第14話 さし伸べられた手を掴む



 自分を抱えている黒の腕をそっと剥がした。

 そして徐に立って振り返り、手をさし伸ばす。


「立てるか、黒。」


 黒の目からは既に赤みが消えている。

 深く、だが確かに光を帯びていた。


「・・・ああ、」


 黒は迷うことなくスガヤの手を掴んだ。

 スガヤが少し引くと、膝を立て、ゆっくりと立ち上がった。


「行こう、黒。私たちのゴールはここじゃない。」


 根性見せろよと、イタズラっぽくスガヤは口角をもたげる。

 大きな黒の影は、声をたてて軽く笑った。


     ・・・


 煌々と光る満月が、森の中でもはっきりと見えた。

 闇に紛れて逃げるには、あまりにも明るすぎる。


 地下牢を脱出し、寝静まった首都ペルティナーキアの街を二人が馬で走り抜けた時、どこからともなくピーと甲高い警笛が轟いた。



 身を屈め、手綱を短く持ち、疾走する風の中でスガヤは、隣を走る黒に、時より視線を投げた。


 危機的状況であることはわかっている。

 だが、黒と共に逃げる今を、スガヤは心底楽しく感じられていた。胸が熱く踊った。


     ・・・


 盗んだ二頭の軍馬が森の湿地を駆け抜ける。

 そのすぐ後ろを、栗毛の馬に乗った赤髪の将校が追ってきた。


 赤髪の将校に気をとられていたが、耳をすませば辺りに複数の爪音が響いている。


(このままでは囲まれる)


 スガヤは並走する黒を見た。

 黒はスガヤの視線に気がつくと、刹那徐に馬の手綱を強く絞った。


「え?黒!」


 スガヤも手綱を絞りかけ、だが、


「お前は逃げろ!後で必ず追い付く」


 黒は声を荒げた。そして自身の右手に力を込めて、馬の首を強引に曲げた。

 一拍も置かずに、黒の軍馬が赤髪の将校へ向けて走り出す。


 舌打ち、スガヤは考える暇もなく、馬の尻を強く蹴って馬から飛び降りた。


 軍馬は無人のまま森を駆け、同時にいくつかの地響きがそれを追う。束の間の静寂が辺りを包んだ。


(黒は、いつも勝手なことばかり言うな。)


 一人で逃げる選択肢など、そもそもスガヤは持ってはいなかった。

 スガヤは軽く嘆息して、だがすぐさま身を翻し、黒の駆けていった方へと走り出した。



(・・・いた。)


 黒と赤髪の将校は、既に馬から下りている。

 赤髪の将校は剣を手にしたまま、若干楽しそうに黒に話しかけていた。


 スガヤは身を潜め、息を殺す。


 赤髪の将校の声が微かに聞こえてきた。


「あんたはニグレドさん、でいいんですよね?」

「・・・」

「あんたは創世の始祖、プルウィウス・アルクスの弔いのために降り立った《混沌のニグレド》で、俺の父の長兄。違いますか?」

「お前の父?・・・おお、お前の父はルフスかぁ。そうか、なるほど似ておるな。お前の名は?」

「・・・サンディークス、です」


 黒は顎に手を当て懐古を滲ませ薄く笑った。


「良い名だ。だが、覚えるには足りぬな。よし。時間が惜しい。俺を捕らえたければ殺す気で来い、我が甥よ。」


 そして黒は落ちていた小枝を拾い、造作もない所作でそれをサンディークスに向けた。


 サンディークスの赤い髪が炎のように戦慄く。

 その顔には満面の笑みが浮かんでいた。


「生け捕りの命令だったけど、・・・またウィリデ少佐に怒鳴られるな」


 にわかに呟き、サンディークスは白い歯を剥き出しにした。

 刹那赤い疾風が黒に襲いかかる。


 一撃を黒は身を捻って避け、小枝で首の後ろを狙う。それをサンディークスの白刃が止めるよりも早く、漆黒の片羽根が開いて黒は軽く飛び、顔側面に向け回し蹴りを繰り出した。寸ででサンディークスは腕で蹴りをガードする。だが態勢を崩してサンディークスが前のめりになったところを、黒はその勢いのまま、もう一度身体を捻って全体重をかけた踵をサンディークスの首根っこに落とした。


「ぐわっ」


 サンディークスはその場に崩れ落ち俯せ、黒はサンディークスの背に舞い降りた。そして直立のままサンディークスの首を踏みつける。


「ぐっ」


 息ができずにサンディークスの顔がみるみる赤黒く染まっていく。


「粋がってたわりには呆気ないな」

「・・・う、うるせぇ」

「でもまあ、一興ではあったな。今後も励めよ。」


 黒は声をたてて笑うと、首を押さえていた足を退け、そして一瞬の迷いもなく、サンディークスの右の脇を勢いよく蹴りあげた。


「ああああっ」


 サンデイークスの苦痛に歪んだ声にならない声が轟く。

 サンディークスの右腕はあらぬ方向へ曲がっていた。

 悶え苦しみ、のたうち回る。


 黒はそんなサンディークスの背から降りると、振り返ることもなく乗ってきた軍馬へと歩み寄っていった。


(これが、黒の本性か。)


 黒は有翼人だ。人間ではない。

 感情の流れが人と同じではないと改めて知れて、スガヤの胸は熱く震えた。


「黒!」


 身を隠していた繁みから飛び出して、スガヤは黒に駆け寄る。黒は一瞬目を丸くしたが、愛おしそうにゆったりと微笑んだ。


「お前は本当に全然人の言うことを聞かないなぁ。」


 そして馬に跨がると、スガヤに手をさし伸べる。

 スガヤはその手を掴んだ。同時に強く引っ張られ、黒の前に乗せられた。


 黒が手綱を勢いよく弾き、二人を乗せた馬は森の闇へと吸い込まれていった。





 

 



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