物係の当番をすっぽかして逃亡した友人に悪態をつきながら校庭の外れのうさぎ小屋掃除をしていると、防災無線の夕焼け小焼けが聞こえてきた。

「すっかり遅くなっちゃったなあ。帰ろっと」

手近なうさぎの頭を撫でてそうつぶやきながら教室に鞄を取りに校庭を横切っていると、どこからか軽快なピアノの演奏が僕の耳に飛び込んできて、おやと校舎を見上げる。

「下校放送?いや、あそこは音楽室」

一段飛ばしで階段を駆け上がり、部屋の引き戸を開けるとピアノの音が大きくなった。目を閉じて気持ち良さそうにピアノに向かうのは山県琴音。曲はついこの間音楽の授業で聞いたばかりのショパンの”子犬のワルツ”だった。

 物音に気付いて黒めがちな瞳を僅かに開いてこちらを向いた琴音は、見つかっちゃったとばかりに少し舌先を出すが演奏は止めない。曲が終わり拍手。彼女が頬にえくぼを浮かべる。

「誰もいないと思ったのにな。まあ君ならいいか。もう少し聴いてくれる?」

僕が無言で頷くのを確認して琴音が再び鍵盤に指を置く。タンタタン、タンタタン、力強く叩かれた弦が紡ぎ出すのは同じく聞き覚えのあるショパンの〝革命のエチュード〟の切迫感ある響き。鍵盤の一タッチ一タッチが胸に熱く突き刺ささってくるような錯覚を覚える。続いて流れるのもやはりショパンの〝英雄ポロネーズ〟。彼女の達者なペダル操作が生み出すメリハリのある弾む調べに合わせて僕の手が上下し、さっき痛みを感じたばかりの僕の胸が今度は踊り出した。二曲のメロディ演奏が終わり、琴音が手を止めこちらを向く。自然に手が動いた拍手が止まらない。

「すごい、この間授業で聴いたCDとおんなじだよ!」

プッと彼女が吹き出した。

「おかしな表現だけど、ありがとう」

それでも僕の手は止まらない。驚いたように彼女がおずおずと立ち上がり、右手を左胸に充ててお辞儀する。

「ちょっと、どうしよう?じゃあカーテンコールに応えてもう一曲ね」

再び奏で始められた優しい調べが僕の手を止めてくれた。静かにしかし心の隙間に沁み入ってくるような旋律、ショパンの”ノクターン”。瞼を下ろした琴音の指が魔法のように鍵盤を滑り、上下させるたびに心を撫でられているように感じて、僕はいつのまにか自分の顔が真っ赤に上気していることにも気づかず、琴音の演奏する曲とそして演者自身に没入していたのだった。


 今僕の目の前にシースルーホワイトのベビードールのみを身に纏い、”ノクターン” の美しい旋律に包まれて、新宿の地下劇場の盆の上で陶然とした表情で裸体をくねらせている一人の踊り子がいる。二十年前の記憶の森から鮮明に甦った転校生の少女の顔と目の前のダンサーの顔、二つの顔が重なり合うのかどうかの僕の判定を、長い時の経過が妨げる。ただ今日の演目に使われている曲と曲順は、間違いなくあの日、琴音と僕の心の距離が縮まったあの日と全く同じなのだ。

 夜想曲という邦名通り流麗な優しい旋律の連なる曲も、やがて鍵盤タッチが強くなりクライマックスを迎える。踊り子の長い左脚が高々と宙を指す。その瞬間恥じらうように閉じられた踊り子の瞼の膨らみは、この曲を弾きながら下ろした転校生のそれと一致したように思え、僕はあの日と同じ盛大な拍手を送る。周りの客は何事かとこちらをチラリと見るが、そんなことはどうでもいい。上げた脚はそのままに右膝と右手を支えに、吊り上げられるように胴体がせり上がりトマホークと呼ばれるポーズ。体幹が強靭でなければ不可能と思われる大技。続いて左脚を下ろして両足で床を押し込むように胴体が反り返る美しいブリッジは、彼女の体型でこそなせる美麗で巨大なアーチを描く。回転する盆の上で踊り子は性器の襞まで客席へ晒しているにも拘らず、研ぎ澄まされ、削り出された究極の裸体に猥雑さの微塵もない。客席から溜め息と拍手が同時に湧き起こる。

 そのままブリッジから立ち上がり振り返って花道を戻るのかと思いきや、両手で床を押し優雅な逆倒立で左、右と脚をゆっくりと下ろしこちら向きになって体操競技のフィニッシュのように両手を差し上げてポージング。さすがにこれには客席の拍手は止まり、お~っ!というどよめきが取って代わる。後退りしながら舞台中央に戻った踊り子に、万雷の拍手が浴びせ掛けられた。美しい、ただひたすらに美しい。二十年前のあの時のように僕の両手はアンコールを求め止まらなかったが、さっと明るくなってどやどやと動く客席の雰囲気には逆らえなかった。


 圧巻のパフォーマンスにいつになく多くの客が、日向愛のポラロイド撮影に行列を作る。そこには何人かの若い女性の顔もある。最近”スト女”と呼ばれる女性ストリップファンが増えてきていて、中には美しきダンサーに憧れて自らもデビューしてしまう娘もいるのだとか。そんな女性たちが上気した表情で日向愛のポラに並ぶ理由は、今のステージを観れば何となく解る気がする。

 その一方で列に並ぶ大部分の男性客たちは千円札と交換にダンサーと二言三言会話を交わしながら握手して、お好みのポーズを取らせてシャッターを押す。中には明らかに顔は写らないアングルでカメラを構える者や、舞台に腰掛けて衣装を脱ぎ裸になった踊り子とのツーショット撮影を要求する強者もいるが、全体的な印象はいたってフレンドリー。あそこに並べばたった千円で彼女と会話できる。あなたは山県琴音なのか?と訊ける。しかし相手にとってそんな荒唐無稽な質問にまともな答えが返るはずもなく、最悪強面の場内スタッフにストーカーとして摘まみ出されかねないのだろう。行列の最後尾へと踏み出しかけた足が止まる。

 踊り子の前の列が短くなっていく。目的を達し席に戻った客と、トリの有名AV女優の登場を待つ客のざわめきが再び大きくなってくる。最後の一人と握手し終えた全裸の日向愛が舞台の端でカメラを片手にポツンとおばあちゃん座りをして唇を動かす。

「お後よろしいでしょうか?」

ついさっきあれほど盛り上がった客席の視線は次の興奮に興味を移し、もう彼女に向いていない。一巡り客席を見渡して皮肉っぽく右の口角を上げた瞬間、踊り子の頬にあのえくぼが浮かんだ。ステージから距離はあるが見間違いではない。やはりそうなんだ。

 場内の灯が消え、いつものデュランデュランが流れ始める。フラッシュするライトが舞台中央で右手を後頭部に充てた長身のダンサーを浮かび上がらせた。今日は振り切ったような全裸、いや首元のシルバーレースのワイドチョーカーから等間隔に下がったパールが鎖骨の辺りキラキラと輝いている。エナメルシルバーのミュールを鳴らして盆へと進み、立ち、座り、寝転んで次々脚を開いてポーズを決めていく。何枚かの紙幣が盆に突き出される。立見席の僕は手拍子も出来ず拳を握り込み、文字通り”飢えた狼”になって彼女に飛び掛かりたい衝動に駆られていた。


    四

 日向愛が乗っているうちにもう一度新宿を訪れよう。内容はさておき今度こそ彼女と顔を合わせて会話をしてみよう。あの夜の帰り道の僕の目論見は、翌日発覚したうちの会社の納品済アプリの大々的不具合によりあっけなく潰え去った。ヘトヘトになりながら漸くバグフィックスの目途がついて彼女のSNSをチェックする余裕ができた時、日向愛は大阪の劇場で踊っていて、その先のスケジュールは十日毎にオフ→広島→小倉と記されていた。


 「今週末は留守にするので気を付けて」

「どこか行くの?」

「うん、ちょっと広島へ」

仕事のトラブルが収束の兆しを見せ始め、会社泊り込みから解放された頃から、絵里奈は僕に無断で僕の部屋を度々訪れ、掃除をしたり、作り置きの食事の支度をしてくれたりするようになっていた。疲弊する僕と僕の部屋の様子を見かねての彼女の善意はありがたかったが、結果としてランダムに僕の行動をチェックされていて黙って部屋を空けられない。

「ちょっとじゃないじゃんそれ……そっか私も行こっかな!」

「あっ、それは。向うで古い友だちと会う約束があって」

ここまでは想定通りの展開。

「ふ~ん、昔の彼女にでも会いに行くってこと!」

そういうことなのだろうか?図星を指されたようにスマホを持つ手が震えている。電話にしておいてよかった。声まで震えぬように注意して乾いた笑い声を立ててみる。

「そんなはずないでしょ。男だよ。うちの会社にスカウトしようと思ってさ。今回みたいなこともう一度起こったら死んじゃうから、身を護るためにもと……」

三秒間の沈黙。

「ハハハ、もっ、冗談だよ。わかってるって」

額面通りに受け取っていいのか?今度は電話のデメリット。

「金曜日の夜行バスに乗って、向うで用事を済ませたらその日の最終の新幹線で帰るから」

現地で泊まるとは言い出せない空気がスマホの向こうから流れてきていた。

「じゃあ、日曜は一寛の部屋でいっしょにもみじ饅頭食べよ。絶対生もみじなんだからね!」

 いきなりのハイテンションにホッと。

「生もみじ了解。詳しいんだな」

「和スイーツのことならこのエリナ様にお任せあれ~!それくらいしかアピールポイントないし……」

「えっ?」

「行ってらっしゃい。元気で帰ってきてね……」

 何かを察しているような絵里奈の優しい気遣いに触れ、背徳感を目一杯背負った僕は広島行き夜行バスに飛び乗った。


 春まだ遠い早朝の寒さに震え、初めて訪れた街に戸惑いながらもマップアプリを頼りに中国地方唯一の劇場を探し当てた。ストリップ劇場は現行法令の関係で新規開業は不可能。一度廃業すれば継承も再開もできない際もの施設一つであるこの劇場も、押し寄せる風俗産業の変化や地域再開発の波に何度も閉館の危機に立たされながら、いくつかの幸運に恵まれて今も客を迎え入れているのだそうだ。楽屋から舞台に上がる途中には、ここで踊った数多のダンサーたちがルージュの唇を押し当てていったキスの壁があるという。

 土曜の早朝割引狙いの長い行列に缶コーヒーで暖を取りつつ一時間ほど並び、何とか盆の周りのかぶり席を確保できた。すぐさま外出証を手に繁華街に走り、絵里奈と約束した生もみじを確保してきた。今日の日向愛の香盤は地方興行では偶にあるトリ。出演四人とは言え、東京へ戻る新幹線の時間を考慮すると彼女のダンスを観られるのはギリギリ二回。未だ決まらぬ踊り子に掛ける言葉をあれこれ思案しているうちに灯が消えた。

 三人のダンサーのステージを経て今日一回目の日向愛の出番。軽く右手が鍔に触れたハンチング、前を開けたベスト、脹脛まで覆うロングブーツの全てがキャメルブラウンレザーのトータルコーディネイト。そして観客の視線を刺激するのは臍下ゆうに十㎝、締まったヒップの三分の一を露出させたベリーショートタイプのダメージドデニムパンツと、革のベストの間から見え隠れする素肌に掛かった真っ紅なワイドサスペンダー。

 始まりからいつになくワイルドで攻撃的ないで立ちの踊り子を後押しするように流れ出したのは、オーケストラ演奏でアップテンポな入りの、ガーシュイン”ラプソディ・イン・ブルー”。小刻みにカクカクと関節を動かすロボットダンスが始まった。やがて同じ旋律をピアノソロがなぞる。あ~、この曲も音楽室で流れる定番だった。弾むピアノに乗ってだんだんと踊り子の動きが曲線的に変化し始め、腰が緩やかに振られサスペンダーを掴んだ両手が胸の辺りで上下してお椀状の形のよい乳房を揺らす。

 僕には少年時代、転校生の少女と交わしたある約束があった。


 山県琴音のショパンに酔ったあの日から、僕らは下校時刻の教室で時々目配せしては、ひと気のない音楽室で演奏者と観客一対一のピアノリサイタルを開くようになった。琴音は音楽室の収納棚から次々楽譜を引っ張り出してきては、楽し気に鼻歌でプレ演奏しつつ次々と新曲に挑戦していた。”ラプソディ・イン・ブルー”もそんな一曲。僕はと言えば、時に椅子に腰掛け両手の上に顎を乗せ、時に机を連ねて大の字に寝そべって彼女の演奏に耳を傾け、最後はいつも大喝采を送った。

 「今日もあれでいいの?」

いたずらっぽい表情で琴音が僕に訊ねる。

「もちろんあれで!」

彼女は無言で軽く頷き、えくぼを浮かべて鍵盤に指を乗せる。リサイタルのアンコールはいつも同じ、”ノクターン”。この曲を奏でる時、徐々に瞼に包まれていく琴音のつぶらな瞳を、グランドピアノの端に両肘を乗せて眺めるのが好きだった。


 クラス替えなく六年生に進級した僕らが臨む最初のイベントは学習発表会。一年から六年まで、全校生とその父兄を前にクラス毎に合唱、器楽合奏、ダンス、劇といったそれぞれのレベルで趣向を凝らした様々なパフォーマンスが体育館の舞台上で繰り広げられる。最上級生となった我々六年二組は、ホームルームの話し合いでミュージカルにチャレンジすることになった。

「ミュージカルだからピアノ伴奏が必要ね。立候補ありますか?」

担任の問い掛けに僕は琴音に視線を向けたが、その横顔は俯くばかりで反応はない。暫く待った後、両手を胸の辺りで上に向け仕方ないという仕草で先生が口を開く。

「じゃあ悪いけど岸さん頼むわね」

「はい、わかりました!」

通知票はいつもオール五で来年は私立女子中入りと噂される学級委員が元気に返事をした。僕と琴音にもコーラスメンバー的な端役が回ってきて稽古が始まった。


 クラスは意外な団結を見せ、早朝や放課後を費やして稽古を重ねて何とか形になってきたと皆が感じていた公演三日前、重大ハプニングが起こった。伴奏の岸さんが季節外れのインフルエンザに罹患したのだ。最低でも出校停止一週間。朝練が突如中止になった理由が担任から明らかにされ、曲を伴奏しながら積極的に出演者にアドバイスを送っていたクラスリーダーを失った衝撃に教室は騒然となった。僕は琴音の様子をうかがったが、やはり背中を丸め俯いたままだ。

 「クラスの子たちに知られてまたおかしな興味の的になるより、放っておいてもらった方が楽。これまでの学校でもそうしてた」

夕闇迫る音楽室でつぶやいた彼女の言葉が僕の身体の自由を奪う。途方に暮れ二の句の継げない担任の様子に、”公演中止”、漸く事態を理解した教室が今度は水を打ったように静まり返る。僕は震える右手を上げた。それでも自信なさげに思われないよう大きく息を吸い込みお腹に力を籠める。

 「先生、岸さんの代わりとして伴奏に山県さんを推薦します!」

ぽかんと担任の口が開く。立ち上がった僕と、ピクリと両肩を震わせたものの俯いたままの琴音にクラスメイト全員の視線が集中する。

「山県さん、かなり難しい曲も含まれているけどピアノ大丈夫なの?」

「貧乏人がピアノなんて弾けるわけねえじゃん!」

担任の問い掛けが終わらぬうちに、今回主役を担う男子が罵声を浴びせ机を叩く。

「いや、山県さんはショパンだって弾ける素晴らしいピアニストなんだ。きっとうまく行くよ!」

精一杯の大声で反論する。

「なんでお前がそんなこと知ってんだよ!?」

同じ意味合いの疑問の声が教室のそこここから上がる。

「それは‥‥‥」

 クラス中に湧き起こるブーイングの嵐が僕を打ちのめし、膝の力が抜けそうになったその瞬間、琴音が顔を上げてすっと立ち上がった。

「先生、私やってみます」

「ほ、ほんとうに大丈夫なの?」

「前は大勢の前で弾いたこともあります」

「ハブられてる仕返しに俺たちのミュージカルを滅茶苦茶にする気かよ!」

「証拠見せろよ!できねえだろ!」

クラスメイトの言葉の刃の矛先が僕から琴音に移る。自分が引き起こした大混乱に我を失い、罵声を上げる近くの一人に掴みかかり更に騒ぎが大きくなる。

「やめなさい!」

担任が慌てて教壇を飛び下りようとするより先に、琴音の声がひと際大きく教室に響き渡った。

「先生、みんな、これから音楽室に行きましょう!」

初めて耳にする甲高くはなく、むしろドスの利いた琴音の大声に、僕を取り囲んだ数人の男子の動きが止まり、再び教室が気まずく鎮まる。

「岸さんに預けていて今ここに楽譜はないわ」

教壇に戻りつつある担任の声はまだ不安そうだ。

「とりあえず必要ありません。大体耳が覚えていますから」


 音楽室のピアノに慣れた様子でつかつかと向かい、椅子に腰掛け高さを調整する琴音。クラスメイトの反応は不貞腐れ、否定的に顔を背けるのが大勢、半信半疑ながらこれから起きることに興味を持っていそうなのが残りといった感じか。鍵盤に手を置いた琴音が今日初めて僕を見つめる。その視線をしっかり受け止める、僕に出来ることはただそれだけ。彼女の頬にえくぼが浮かんだことにホッとする間もなく、音楽室にジャズ調のオープニング曲が流れ始めた。

 飛び跳ねるようなスタッカートの入りに、どよめきが起きる。

「なあおい、これCDか?」

「バカね、音はあそこからよ!」

一人の女子がグランドピアノの黒いボディを指さす。クラスメイトの騒めきがサア~っと引いていき、楽譜通りのダンスシーンの演奏に何人かの手脚が反射的に動き始める。次のバラード曲が始まると、このシーンに配役されている女子がピアノに合わせ踊り歌い始めた。笑顔を浮かべとても気持ちよさそうに。もう顔を背けている者は誰もおらず、身体を揺らし、ハミングし琴音の演奏に酔っているみたいだ。

 そして曲はクライマックスへ。僕の肩にポンと手が置かれる。さっき真っ先に机を叩いて悪態をついていた主役が、恥ずかし気に僕にサムアップしてから部屋の中央に進み、曲の主旋律を手振りを交え朗々と歌う。一人二人そして大勢がそれに声を合せる。琴音のピアノに乗って音楽室に響き渡る大合唱。その輪の中にひと際大きく口を開けて歌う僕がいた。

 発表会当日、六年二組のミュージカル公演にはカーテンコールがいつまでも鳴り止まず、何度目かに登壇する着飾った衣装の主役たちに引っ張り出されたいつものワンピース姿の琴音が、困ったように客席に頭を下げる様子を拍手で迎え、我がことにように誇らしく思ったのを今も覚えている。


 学習発表会終了直後は時の人山県琴音への演奏依頼があちこちから殺到し、教室で彼女とゆっくり話す機会すらほとんどない状況だった。一ヶ月ほど経ち期末テストを終えた夏も近い金曜日の夕方の音楽室。結果として最後となった二人だけのリサイタルのアンコール、琴音は僕にリクエストを訊くこともなく、今まで一度も聴いたことのない曲を弾き始めた。

 「これ初めて弾いてくれるよね」

演奏中の琴音に言葉をかける。

「そうだね」

「何ていう曲?」

「な・い・し・ょ」

この後の全ての質問を拒絶するように、琴音の瞼がつぶらな瞳を覆う。”ノクターン”とはまた違った一音一音弦の震える余韻が心に沁み渡るようにゆったりとした旋律。ショパンの”別れの曲”だったと知ったのは彼女がいなくなった後だった。演奏を終わりいつも通り拍手する僕に、琴音はいつものえくぼを浮かべた控えめな笑顔ではなく、少し潤んだ鋭い眼差しをこちらに向ける。

「ねえ君、大人になってもしもう一度どこかで巡り会えたら、私と結婚してくれる?」

「もちろん!ってこれからも一緒じゃん!」

彼女の質問の真意に気付かない僕は軽く返事を返す。

「そうだね。でも訊いておきたかったの……」

「今日の琴音は変だな?何か顔も赤いし、熱でもあるんじゃない?」

あまりに能天気な僕に、自らの頬に手を充てクシャっと顔を歪めて琴音が大笑いを始める。

「バカだなあ。でもその鈍感さ、きっと君の良さなんだよね!」

「そ・う・な・の?」

事態を理解をできない僕が琴音の顔真似をして大笑いで返すと、音楽室に二人の笑い声がしばし響き渡っていた。

 翌週の月曜日、一学期の終業式まであと数日の教室に琴音の姿はなかった。

「山県さんはご家族の急な都合で転校しました」

担任の報告の声が空しく響くだけ。その時のクラスメイトの反応は全く記憶にない。山県琴音という少女との、半年余りのそれでいてとても濃密な、僕の少年時代の想い出の終焉だった。


 「こ・と・ね……」

長いガーシュインの曲を終え、日向愛はブラウンレザー三点セットを脱ぎ捨て際どいデニムパンツと紅いサスペンダーのみとなって、これまでの激しいダンスに胸を上下させながら舞台中央に上手を向いて佇んでいた。ゆったりとした弦楽器の演奏が耳に届く。誰もがどこかで一度は聞いたことがある歌詞の入りが題名となった、”アメイジンググレイス”。

 踊り子は舞台を吹き過ぎる一陣の風に揺れるように回転させる自らの身体を、時折両手で抱え込むように優雅に舞う。曲に酔うようにいつものように、そしてあの頃のように瞼を下ろす。曲がサビを迎え片手でデニムのボタンを外しジッパーを下げると、V字の割れ目にサスペンダーと同じ紅いショーツのレース柄を通して黒いヘアが薄っすらと透けて見える。両肩の張った上半身をスイングしながら盆へとゆっくりと歩む道すがら、右手を左肩のサスペンダーに伸ばして静かに下ろし、続いて同じ右手を右胸の上に充てて手首をクルリと回してベルトを取り除くと、空いた左腕が乳房を覆う。盆の中央で踊り子が客席に背中を向け両手を宙にかざすと、デニムのヒップからボリュームのある太腿にかけてはらりとずり落ちた真っ紅なサスペンダーが煽情的に観客を惹きつけた。

 曲がピアノの独奏に変わる。これもアメリカで長く愛されてきた歌、”ダニーボーイ”。”ラプソディ・イン・ブルー”から始まりここまで、共通テーマはアメリカンスピリットなのだろう。ネットの数少ないインタビュー記事にあった、自分で曲を編集して振り付けするという日向愛の拘りを感じる素晴らしい演目。わかってしまえば当り前のことだ、彼女には。

 演奏が進むにつれ踊り子はデニムを脱ぎ、やがて回転する盆の上で真紅のショーツの紐も両腰同時に解いて、慣れた手つきで紅い布切れをクルリと手首に巻き着ける。曲がクライマックスに到達すると、四つんばいの左脚を後ろに突き出し、支える両手を畳んで足先が天井を指す。満員の広島の観客から大きな拍手。そのまま腕を伸ばして身体を反転して仰向けになり上げたままの左脚は更に高く宙を突き上げる。もう客の拍手は止まらない。そのままブリッジを作り得意の倒立から広い背中を客席に向けて花道を下がっていく踊り子。

「こ・と・ね……」

もう一度この三文字が唇から零れ落ちた。


 喝采が止み場内が明るくなると同時に席を立ったが、客席後方にいたファンたちに先を越され、ポラロイド撮影の列の随分後ろになってしまった。背伸びして前方をうかがうと、いつものおばあちゃん座りで客を迎える踊り子がいた。差し入れの入った紙袋や花束を受け取る様子を見て、手ぶらの自分の迂闊さに気付く。さっきまで身に着けていたショートデニムとレザーベスト姿の日向愛が一歩一歩近くなるにつれて、彼女に何を問えばいいのかまたわからなくなる。「あなたの本名は山県琴音さんですよね?」こうストレートに訊きたいが、周囲で多くの人が聞いていることを思えば有り得ない。

 また一歩列が進み、踊り子と客の会話が耳に入ってくる。

「久しぶりですね。来てくれてありがとう」

「あんたが広島にこんのじゃろ!」

「劇場に私を呼んでってリクエストしてくださいよ」

淡々とと言われてみればそう聞こえなくもない低めの声。手元で空になったフィルムを補充し終わったカメラを、グレーの作業服を羽織った大きな背中の客に渡す。

「さあ、どうしましょ?」

「そのチョッキギリギリまで開いてくれんかの」

「は~い」

 あと三人。膝立ちになった踊り子が後ろの客に声を掛ける

「お後お衣装大丈夫ですか?脱いじゃいますよ」

持ち帰るにしても絵里奈の手前ヌードは絶対無理。緊張で震える手を上げる。教室のあの時と同じように。

「お客さん、こちらへどうぞ」

ハスキーだが優しい声に促され、こちらを振り返る数人の客を通り越して、僕は美しきストリッパー日向愛の目の前に立った。

 「初めましてですよね?」

「あ、はい。でも……」

踊り子の頬にえくぼが浮かぶ。

「でも?」

「僕たち子供の頃、会ったことありますよね?」

言えるのはそれが精一杯、周りが気になり語尾が小声になる。パッと彼女の顔が華やいだと思った次の瞬間。

「キャハハハ、そういうお客さんいっぱいいるんですよ。何百人目かな?ハハハ……」

嬌声を上げる口元を覆っていた両手で膝先のポラロイドカメラを掴むと、僕の両手に押し付けるように突き出した。

「さあ、どうしましょ?」

会話の接ぎ穂を拾えぬまま、僕のリクエストも確かめず彼女が採ったポーズのままシャッターボタンを押した。レンズに背中を向けてこちらを振り返る、えくぼを浮かべた日向愛。カメラを返して茫然とする僕に、彼女が元の抑えたトーンでまさに淡々と声を掛けてくれた。

「お客さん、次のステージも観ていってくれませんか?とっておきを出しますので」

頷くことしかできない。たった今ポラロイドカメラが吐き出したシートフィルムを、踊り子がその細っそりと長い人差し指と中指で摘まみ上げる。

「この写真預かりますね。そこにお名前を書いてくれたら次のステージの後ここで、サインしたのをお返ししますからね」

何の反応も示せないまま舞台に置かれたシートに”国友一寛”とペンで記すのが精一杯で、僕は次に待つ客に押しのけられてすごすごと席に戻った。

 僕はオープンショーで数十㎝先の彼女の顔を観て正気を保つ理性に自信がなく、デュランデュランが流れる間ずっと下を向いたまま、壊れた猿のおもちゃのようにただ掌を打ち鳴らし続けていた。


 その後の時間の経過が思い出せないまま、日向愛の二回目のステージが近付いていた。腕時計を見て確かめると、進行は随分押していて彼女の出番を最後まで見届けていては、東京へ帰れなくなることが容易に知れた。

 目の前の暗闇が切り払われると、見覚えのある白の衣裳に身を包んだ踊り子がスポットライトに浮かび上がり、聞き慣れたショパンの”子犬のワルツ”が劇場に流れ始めた。以前観た時と寸分たがわぬ速い手脚の動き、風船との戯れ。二曲目”革命のエチュード”、三曲目”英雄ポロネーズ”と日向愛のショパンの景は進行し、特に変化は感じられない。

 “とっておき”とは何だろう?踊り子との初会話に舞い上がっていた僕の聞き違いだったのだろうか?困惑する僕の前に衣装を脱ぎ、ベビードール一枚となった踊り子が静かに佇み、右手を前方へ突き出してポーズを取った。ラストは”ノクターン”。琴音に教えられた僕のお気に入りの曲。きっと彼女にとってもそうに違いない。ゆったりと静かなピアノの音が場内に流れ始める。そんな名曲に乗ってベッドをする日向愛がまた観られれば、それでいいではないか。

 耳に強い違和感。どうした?入りの感じが似ているのと、先入観からてっきり”ノクターン”だと思ったが、違う。そしてこの曲もまた僕はよく知っている。琴音に聞かされたのはたった一度切りだが、後悔と寂寥感に苛まれCDで何度も何度も聞き直したあの曲。ショパンの”別れの曲”が舞台中央の踊り子の手脚を動かし始めていた。

 予備知識なくうっとりと聞き惚れていた小学生のあの日と違い、今の僕はこの曲名もその意味するところも知っている。僕がここに辿り着くまでにこれほどの時間を要したのに、彼女はさっきの一目で気付いていた。そしてこれが僕に対する”とっておき”の答えだったのだ。”ノクターン”の優しさとは違う、美しさと哀しさを両立させた”別れの曲”の旋律に乗って、日向愛が山県琴音が花道を通って盆に進み横臥する。かぶり席の僕を明らかに見つめてくれている。今までステージ上で観たことのない満面の笑みとともに。いくつ歳を重ねても成長のない僕は、頬が紅く染まるのを止められない。彼女は懐かしそうにえくぼを浮かべて優しく微笑んでくれた。

 ここで鍵盤タッチが強くなり、曲はテンポの速い調和を欠いた不穏なパートへと移って、彼女の動きも一気に激しくなる。いつものクールな表情に戻ると盆の上で腰を起点に長い脚を高く上げ、素早く膝を折って両脚を交差させ、さっと片膝立ちになって両手を複雑に動かし、客席の不安感を掻き立てていく。引き締まった身体とつま先まで行き渡る研ぎ澄まされた感性を目の当たりにして、一挙手一投足全てを見落とすものかと僕は瞬きすることも忘れ彼女の動きを追った。

 再び曲調が元に戻り、作曲家自身がそう呼んだという〝美しい旋律〟が舞台を包み込むと、”別れの曲”はフィナーレへと向かう。青い血管の浮かんだ透き通るような色の右脚を高々と差し上げたL字、曲げた片膝のつま先に肘を絡めて上へ引き上げるスワン、そしてダイナミックな弧を描くブリッジ、一ポーズ一ポーズ丁寧に決め、盆が回って僕の前を通るたび、下から大胆に覗き込み、上から密やかに見守るようにして、必ずえくぼを浮かべて視線を送ってくれる。劇場全体が揺れるような大きな拍手に包まれ、彼女のダンスを堪能しているのは僕だけではないことを証明してくれている。名残惜し気に立ち上がり花道から舞台中央に静かに戻った彼女は、観客いや僕に向って右手を大きく左右に振ってさよならをする。彼女の”とっておき”のきっと念押しなのだろう。ゆっくりと瞼を下ろした踊り子の裸体は闇に溶けていった。

「ありがとうございました!」

いつになく張りのあるそして凛とした声が、万雷の拍手に負けず劇場の天井にこだましたのだった。


 僕は身の回りのものを引っ掴むと、まだ暗い客席の段差に躓きながら慌ただしく劇場を飛び出した。東京行きの新幹線の時間に間に合わないからではない。もう一度劇場が明るくなって、日向愛が山県琴音が舞台袖に現れるのを目にしてしまったら、あのえくぼをもう一度見てしまったら、きっともう帰れなくなると思ったから。

 夜遅い新幹線の空席だらけの椅子の一つに呆けたように背を預けながら、あのポラロイド写真に彼女はどんなメッセージを書き記していたのだろうか、僕はそればかりを空想していた。脳内で繰り返されるピアノの音色。温かく透明な液体が一筋、頬を流れ落ちた。

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