わたしたちの愛したハーブカフェ

春花夏月

序章

第0話 わたしの愛した喫茶店

 

 忘れられない、大切な場所がある。 

 そこは、複数のハーブの香りが溶け込んだ、穏やかな時間の流れるお店。

 店主とお客さんの、安らかな笑顔が満ちる、ハーブティーを専門にした喫茶店だ。


 春の陽だまりのような、そのお店と出逢ったのは九年前。

 当時のわたしは小学一年生で、その日は、桜の透明な春だった。

 桜舞い散る中、今は亡き母と手をつないでわたしはその喫茶店を訪れ、

 そこで、春そのもののような温もりに触れた。


 それがきっかけであり、わたしの始まりだった。

 喫茶店の名前は『桜の丘のハーブカフェ』。

 わたしはその日、その喫茶店に『恋』をした。


 桜の丘のハーブカフェは、名前の通り小高い丘の上にあった。

 当時小学生だったわたしにとっては坂道を登るのが少し大変で、それに加えて喫茶店は家から大人の足で歩いて一〇分ほどの距離があった。


 けれど、わたしは初めてその喫茶店を訪れた日から、時間を見つけるとその場所によく足を運んでいた。

 道中の苦労は、もうすぐお店に行けるのだというわくわくには勝てなかったし、お店を訪れると年老いた男性店主、いち先生がいらっしゃいと柔らかく笑いかけてくれて、それを聞いただけで今日も来てよかったな、また明日も来よう、としみじみと感じていたことを鮮明に覚えている。


 桜の丘のハーブカフェは、優しい笑顔が満ちた喫茶店だった。

 常連さんは笑いながらお茶を飲んでいて、わたしが見たことのないお客さんはメニュー表や店内を楽しそうに眺めていた。とても温かなお店で、居るだけで心が休まるような素敵な場所だった。


 わたしはその喫茶店で常連のお客さんと今日あったことを些細に情報交換したり、いち先生に『ハーブティー』というものを教わっていた。


「ハーブティーはね。人の心に寄り添えるお茶なんだ」

 ある日、いち先生は子守歌を添えるように、そう口にした。


「ハーブというものには、いくつもの種類があるんだ。そして、そのひとつひとつには、どれも『そのハーブだけが持っている優しさ』があるんだよ」


 それはなんだか、とっておきの宝物を自慢するような響きだった。


「たとえば、そうだな。このラベンダーの香りをかいでごらん」

 そう言って、いち先生はカウンターの向かいにある棚からガラス瓶を取って手渡してくれた。中には、薄紫色の乾燥した植物がいっぱい入っており、蓋を開けて香りをかいでみると、心地のよい安らかな香りがした。

 

「ラベンダーはリラックス効果のあるハーブなんだ。気持ちが落ち着くだろう」

 そう言いながら、いち先生はわたしの頭をそっと優しく撫でてくれた。


「それからこれは、ペパーミント。こっちは、集中したい人に、すっと爽やかな心地を届け、意識を整えさせるハーブだよ」

 次に手渡された瓶の中身は、さっきのラベンダーと違って透き通るような目が覚める香りがした。

 全然ちがう匂いがします、とわたしは思ったままの感想を述べる。


「そう。香りという側面だけでもハーブには、それぞれの持つ香りがあって、そのひとつひとつは人に届ける優しさの種類が違うんだ。だからね、ハーブティーは、飲む人の『その時の心』に寄り添えることができるんだ。なんだかとても優しいお茶だと思えないかい?」

 いち先生は朗らかに笑った。


「これは、僕がずっと思っていることなんだけどね。僕は、喫茶店には物語が生まれると思っているんだ。

 このお店を訪れてくれたお客さんと僕との間で生まれる物語だ。たまたま喫茶店を見かけて来店してくれたお客さんでも、なにか特別な思い入れがあってこのお店に来てくれたお客さんでも等しく、たった一杯、わずかな時間であっても、そこに確かに物語は生まれるんだ。

 それなら、その物語はどんなに短くても、読んでよかったと思えるものがいいだろう? 

 だから僕が喫茶店を開くなら、お客さんの『その時の心』に寄り添える心優しいハーブティーを豊富に取りそろえた、『よりよい物語にすることのできる喫茶店』にしようと思ったんだ」


 僕の夢の話だよ、と少し恥ずかしそうに笑って、いち先生は語った。


 その時のいち先生の瞳は、きらきらと光っていた。年老いた男性のものには見えない、少年みたいに純粋なものだった。


 自身の憧れたものにまっすぐと向き合っているその瞳を見て。

 当時のわたしは、無性に。たまらなく悔しくなった。


 あの時はわからなかったけれど。

 ……今なら、わかる。


 わたしは、そのとき生まれて初めて『夢』というものを抱いたのだ。


 ああ、この人のようになりたいと。この人の見ている景色を、わたしも見てみたいと。

 だから、なのだろう。いち先生の言葉を聞いたわたしは気がつくと、ほとんど衝動的に『ある言葉』を告げていた。


 残念ながらその言葉は受け入れては貰えなかった。

 でも、その代わり、わたしといち先生はその日、ある大切な約束を交わした。


 いつかその約束が叶うといいな、とわたしはあの日からずっと心から思っている。


 それは、春の夕暮れに交わした、わたしにとってかけがえのない約束の記憶。

 

 そして、時は流れて数年後。家庭の事情で、三年間その町を離れていたわたしは高校一年を迎える春、いち先生の喫茶店のある、生まれ育った町に戻ってきた。


 叶うのは、ずっと先だと思っていたけれど

 もしかしたら、思ったよりも早く『あの大切な約束』は叶うかもしれない。


 そう期待に胸を膨らませる高校生のわたしは、まだ知らなかった。

 いち先生と交わしたあの約束は、もう決して叶うことがない、ということを。


 これはすでに舞台の幕を下ろしてしまったお噺。

 これから始まるのは、とある喫茶店、『桜の丘のハーブカフェ』を愛した人たちの、幕下ろし(終わり)から始まる複数の物語だ。

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わたしたちの愛したハーブカフェ 春花夏月 @haruka7tuki

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