第15話 漆黒の羽根は夜に舞う



 森をしばらく走り、徐に黒が「下りよう」と言って馬を下りた。


「どうした?追手はまだ巻けてないぞ。・・・うわっ!」


 馬上で訝るスガヤを、腕を引いて強引に下ろした。

 黒に抱き抱えられる形になり、スガヤは狼狽してその身を離した。そして赤く染まった顔を背ける。


「どうした、俺が欲しいのではなかったのか?」


 事も無げに言う黒に、スガヤは片腕で顔を隠しながら軽く睨んだ。


「何なんだよ急にっ。今はそれどころじゃないだろっ」


 逃げることに全集中していたスガヤは、黒の急な甘い態度に面食らった。


「まあ、そうだが。・・・逃げることにも飽きてきてな。」

「何なんだお前は、勝手だな」

「はは。枷のない今、強いられる我慢など無意味だろ。お前を前に乗せて走り続けるのはなかなかに骨が折れる。」

「・・・枷と一緒にタガまで外れたのか」

「うまいこと言うな。」


 黒は声をたてて笑いながら馬を引き、ゆっくりと歩き始めた。



 草を踏み分ける音のみが響く闇夜の森の中。

 少し拓けた場所で、不意に黒は立ち止まった。


 黒の後ろを歩いていたスガヤは、立ち止まるまでしばらく続いた沈黙に心をざわつかせていた。


「・・・」


 目の前に立つ漆黒の翼の片方折れた男は、一つの覚悟を決めている。それはおそらく以前自分の中で固めた覚悟と同じもの。


 下唇を噛み、スガヤは泣きそうな声で、黒の背中にそっと問った。


「人間に、なることにしたのか?黒」

「そうだな。お前も、今も同じく望むなら。」

「私はあの日からその想いは変わってないよ。」


 スガヤの言葉に、黒はゆっくり振り返った。

 そして熱の帯びた漆黒の瞳をスガヤに向ける。


「時間も余裕もない。優しくする自信もないが、それでもお前はいいと言うのか。」

「ああ。構わない。」


 スガヤの微笑みからは、偽りが微塵も感じられなかった。

 黒はスガヤの手を掴み、自分の方へ引き寄せると、そのまま深く口づけを交わす。

 スガヤは黒の背に手を回した。触れた羽根を愛おしそうに何度も撫でる。


「やめろスガヤ。これ以上煽るな」


 一瞬唇が離れ、黒は眉根を寄せる。息遣いが荒い。余裕がなかった。

 スガヤは微笑み、


「お前が好きだ。黒。この折れた翼も、その翼を捨てるお前の覚悟も、全部」


 だが瞳に溜まった涙が一筋、頬を濡らした。

 その涙に黒は唇をあてがい、


「俺は俺の全部を捨てても惜しくはない。お前と共にあらんことを願ったのだからな」


 スガヤの腰を力強く引き寄せ、首元に軽く歯をたてた。

 甘い疼きが身体を巡り、堪えきれずに声が漏れる。


 黒はスガヤの声を封じるように、再び熱い唇を重ねた。



 黒の熱を身体の中心に何度も打ち付けられながら、スガヤは定まらない視野で、舞い散る漆黒の羽根を見つめていた。


 満月を何度も陰らせる漆黒の羽根は、いくつも、いくつも、風に乗っては空高く踊る。


(・・・綺麗)


 まるで黒が空を自由に飛び回るように、その羽根だけが無限に羽ばたく。


「黒、・・・飛べたな」


 うわ言のように、スガヤが喘ぎながら呟いた。

 荒い息のまま、黒はスガヤを見た。

 呆けたように遥か遠くへ視線を投げるスガヤの頬をそっと撫でる。


「お前が、俺に自由をくれたんだ。お前となら、どこまでも飛んでみせる。共にいこう、スガヤ」


 スガヤは、自身の上で熱に浮かれる黒にゆったりと微笑みかけた。


「ああ、一緒に、」


 スガヤの反応に、黒は口角をもたげ、満足そうに笑った。


 黒の熱が身体の中で熱く弾ける。


 スガヤは震える身体を静めるように黒の背中に腕を回した。


「・・・っ」


 だがスガヤの手が、黒の背で、一瞬戸惑ったように止まる。


 黒の背中には、もう何も残ってはいなかった。

 スガヤは黒の背中に爪を立てて、嬉しいの悲しいのかわからない涙を幾つも溢した。



     ・・・


 第二大隊情報部隊が到着した時には、既に森の一角は夥しい数の漆黒の羽根で覆われていた。


「くそ、間に合わなかったか。人間に堕ちやがった」


 ウィリデが忌々しそうに歯噛みする。

 サンディークスは折れた腕を支える手に力を込め、ウィリデに気づかれない角度で微かに笑っていた。


 東の空が白々と明けてゆく。


 漆黒の羽根はそよ風ほどの揺らぎに踊り、やがてゆっくりと空へと舞い上がって崩れるように消え去った。


「人間に堕ちたなら追っても仕方ない。くそ、撤退だ!通常の業務に戻るぞ!」


 そして第二大隊は、有翼人からの被害を未然に防ぐべく、街の警邏へと戻っていった。



     ・・・


 ルーベンへ向け、国境を目指す馬の上で、背後の黒が不意に笑いながらスガヤに言った。


「ああ、そういえば。言ってなかったが、俺たち有翼人は人間に堕ちると長くは生きられない。」


 スガヤは驚き振り返る。


「は?な、何言ってるんだ、」


 あまりの衝撃に、一瞬何を言っているのか、理解できなかった。

 だがすぐさま心臓が激しく拍動し、声も、身体も震えて、スガヤは泣きそうに顔を歪めた。

 黒は相変わらず声をたてて笑っていた。


「なに、構わんさ。俺は十分生きた。だが、残りの時間が僅かなら、その一秒たりとも無駄にしたくはない。」

「・・・」

「俺のつがいになれスガヤ。毎日抱かせろ」


 「馬鹿じゃないのか」とスガヤはぎこちなく笑いながら前を向き、刹那タガが外れたように泣いた。黒はスガヤの震える首筋に唇をあて、答えをねだる。


 スガヤは何度も頷き、


「その代わり、長生きしてくれ。私のためにっ」


 悲鳴のように懇願した。


 黒は「努力しよう」と笑って、涙でぐしょぐしょのスガヤを振り向かせると、その唇を少し強引に奪った。


「愛しているスガヤ。俺の命が尽きるその瞬間まで、ずっと共にいよう。」


 スガヤは俯き、肩を震わせ、声を殺さず子供のようにいつまでも泣いていた。


 黒はそんなスガヤをそっと抱き寄せ、「お前は本当によく泣くなぁ」と、楽しそうに笑った。




              ~了~



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