第1章 雪を待つ⑥

 このサロンは天使先生の気まぐれでときどき開放されるので、日によっては教室終わりにハーブティーやハーブのお菓子をいただくこともあった。けれど、こんなふうにひとりだけ呼び出されるというのははじめてのことだったので、せっかくのクッキーの味が良くわからなかった。先生とふたりきりというのも、なんだか気恥ずかしくて、心が落ち着かない。

「天使先生」

 わたしはティーカップを置いて、口を開いた。

「いま制作している人形なのですが、中断しても良いでしょうか」

「それはなぜ?」

「だめなんです」

 現在取り掛かっている人形は、あどけなさを残した少女で、ふんわりと微笑みを浮かべているような表情にする予定だった。やわらかく、それこそ天使のような。けれど、いざ顔を作ろうとすると、どうしてもそうはならない。それはそうだろう。だって、わたしの頭に浮かんでいるのは、あどけなさとは違う凛とした表情の――。

「このまま制作を続けても、きっと良いものにはなりません。ごめんなさい、先生に何度もご相談して決めていただいたイメージの人形なのに」

「それは、気にしなくて良いのですよ」

 天使先生は特に驚くこともなくそう言って、空になっていたわたしのティーカップにハーブティをゆったりとした動作で注いでくれた。湯気とあたたかな香りが立ち上る。

「いまの子を保留にしたいのは、わかりました。それで、どうしましょう。人形作りをおやすみしますか?」

「いいえ」

 わたしは膝のあたりのスカートをぎゅっと握りしめた。目上の相手に自分の意見を言うのは、とても勇気がいる。

「違う人形を、制作したいです。どうしても、その子を作らなければいけない気がして」

「かまいませんよ」

 いつの間にか俯いてしまっていた顔を上げると、天使先生が穏やかに微笑んでいた。

「はじめてですね。黒須さんが、自分から作りたい人形があると言ってくれたのは。きっと、素敵な子を誕生させましょうね」


 それから天使先生とわたしは、そのままサロンで新しく取り掛かる人形の話をした。顔や、骨格や、髪型。そして、その人形の性格と、感情のことまで。天使先生は制作する人形について話をするとき、生きている人間のことであるかのように訊いたり答えたりする。だからこそ、天使先生の人形は、魅力的なのかもしれない。

 つい話し込んでいたら、気づかないうちに随分と時間が経っていたみたいで、植物の隙間から見える窓の外の景色は、すっかり夜のそれになってしまっていた。

「ごめんなさい、天使先生。こんなに遅くまで」

「いいえ、とても楽しい時間でしたよ」

「でも、他の生徒さんは……」

「実花がいますから」

 螺旋階段を降りると、既に一階からはひとの気配が消えて、しんとしていた。建物の外に出ると、玄関に実花さんがいて、古めかしい形状の如雨露で水やりをしていた。花壇には、可愛らしい小さなつぼみをつけた植物が植わっている。

「あの、ごきげんよう」

「はい」

 こちらをちらりとも見ない実花さんの返事は、やはりそっけない。挨拶だけしてそのまま帰ろうかとも思ったけれど、既に冬の香りがする十一月につぼみをつけている植物のことが気になって、恐々と問いかけた。

「その花壇のお花、これから咲くんですか?」

「はい」

 少し間があって、つぶやくように実花さんは言った。

「花は必ずしも春に咲くわけではありません。いつ咲くのかは、それぞれの花によって違います」

 そんなことも知らないんですか、とでも言われた気がして。

 無知な自分に対して急に恥ずかしさを覚え、わたしは挨拶もそこそこに、人形教室を後にした。

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