甘い香りと梅雨の空

灰色の厚い雲が空を覆う、梅雨の朝。

 

今朝も早くから、しとしとと雨音が店に響き、ガラス窓にも透明の雨粒が張り付いては、ゆっくりと流れ落ちています。


ポプラの木の向こうに見える、青や紫の紫陽花も丸く煌めく雨をまとい、しっとりと艶っぽい情緒を漂わせています。



こんな日は、いつもならとても静かな店内。



ですが、今日は開店してすぐからお客様がいらっしゃっています。




「わぁ!マキさん、上手です〜!美鈴さん、見てください!」


マキさんという、先月からいらっしゃっている中学生の女の子が座るテーブルから、みーこちゃんが興奮気味に私に手招きをしました。


食器の整理をしていた手を止めて、二人のもとに行くと、みーこちゃんがスケッチブックの1ページを「ほら!」と、嬉しそうに見せてくれました。


「あら、綺麗ねぇ・・・!まぁ、これはみーこちゃんの働いている姿ね。あら、こっちで見ているのは私かしら」


「みーこちゃんが元気いっぱいに動いて、美鈴さんがお料理をしながらキッチンから優しく見守っている風景が、何だか優しくて平和で・・・とても好きなんです。こうして描いておけば、帰ってからもここの事を思い出して気が楽になるんです」


マキさんは恥ずかしそうにそう言って、肩をすくめました。


淡い黄白色の店内に、お日様の光が溢れているような優しいその絵は、水彩色鉛筆というもので描いたそうです


「とっても素敵ですよ。マキさんは本当に絵がお上手ですね」


「私も上手になりたいです〜。マキさんの色鉛筆なら上手に描けるんですかねぇ」


みーこちゃんが羨ましそうに、マキさんの色鉛筆のケースをつついているので、思わず笑ってしまいました。


「あら。道具じゃなくて、マキさんが頑張って絵を書き続けた努力ですよ。みーこちゃんも、たくさん練習すればきっと上手になるわ」


するとみーこちゃんは「むぅ・・・上手への道のりは長いのですね・・・」と眉間にシワを寄せながら頬をぷっくりと膨らませ、そんな彼女の姿にマキさんもクスクスと笑っていました。




リン・・・


午後1時。


マキさんに今までの絵を見せて頂いていると、一人の男性がいらっしゃいました。


グレーのジャケット姿の男性は30代くらいでしょうか。


大人しそうな雰囲気の彼は、長い前髪で目元が隠れていますが、ちらりと覗く目は恐縮したように終始下を向いています。


「お、お邪魔します・・・」


「いらっしゃいませぇ!お好きな席にどーぞ!」


みーこちゃんは、キッチンに駆けていき、テキパキとお盆におしぼりとお水を準備してくれています。


「いらっしゃいませ。雨の中、来てくださってありがとうございます」


「あぁ、いえ、そんな・・・」


マキさんの隣のテーブルの席に腰を下ろした男性は、目線だけで店内をキョロキョロと見回していらっしゃいます。


「はい!おしぼりと、お水です。メニューはこちらです」


白のメニューブックを男性の前に置いたみーこちゃんは「あと、こちらも良かったらどうぞ!」とタオルを差し出しました。


「お客様、肩とズボンの裾を辺りが、雨で少し濡れていますよっ。風邪を引いてはいけませんから、お使いください!」


「えっ。あ、ありがとう」


小さな声でそう言ってタオルを受け取った男性は、濡れたお洋服を拭き、みーこちゃんはタオルを受け取ると満足気にキッチンへと戻ってきました。


「みーこちゃん、偉いわ。お客様の細かいことに気がつくって、とても大切なことよ」


そっとみーこちゃんの頭を撫でると、嬉しそうに2つに結んだ髪を跳ねさせながら喜びました。




「みーこちゃん、お皿とバターを出しておいてくれる?」


「はぁい!」


フライパンの上で、綺麗なキツネ色に染まる、ふっくら分厚いホットケーキ。


みーこちゃんが持ってきてくれた丸皿に2つ重ねて、四角く切ったバターを乗せます。


赤く、まんまる可愛らしいさくらんぼを飾り付けたら、シンプルながらも甘くてふわふわが堪らないホットケーキの完成。


お店の中にも優しい甘い香りが漂い、マキさんもオレンジジュースを飲みながら幸せそうにキッチンをながめていらっしゃいます。


バナナ多めのミックスジュースも一緒に、お盆に乗せて、先程の男性のテーブルへとお運びしました。




「お待たせしました。ごゆっくりお召し上がりください。あと、こちらはサービスです」


ちょうど私の隣では、みーこちゃんもマキさんにサービスの桃ゼリーをお出ししているところでした。


「以前いらっしゃったお客様がくださったものなんですよ。とても美味しいので、もし宜しければお客様にも召し上がって頂こうかと思いまして」


男性は、少し驚いた様子で「えっ・・・良いんですか?あ、ありがとうございます」と消え入りそうな声で何度も頭を下げながらおっしゃいました。


すると、マキさんが「あっ!」と歓喜の声を上げました。


「これ、有名なお店のですよ。うちの近くなんですけど、いっつも行列出来てるんです。一度食べてみたいなぁと思ってたんです。嬉しいです、ありがとうございます」


マキさんは、スプーンを手にして一口食べ「んー!やっぱり美味しいー」と目を細めました。


この桃ゼリーは、大好きなお祖母様を亡くされてご来店された小春さんからでした。


みーこちゃんが八百屋さんにお使いに行くと、ご夫婦が預かってくださっていた沢山のゼリーを持って帰って来てくれたのです。


新鮮でとても瑞々しい桃を使い、ゼリーは甘さ控えめな為、桃の甘さがより感じられて、それはそれは美味しいのです。


みーこちゃんと毎日頂いていますが、これは是非ともお客様にも召し上がって頂きたいと思っていたのでした。




男性の静かな食事風景と、しとしと振り続けている雨の音。


しっとりとした空気と、土と草花の濡れた濃い匂い。


ぽつりぽつりと、花弁に雨粒を受け止めては揺れる紫陽花も、見ているだけで心が洗われるようです。


梅雨の醍醐味を五感で贅沢に感じながら、穏やかな午後を過ごしていました。



「マキさん!今度は何を描いてらっしゃるんですか?」


色鉛筆をさらさらと動かし、水の入った筆ペンに持ち替えては色をぼかしたり混ぜたりするのをキッチンから見ていたみーこちゃんは、興味を抑えきれずにテーブルへと駆けていきました。


「ほら、そこの風景だよ。ポプラと紫陽花の。ここから見た景色。私、このお店が大好きなの。ここに来るのが楽しみだから、毎日学校も行けるんだよ」


「ほんとですか?!良かったですねぇ、美鈴さん!私も嬉しいですーっ。マキさんの絵がたっくさん見られて、いつも来てくださるのを楽しみにしているんですよぅ」


「そんな風に言ってくれるのは、みーこちゃんと美鈴さんだけだよ」


マキさんは照れて困ったように笑いながら、残っていたオレンジジュースを一気にストローで吸い上げて飲み干しました。




「絵、とても上手・・・です」


ぽそりと呟くように、隣のテーブルで食後にミックスジュースを飲んでいた男性が言いました。


「ですよねぇ!そうですよっ。周りの人がマキさんの凄さに気付いていないんですよ!恥ずかしくなんか無いんですよぅ!」


みーこちゃんは両手を腰に当てて「自信を持つべきです!」と胸を張ってみせました。


「その・・・僕、こんなですけど、一応本を作る会社で働いているので・・・将来性、あると思います」


「えっ。本当に?嬉しいです、嬉しいです!わぁ、このお店に来るようになってから良い事ばかりだなぁ」


「す、すみません。偉そうに・・・」


恐縮した男性は、それからは一言も話すことのないまま、持って来ていた本を読んでいらっしゃいました。




「入学早々からクラスに馴染めなくて、絵ばっかり描いてたら今度はそのせいでイジられて。暗いとかダサいとかオタクとか・・・。親も悲しませたく無いから言えなかったし。でもここは、美鈴さんもみーこちゃんも、お客さんまでもが、良い人ばかりで、ここに来たらホッとするんだぁ」


マキさんは「もっと宣伝したらお客さん増えるのに」とおっしゃいましたが「いや、でもここは静かなお店だからこそ落ち着けるし・・・」と悩むように難しい顔をしました。


「自分の努力を恥ずかしがる事はとても勿体無い事ですよ。オタク・・・というのも、1つのことを探求して知識も、絵であれば技術も得ていると言うことでしょう?とても凄い事ですよ。マキさんの周りの世界では理解者が居ないだけで、人間というのは世の中沢山いるのですから」


大人になるにつれ、沢山のことに触れれば、誰だって何かに興味を持つでしょう。


それは、絵や音楽、車やお料理、お裁縫、お洒落だって何だってそう。


何かを探求していくのは、とても楽しく、生きがいにすらなるものです。


何に興味を持つかは人それぞれ。


みんな違うからこそ、それぞれの得意や好きを生かして、世の中が豊かになるというものです。


私がそう伝えると、マキさんは「これからも絵、頑張ります!」と満面の笑顔で応えてくださいました。




午後3時。


「あっ。そろそろ帰らなきゃ。ごちそうさまでした。朝からずっと長居しちゃってごめんなさい」


腕時計を見てハッとしたマキさんは、絵の道具を鞄に片付け始めました。


「良いんですよ。ここはお客様が過ごしたいように過ごす場所ですから。外は足元が濡れているので気を付けて帰ってくださいね」


「絵も見れて楽しかったですぅ!ありがとうございましたっ」


お店のドアを開けて、マキさんが角を曲がって見えなくなるまでお見送りしました。


どんよりと灰色の雲に覆われていた空は、少し光が差し始め、水分を含んだ空気は、優しく雲間からのお日様にキラキラと輝いていました。




「あの。ごちそうさまでした。僕もそろそろ失礼します。その・・・美味しかったです」


マキさんが帰られて30分程経った頃、男性も読んでいた本を鞄に仕舞って、静かに席を立ち上がりました。


「先程はありがとうございました。出版社さんで働く方に将来性があるなんて言ってもらえて、マキさん、とても自信がもてたと思います」


みーこちゃんが、パチパチとそろばんを弾いてお会計をしている間に男性に声をかけると「いえ、そんな・・・」と頭をぶんぶんと横に振りました。


「昔の自分を見てるようで。まぁ、僕はあんなに上手じゃ無かったし、虐められてから絵を描くのを辞めてしまったので・・・」


「もー!あんな幼い頃から同じ生き物同士で虐めるなんて、何て嘆かわしい事なんでしょうっ。はい、400円のお釣りですぅ」


みーこちゃんは背伸びをしながら、カウンターに置いたトレイにお釣りを乗せました。


こんな小さな子の口から『あんな幼い頃』という言葉が出たことに驚いたのか、男性は目をぱちくりとさせ、「あ。あぁ、どうも」と、慌ててお釣りを財布に入れました。




外はすっかり雨が上がり、ポプラの葉から時折雨の雫が滴っては、足元の水たまりに波紋を広げています。


「ここにこんなお店があるなんて知りませんでした。とても気に入りました、この店・・・また来ます」


玄関前で小さな声でそう言いながら男性は頭を下げました。


「えぇ。またお会いできるかと思います」


「えっ・・・?」


「いえ。是非、またいつでもいらしてくださいね」


私がそう言うと、少し戸惑ったままの男性は「ありがとうございました」と再び深く一礼してから帰って行かれました。



黒い大きな羽を持つカラスが、誰かを呼ぶように一つ鳴いてから空を飛んでいきました。





「あなたの心がこの店を必要としていれば、きっと。またお会いできますよ」




リン・・・



儚い鈴の音が、静かな雨上がりの路地裏に小さく響きました。


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