『りもぉと』

東北本線

りもぉと

【一日目】


「アキ、今日から中学のインターネットの授業だろう?パソコンで分からないことがあったら、相談するんだぞ?」


 いつものようにコーヒーをすすりながら、お父さんが僕に向かって胸を張る。そんなこと、と僕がお父さんに反論しようとすると、


「そう言ってこの前はアプリをアンインストールしちゃったじゃないですか。パソコンは秋保あきほの方が詳しいんですから、余計なことをせずに子どもに任せるのも親の務めですよ?」


 お母さんが代わりに僕の言いたいことを全部言ってくれた。

 それを子どもに言わせるのも親の務めなんじゃないだろうか、なんて僕はちょっとひねくれた感想を抱いてしまう。


 テーブルからは、こんがりと焼いたパンの優しい香り。並べられたその一枚を、かなえがイスから身を乗り出して手に取った。


「もうすぐ夏休みなのにつまんなーい。早くクラスの友だちとみんなで遊びに行きたーい。コロネとか、消えちゃえばいいのに……」


「コラ、叶。最初のやつを食べ終わってからもう一枚とりなさい。あと、コロネじゃなくてコロナだ」


 小学生になったばかりの妹が、いつものようにお父さんに怒られる。まったく、いつまでたっても学習しない。しょうがない妹だ。

 やれやれ、と僕は両手でジェスチャーした。しゅんとしていた叶は、そんな僕に憎たらしそうな眼を向ける。


「お兄ちゃん、ちゃんと上半身だけでも身だしなみは整えなさい!寝ぐせついてるじゃない、恥ずかしい!」


 お母さんの真似をして、僕に人差し指を振りながらそんなことを言う。


「うるさい、バ叶」


 正直、妹とは余計な口をききたくない。

 それにしてもどうだろう、この言葉。僕はこのバ叶を思いついたとき、自分は天才なんじゃないかと思ったものだ。


 言われた叶は、眉毛をピクピクさせながら何かをわめき散らしていたが、そんな妹を僕は放っておく。食べ終わった皿を台所に持っていくために立ち上がった。


「秋保、それ言っちゃダメってお母さん前にも言ったでしょう?……叶に謝りなさい」


 こうして台所のお母さんに叱られるところまで想定済みだ。


「あ、もう授業に遅刻しちゃう時間だ!急がないと!」


 お母さんの「コラ、秋保!待ちなさい!」は背中にしっかりと聞こえていた。だけどそれを無視して、僕は笑顔のまま二階へと続く階段を駆け上がった。


 久しぶりにクラスメイトの顔を見ることができる。

 なんだかテンションまで上がって、昨日の夜から僕は眠れなかった。徹夜しちゃった影響なのか、なんだか今日はずっと耳鳴りがしている。視界もどこか薄く赤く染まって見えちゃうくらい。


 階段を昇りきると、誰もいない二階のお父さんの書斎が視界に入る。ちょっと落ち着いた方がいいかもしれない。心臓がバクバク鳴ってる。

 深呼吸をして、僕はドアノブに手を掛けた。


 ぬるり。


 慣れない感触にドアノブから手を離して、あわてて右手を見る。

 赤黒く、汚れていた。


「うわぁっ!」


 それが血の色に見えて、僕は思わず声が出る。


「アキ、どうした?」


 階段の下からお父さんの声が聞こえた。その声に我に返って、もういちど僕はおそるおそる右手を見た。


 いつもの右手がそこにある。赤黒くなんて汚れていない。なんだ、僕の勘違いだったみたい。


「……な、なんでもなーいっ!」


 階下のお父さんに向かって、僕は声を張り上げた。


「アキ、あとでちゃんと叶に謝るんだぞ?」


 そんなお父さんの声に、僕は聞こえないくらいの返事をしながら、あらためて書斎に入ることにした。ガチャリ、とドアノブが鳴って、ドアがかすかにきしんだ音をたてる。


 液晶画面が光るパソコンが、僕を見返していた。

 部屋の奥に歩いてカーテンを開けると、水滴がたくさん付いている。ねずみ色の雨雲が、太陽なんてこの世にまるで最初からなかったかのように空を覆っていた。


 戻ってイスに腰掛けると、なんだかお父さんの臭いがしたような気がした。さっきリビングで会ったばかりなのに懐かしい気持ちになってしまうから、書斎という空間は不思議だ。


 液晶画面を見ながら、マウスを操作しようと手をのばす。

 また、耳鳴りが強く聞こえた。

 遠くから聞こえているようで、それでいて自分の中から聞こえているような。甲高い電子音のようで、誰かの悲鳴にも聞こえるような。


 マウスだと思ったそれは、真っ白く変色した誰かの手だった。


 血液が付いてまだら模様になったそれが、僕の手の下でひんやりと冷たい感触を放っている。


 全身が逆立つような悪寒に襲われて、息をのんだ僕は慌てて手を放す。


 頭を振ってもう一度みると、そこにはやっぱり黒いマウスがあるだけ。


 悪寒がやまない。なんだか背後から視線を感じるような気がする。

 大きい声を出して、お父さんを呼ぼうか。いや、中学生にもなってそれは恥ずかしい。


 パソコンの机の両脇には本棚があって、お父さんが集めた本が静かに僕を見返している。

 背中がゾクゾクと音でもたてるように強張って、あるはずのない視線を背後に感じてしまう。それも、生命いのちを感じる視線じゃない。冷たい、音のない世界から、僕をにらみつけているような。


 振り返る。


 もちろんそこには、誰もいなかった。

 僕は大きく息を吐いた。お父さんが前にしていたように、目頭を揉む。


 眠っていないせいか、今日は幻覚みたいなものを見てしまうようだ。お父さんに相談した方がいいかな。いや、リモート授業が終わったら、昼寝でもすることにしよう。

 大きく深呼吸をして、僕はアプリをクリックする。クラスのグループメッセージをスマホで表示して、パスワードを入力した。遅刻ギリギリだ。


 画面いっぱいに四角がたくさん映る。そのひとつひとつに、クラスメイトの上半身が入っていた。


「よーう、秋保。遅刻だぞぉー」


 中心にいる少し大きな四角に、少し髪の毛が薄い阿部先生がいた。カメラに顔を近付けているようで、顔の輪郭がなくて目と鼻と口だけになっている。面白いけれど、ちょっと気持ち悪い。


「すみません、先生。ちょっとパソコンの操作に慣れなくて遅れました」


 そんなことを僕が有線でつながったマイクに向かって言うと、画面の中の僕の四角い枠線が赤色になる。


「おーう、明日からは気をつけろよー」


 先生の言葉もよそに、二週間ぶりにクラスメイトの顔を眺める。委員長の遊佐くん、本ばかり読んでいる江田くん、テレビゲームがうまい佐野くん。みんな揃っている。早坂さんも、峰田くんも、吉田さんもいる。

 このコロナ騒動でずっと家で孤独を感じていた僕は、なんだか心に熱が戻ったような気持ちがして鼻の辺りが熱くなってしまった。


 画面の中で愛想笑いしている僕の気持ちには誰も気が付くはずもなく、画面いっぱいに映っていた先生はカメラから離れていく。

 今日から、リモート授業がはじまる。




【二日目】


「じゃあ、今日の授業はここまでにする。ちゃんと家で宿題しとけよー?」


 阿部先生がそう告げると、全員の枠が赤色に光ってみんなの返事が聞こえた。何人かはその返事を最後に、すぐに画面からいなくなってしまう。


 外はもう夕方なのに、窓からはまだ蝉の鳴き声が響いている。

 その音に誘われたのか、授業中はなかった耳鳴りがまた聞こえてきた。


「秋保ぉー、どうした?顔色わるいぞ?ちゃんとメシ食ってるのかー?」


 間延びした声だが心配そうに、先生が声をかけてくれる。画面の先生の顔が、アップになって目と鼻とおでこだけになった。


「あ、だ、大丈夫です。ちゃんとご飯は食べてます」


 耳鳴りのせいで声がちゃんと出ているか不安だったが、先生からは「そうかー」と返事が返ってきた。


 大丈夫だ。耳鳴りなんてすぐに治まる。

 夕暮れに染まったカーテンが、まるで乾いた血液を撒き散らしたかのように見えたとしても、いつものようにすぐに元に戻るはずだ。

 僕は目を擦りながら、アプリの終了ボタンをクリックしようとした。心臓が音をたてて鳴っている。心の中の僕がそれを鎮めようと、おちつけ、と声を出し続けている。夏だというのに冷たい汗が頬をつたった感触に、僕は思わず喉を鳴らした。


 先生が眉をひそめて、


「目が疲れたかー?やっぱりパソコン授業なんて慣れないこと…………」


 と言っている途中だったが、僕は構わず画面を閉じた。おそるおそる、視線をカーテンに戻す。


 カーテンに見えていたドス黒い乾いた模様は消えて、クリーム色のそれが風に揺れていた。

 夏の夕暮れ。お父さんの書斎にひとり。

 僕はため息を吐いて、腕を上げ背中を伸ばす。黒い皮のイスがギィイと嫌がるような音をたてた。


 それが悪かったのかもしれない。その音が、なにかを呼び寄せてしまったのかもしれない。


「…………え?」


 部屋の色が、急に暗くなる。

 まるで夏の太陽を誰かが手で包んで隠してしまったかのように、急に部屋から明るさが失われた。

 さっきまで照明もなしにパソコンを操作できていたというのに。


 落ち着きを取り戻そうとしていた胸の音が、また早まる。言葉にしようのない不安が、僕の全身を襲った。耳鳴り。頭痛を感じるくらいの。

 電源を切っていないパソコンの液晶画面の光が、唯一の光源として部屋を、僕を照らしている。


 マウスのかたわらにある誰かの右手も。


 悲鳴をあげそうになるのを、僕は必死に耐えた。僕はおかしくなってしまったんだろうか。こんなありえない幻覚を見るなんて。やっぱりお父さんやお母さんに相談して、はやく病院にでも行くべきだったのかもしれない。


 手首から先の右手はぴくりともせずに、色を失った爪でこちらを見返している。

 耐えられず、僕はカーテンへ視線を移す。

 さっきの幻覚と一緒だ。血飛沫ちしぶき縦横無尽じゅうおうむじんにカーテンに、いや、カーテンだけじゃない。よく見ると窓の周りの壁にも。いや、壁だけじゃない。本棚や、天井や、そこらじゅう。僕が座っていたイスや使っていたテーブルにも。塗りたくったようにドス黒い模様が付着している。


「うわぁっ!」


 僕はイスごと後ろにひっくり返って、したたか背中をぶつけた。頭も打って激しい痛みがあったけれど、今はそれどころじゃない。手を床について、上半身をやっとの思いで起こす。


「あ…………」


 見つけてしまった。見なければよかった。頭の隅で考えてしまった。それがよくなかったに違いない。幻覚に対して、疑問なんて持っちゃいけなかった。


―――――他の部分は、どこにあるんだろう?


 そんなこと、考えちゃいけなかったんだ。

 パソコンの下。僕が昨日から足を置いていた空洞の部分に、それらは乱暴にしまわれていた。

 左手。手首から肘。肘から肩。真ん中には胴体。股関節から膝。膝から足首。足。

 嘘みたいに白いそれらに、まだらに模様をつけたような醜い色。

 そして血の跡。まるで水たまりのようにフローリングの床に色をつけている。


 後ずさろうにも、僕はもう身動きひとつできなかった。声が出ない。逃げることすら叶わない。


 まただ。


 背中に、視線を感じる。


 声も出ないというのに、首の自由が戻ったのがわかる。振り返ってはいけない、と心の声が痛いくらいに警鐘を鳴らしている。


 考えたくない。考えちゃいけない。


――――頭はどこだろう?


 床についた僕の右手に、なにかが触れている感触。


 振り向いちゃいけない。右手のうしろに、視線を落としてはいけない。


 頭の中で、制止し続けている声に、すでに僕は従うことができなかった。


 ぽっかりとだらしなく開いた口。歪んだ顎。ぶんぶん、という音が急に聞こえ出す。


「う……、ひっ……」


 見開かれた瞼。視点の定まらない瞳。青く、白く、色を失った皮膚。真っ黒い蠅が眉のあたりでうごめいている

 あんなに長かった髪は、乱れて、ちぎれて、その数本が、無機質に顔を隠している。


「ぎゃああああああっ!」


 その叫びは、まるでその頭部から発せられたかのようで。

 耳の奥から聞こえるような。

 それでいて、僕の声とも思えない。

 そんな耳障りな音が、僕の意識を奪い去った。




【三日目】


「なんとも痛ましい、凄惨な事件が起こったようです。現場の小林さーん?」


「はい。13歳の少年が家族を殺害し、妹さんの遺体を切断した現場となったのが、こちらの家です。すでに警察が少年を保護し、最寄りの警察署に護送したとのことです。現在、情報が錯綜しているため警察の方でも本人を含め、周辺住民への聞き取りが行われているとのことですが、確かな筋から得た情報によりますと、どうやら事件が起こったのは三日前。少年が自宅にあった刃物で次々と家族を殺害した、とのこと。とくに妹さんに関しては遺体を切断し、二階の一室に放置していた可能性があるとの情報を得ています」


「……少年は家族を殺害した次の日から中学校のリモート授業を受けていたという情報が入ってますが、事実ですか?」


「どうやらそのようです。少年の担任を務める教師の方に電話取材をすることができまして、普段と変わらない様子でリモート授業を受けていた、と話していましたので」


「そうですか。本当に言葉が出ません。また何か分かったら教えてくださーい」





「それで、びっくりして気を失ったってことか?」


 いつもの食卓。お父さんが、お母さんが作ったお味噌汁を啜りながら僕に向かって聞いた。


「本当にすごく怖かったんだから、マジで。もう当分あの部屋には行きたくないよ」


 昨日、僕は妹の生首の幻覚を見て、そのまま意識を失ってしまったらしい。目が覚めたらお父さんとお母さんが心配そうにリビングのソファで僕を見つめていた。いつもの日常に戻ることができた僕の安堵といったら、言葉にできるものじゃなかった。

 お母さんに半泣きで飛びついたことは、二人にはぜひ内緒にしておいてほしいものだ。


「本当に大丈夫なの?学校で変な薬が流行ってて、コロナで学校に行けなくて禁断症状とか……」


「はっはっは。お母さんは心配性だなあ。アキがそんなことするわけないだろう、なあ?」


 僕は首を縦に何度か振った。

 お母さんにはこういう妄想癖というか、物事を悪い方に考えすぎるところがある。

 きっとそういう部分が僕にも遺伝して、変な幻覚やありもしない耳鳴りになって出てきているのかもしれないな。


「お兄ちゃん、大丈夫?」


 向かいに座っている叶が、心配そうな顔をしてそんなことを口にしたものだから、僕は飲んでいた牛乳をふき出しそうになってしまった。

 まさか仲の悪い妹の口から、こんな優しい言葉が出てくるとは。それほど昨日の僕は、よっぽど家族を心配させるような状態だったようだ。

 僕はコップをテーブルに置く。


「みんな、心配かけてごめん。僕はもう大丈夫だから」


 コップがコトン、と音を立てると、一瞬、お父さんの胸に深々とナイフが刺さっている幻覚が見えた気がした。視界が、赤く染まっていく。

 いいや、そんなの気のせいだ。

 こんな温かい家庭が、そんな簡単に崩れ去ってしまうわけがない。

 そんなのは、僕の理想の世界じゃない。


――――ピンポーン……


「あら、誰かしら?こんな朝早くに……」


 僕を現実へと引き戻す、玄関のチャイムが響く。


 耳鳴りが、やまない。

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