マーカスのプロポーズ

 通い慣れたオリヴァーの店の前で、アデリナは足を止めて深呼吸をする。喜びを隠しきれない緩んだ顔で扉を開けた。


「おはようございます!」

「あら、アデリナ。おはよう」


 夜会の日から数日後、アデリナは再びオリヴァーの店で働けることになった。


 オリヴァーと話し合って決めたことだ。クラリッサはいずれ男爵夫人になるかもしれない。そうなればオリヴァー一人で店を回すのは難しい。縫製などは技術的に難しいが、それ以外でクラリッサがやっていた仕事の引き継ぎを、アデリナが少しずつ引き受けることになったのだ。引き継ぎが終わるまでは結婚はお預けということにもなっている。


 それはマーカスを急かす意味もあってのことだ。マーカスはクラリッサに交際を申し込んではいるが、プロポーズをしていない。クラリッサにあまり負担をかけたくないから二の足を踏んでいるのだろう。


 だが、クラリッサも二十代後半だ。男爵夫人には後継ぎを産むという役割も含まれる。そして、歳を重ねるごとに出産の危険は増してくるのだ。クラリッサ自身も、そのことには不安を感じているようで、アデリナに話してくれた。


 男爵夫人の仕事は一朝一夕でこなせるようなものではない。それなら、実際になってから少しずつ学んでいくのもいいとアデリナは思う。今ならアデリナも家にいるし、できる範囲で手助けができる。


 それに、アデリナの母だって、初めから男爵夫人だったわけではない。クラリッサの不安も理解した上で教えてくれるだろう。


 そう思って、昨夜マーカスを焚きつけたのだ。きっとこの後クラリッサにプロポーズをするはずだと、アデリナは一人でほくそ笑む。クラリッサは不思議そうにそんなアデリナを見ている。


「アデリナ、今日は楽しそうね。何かいいことでもあった?」

「いいえ。これからいいことが起こりそうな予感がするんです」

「へえ。アデリナは勘がいいのかしらね。いいことがあるといいわね」

「はい!」


 にこやかに笑うクラリッサに、アデリナは満面の笑みで答えた。そうして二人で笑い合っていたが、クラリッサがふと気づいた。いつも一番に店に来るはずの人がいないのだ。


「そういえばオリヴァー、遅いわね」

「ああ、そうですね。今日は遅れるかもしれないと昨夜言っていましたから」


 アデリナは昨夜のことを思い出す。オリヴァーは両親から夕食を一緒にと言われ、ベールマン邸に来てそのまま泊まった。実はマーカスを焚きつけたのはアデリナだけではなかったのだ。オリヴァーもマーカスの相談に乗っていたようだから、今朝もまだ話しているのかもしれない。


 アデリナの言葉を聞いて、クラリッサがにんまりする。


「なるほどねえ。昨夜はお楽しみだったと。成人したばかりだというのに、アデリナは違う意味でも大人になっちゃったのね」

「え?」

「え?」


 意味を計りかねたアデリナは首を傾げた。釣られてクラリッサも同じ方向に首を傾げる。


「昨夜はオリヴァーと一緒だったんじゃないの?」

「はい。両親とお兄様もですが。両親がオリヴァー様と話したいと言うのでうちに泊まってもらったんです。お兄様とは遅くまで話をしていたみたいですけど」

「……うわぁ。さすがにご両親がいるところでは手は出せないわよね。今度はアデリナがオリヴァーのところに押しかけなさい」

「どうしてですか?」


 アデリナは真っ直ぐにクラリッサを見て問う。本当にわからないのだ。クラリッサは引きつり笑いをする。


「……アデリナの純粋さが痛いわ。自分が汚れた大人になった気分よ。ねえ、アデリナ。オリヴァーとはキスしたの?」


 予想だにしない言葉にアデリナから表情が消えた。そしてみるみるうちに真っ赤になった。その反応でクラリッサも理解した。


「ああ、ごめんなさい。アデリナがそこまで純粋だとは思わなかったわ。それにしても、オリヴァーはヘタレなのかしら……」


 クラリッサはアデリナに聞こえないように呟いているみたいだが、残念ながらアデリナには聞こえている。


 オリヴァーの名誉のためにも何かを言わないといけないと、おかしな決意を固める。


「オリヴァー様はヘタレじゃないです! それは私に色気がないからで……うう」


 庇おうとして墓穴を掘った。涙目になるアデリナを、クラリッサは慌てて慰める。


「いえ、アデリナに色気がないわけじゃないのよ? オリヴァーがいけないのよ。女に恥をかかせるなんて、なんて奴なのかしら!」


 クラリッサは憤慨するが、オリヴァーは何もしていない。とんだとばっちりだ。むしろ、何もしていないからこそ責められるという理不尽を本人は考えもしないだろう。


 そこでアデリナが反対にクラリッサに問う。


「……それなら、クラリッサさんはお兄様とキスしたんですか?」

「え、それは、まあ……」


 クラリッサは頬を染めて目を泳がせた。その反応にアデリナは目を輝かせる。


「そうなんですね! どうしたらそういう雰囲気になるんですか?」

「ええ……? それは、私からは言えないわ。オリヴァーに教えてもらいなさい」


 クラリッサは苦笑した。だが、直接聞くのは恥ずかしいことだとアデリナにもわかる。モジモジと両手の指を絡ませながら俯く。


「聞けませんよ。女同士ならまだ平気なんですけど……」

「ふふふ。心配はいらないわ。きっとオリヴァーが実地で教えてくれるから。ねえ、オリヴァー?」


 クラリッサは何故かオリヴァーの名前を呼んだ。アデリナは振り向こうとしたが、その前に声がした。


「何のことだ?」

「ひゃっ!」


 驚き過ぎて、アデリナは文字通り飛び上がる。恐る恐る振り返ると、ちょうど入口の扉を開いてオリヴァーが入ってこようとしていた。


「今の話、聞いてました……?」


 アデリナが汗を拭きつつ問うと、オリヴァーは不思議そうな顔でアデリナの前まで歩いてきた。


「いや。名前を呼ばれたから返事をしただけだが」

「よかった……」


 アデリナはほっと胸を撫で下ろす。すると、オリヴァーが眉を上げた。


「なるほど。俺には聞かれたくない話をしていたと。わかった、俺の悪口か」

「いえ、ちがっ……」

「ええ、そうよ。オリヴァーがいかにヘタレかという話をしていたの」

「クラリッサさん!」


 確かにそんな話にはなったが、それが全てでもない。また恥ずかしい流れに戻らないかと、アデリナはヒヤヒヤしながら話をそらす。


「早かったんですね。もっと遅くなるかと思っていました」

「へえ。それで俺の悪口を言っていたと」


 オリヴァーはアデリナを睨め付ける。


「いえっ、だから、違うんです!」


 アデリナが両手を振りながら否定すると、オリヴァーが吹き出す。


「わかってる。クラリッサにからかわれたんだよ。アデリナは嘘をつけないからな。それよりも、ほら、見てみろ」


 オリヴァーが振り返って入口を指差すと、所在なさげに佇むマーカスがいた。クラリッサが慌ててマーカスのところへ駆け寄る。


「どうしたんです? こんな朝早くから」

「いや、こういうことは先延ばしにしない方がいいとオリヴァー様に言われて……」

「マーカス、敬称はいらないと何度も言っただろう? 俺は義弟になるのだから」

「確かにそうなんですが。落ち着かないんですよ。わかってください」


 弱り切ったマーカスの手には小さな箱がある。目敏いアデリナが弾かれたようにオリヴァーの顔を見ると、オリヴァーは満足そうに頷く。


「思ったよりも早く説得がうまくいったんでね。連れてきたんだ」

「ありがとうございます……!」


 オリヴァーは少し屈むとアデリナの肩に腕を回す。目が合うと、オリヴァーはいたずらっぽく黙るようにと人差し指を立てた。頬を紅潮させたアデリナは笑顔で頷いてマーカスとクラリッサを見る。


 マーカスはクラリッサの前で跪く。クラリッサは助けを求めるようにアデリナを見るが、アデリナは大丈夫だと頷いた。マーカスは息を大きく吸い込むとクラリッサを見据える。


「クラリッサ。それほど長い時間を過ごしたわけではないけれど、この先も君と一緒に過ごしたいと思っている。俺と結婚してくれないか?」


 うまくいきますようにと、アデリナは祈るように両手を合わせる。クラリッサはぽつりと呟く。


「……私で、いいの?」

「君がいいんだ。苦労させないとは言えない。平民だった君が俺と結婚することで男爵夫人になるんだ。大変な思いをさせると思う。俺のわがままだとわかってる。だから、一生をかけて俺は君の味方になることを誓う」


 マーカスらしい、飾りのない真摯な言葉だった。クラリッサは黙ってマーカスの手を取ると立たせて思い切り抱きつく。


「……私もあなたと一緒にいたい……! もちろんよ!」

「よかった……!」


 アデリナは声を上げてオリヴァーと顔を見合わせる。歓喜のあまり正面からオリヴァーに抱きついて泣くのを、オリヴァーも「よかったな」と抱き返してくれたのだった。

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