変な動物

増田朋美

変な動物

変な動物

今日は曇っていて、なんだか憂鬱になりそうな日だった。なんだか、気象病という言葉も流行っているけれど、お天気のせいで体調を崩す人が続出しているようである。そんな中でも人は、生きているのであるが、時には、それが著しく困難になってしまう人も少なくない。

さて、ブッチャーが朝起きると、いつも用意してくれてある朝ご飯がどこにも置かれていなかった。はああ、又姉ちゃん、鬱になったな、とわかったブッチャーは、急いで姉の有希がいる部屋へ向かっていく。

「おはよう姉ちゃん。どっか具合の悪いところでもあるの?」

と、ブッチャーが聞くと、

「ええ、一寸ね。」

と有希は答える。この時必要なのが、自分の具合がよくないということを、しっかり成文化させるということだ。其れはうやむやにしてはいけない。

「具合悪いって、具体的にどこが悪いんだよ。」

「頭が痛いの。」

そう答えてくれるのであれば、まだ有希の具合はさほど悪くないということが言える。もしもっと具合が悪かったら、自分で、症状を言えずに、大暴れしてものを壊すということもあり得るので。

「そうか。じゃあ、朝ご飯はコンビニで何か買ってくるから、それでいいよ。頭痛なんて、誰にでもある事だから、気にしないでいいから。姉ちゃんは、よく休んでいてや。」

「ダメよ。働いてないんだから、あたしがちゃんとやらなきゃ。」

こういうところは、まさしく精神を病んでいるからこそ出てくる言葉なのだろう。こう言われると、普通のひとは戸惑って、何を答えたらいいのかわからなくなると思われる。

「働いていようがいまいが、関係ないよ。頭痛は、よくある事だから今日は休んでいてくれれば、それでいいよ。」

と、ブッチャーが言うと、

「でも、私は、働いていないから、身分が低いのだし、具合が悪くなっても、ちゃんと仕事をしなきゃ。」

と、有希はいう。

「そんなことないさ。頭痛なんて誰にでもあることだから、ほんとに気にしないで休めばいいんだ。」

ブッチャーはそういうのであるが、有希は、まだ納得できない様子だった。何とかしなければ、と、布団から起きようとするので、

「いいよ。姉ちゃん。人間だもの、調子が悪い時だってあるさ。そんな時に、身分も高い低いも関係ないさ。」

と、ブッチャーは姉にまた寝るように言って、部屋から出ていった。伝えるときは簡潔な言葉で言うことも必要だ。無理に、理屈をこねまわすと、有希は混乱してしまう恐れがある。混乱して暴れでもされたら、ブッチャーのほうが疲れてしまう。

ブッチャーは、コンビニに行って、弁当を買ってくると、姉のいない食堂で、一人で食事をした。ブッチャーが食べ終わって、弁当箱を水道で洗っていると、パジャマ姿のまま有希がやってきた。

「なんだい姉ちゃん。もう頭痛はよくなったの?」

「ええ、少し良くなったから、やろうと思ってこっちに来たんだけど。もう食べちゃった?」

ブッチャーがそういうと、有希は、そう答えた。

「ああ、コンビニでお弁当を買ってきたから、それで大丈夫だよ。姉ちゃんの分は、冷蔵庫に入れてあるから、いつでも好きな時に食べて。」

ブッチャーは、そういったのであるが、有希は、ひとこと、

「私って本当にダメね。」

と一言言った。

「いやあ、今日はたまたまだ。よくなったら、又やればいいさ。」

と、ブッチャーが言うと、

「いいえ、障碍者は、身分が低いんだから、謝らなきゃいけないのよ。ただでさえ生かしてもらってるんだから、そういうことはちゃんと、恩返ししなきゃ。だって、本来の正しい生き方は、医療とか介護の仕事について、働いて、家族にお金を入れるのが正しい生き方でしょう?」

どうやら有希は、それを真実だと思い込んでいるらしい。

「あたしは、自分のことをダメな人間だと思い続けることによって、犯罪を犯さずにこれまで生きてこれたのよ。その自負心があるから、これが一番正しいと思う。だから、今日、出来なかった自分に罰を与えなきゃ。そうすることによって、障碍者が生きていられるんだから。」

「姉ちゃん、それだけはやめろ!」

思わずブッチャーは、でかい声で言った。罰という単語が出たら要注意だ。つまりそれは包丁で手首を切るとか、そういうことを意味するからだ。

「なんで?できない人間には罰が必要じゃない。ただでさえ働いていない人間は悪人じゃない。其れを罰して何が悪いのよ。」

「そうだけど、刃物で自分を傷つけるということは、良くないことなんだ。」

「なんでよくないことなのよ。私にとっては必要なことなのよ。働いてないんだから。」

ブッチャーは困った顔をして、姉を見た。有希の左腕には、すでにリストカットした後が多数刻まれている。この上に又傷をつけるということはさせたくなかった。

「じゃあなんでこれがいけないことなのか、あんたが説明してよ。」

有希が、そういうことを言いだした。

「いやあ、自分の体を傷つけることは良くないことなんだ。其れは、自分に対して、さらに自分を炒めていることになるんだ。」

ブッチャーはそういうが、実際のところ、この質問の答えは見つかっていない。偉い人は、お父さんやお母さんにもらった体を傷つけるなというひともいるが、これほど意味のない言葉はない。

「そういうことなら、自分を罰したっていいわ。私はもともと、身分が低い、価値のない人間ですからね。だから、手首を切って、いっそうダメにするの。」

「そうなんだけどねえ。姉ちゃん、もし、そういうことやるんだったら、入れ墨した方がよほどいいよ。体にきれいなものを入れれば、リストカットもしなくなるんじゃないの?」

ブッチャーは、ため息をついてそういうことを言った。有希は、そのすきに包丁をとろうとするので、

「姉ちゃん、其れはダメだ!」

と、彼女の体を抑えた。こうなれば力比べである。大学時代に習っていた柔道の技術が、まさかこんなことで役に立つとは思わなかったのだった。とにかく有希があきらめてくれるまで、押さえているしかない。

「姉ちゃん、お願いだ!それだけはやめてくれ!」

と、ブッチャーは、一生けんめい姉を抑えて、何とか、自傷行為を辞めてくれるようにしなければならない。それが何時間かかろうとも、そうしなければならないのだ。

「わかったわよ、聰。」

数分して、有希は、そういうことを静かに言った。

「あたし、そこまでにするわ。もうここで何かやってても、解決しませんものね。其れなら、私なりのやり方でやるから。」

「ああ、やっとわかってくれたかあ。姉ちゃん頼むよ。自傷行為をして、俺たちをハラハラさせるよりも、もっといい解決策をかんがえてくれよ。」

ここで絶対言ってはいけない単語というものがある。姉ちゃんは、頭痛がすると言っているが、そういうことができるんだったら、大丈夫だという単語である。これだけは絶対に言ってはいけない。それを言ってしまうと、障碍者はさらに苦しむことになるからである。ブッチャーはそれを学習していた。だから、ブッチャーも其れは言わずに、有希自身に解決策を考えさせるようにしている。

「姉ちゃん、何か解決策は、ひらめいたか?もし、そうなったら、言ってもらいたいんだけどな。」

普段であれば、其れも口にしなかったブッチャーであったが、今日はなぜか、姉に対してそういうことを言ってしまった。

「何かひらめいたら言ってくれよ。」

「ええ、ひらめいたわ。少し、かんがえたいから、製鉄所に行ってくる。あたしにできることはそれしかないし。」

と、有希はそういうことを言うのだ。期待していなかった答えだけど、それだけでもひらめいてくれるなら、いいとブッチャーは思った。

「で、製鉄所へ行って何をしてくるんだよ。」

ブッチャーが聞くと、

「ええ、掃除とか、ご飯の支度とか手伝ってくる。其れしか私には、才能がないもの。ほかに何があると言ったら、ミスコンで優勝しただけの事よ。後は、どこかに勤めようとか、そういうこともできないし。でも、製鉄所だったら、歩いて行けるし、理解してくれる人たちもいるから、そこで、掃除でもしていれば、気がまぎれるわ。」

と、有希は答える。本当に、これ以外に、姉ちゃんの才能はないものだろうかとブッチャーは思うのだが、もうそんなものを獲得できる機会はとうになくしてしまった年齢だった。有希は、何か芸実的なものや、有名なスポーツなどに特化している女性ではなかった。そういう女性であったら、また彼女は違った人生だったかもしれないが、そういう事がだんだんできなくなっていくようにさせるのが、日本社会というものである。

「じゃあ、ごめんね聰。私、出かけてくるから。帰りはいつになるかわからないけど、夕方までには帰ってくるわ。」

と、有希は、ブッチャーにそういうことを言って、カバンをとり、荷物をまとめて出て行ってしまった。洋服などをもっていかなかったので、今日中に帰ってくると思われるが、ブッチャーにしてみれば、こんなに迷惑をかけた姉に、しばらく外へ出て行ってもらいたいと思ったくらいだった。本当に姉に仕事になりそうなスキルはないものか。姉のできることと言ったら。本人も言う通り、掃除と洗濯と炊事だ。後は、その妖艶と思われる容姿だけである。何か学ばせようとカルチャーセンターへ行かせた時期もあったが、講師の先生と、教え方をめぐってトラブルを起こし、やめさせられたことも事実としてある。長所と言ったら、それらの家事全般を怠けないでやってくれるところだけであった。

さて、有希は、15分ほど歩いて製鉄所に到着した。製鉄所と言っても、鉄をつくるところではなく、居場所を失った人たちが、勉強したり、仕事をしたりするための建物である。毎日自宅から通ってくる利用者もいるし、製鉄所内に、泊まり込みで利用している人もいる。八割くらいが女性であるが、中には男性の利用者もいる。利用者たちは、有希がちょっと手伝いに来たというと、喜んで受け入れてくれた。製鉄所の利用者たちは、みんな、彼女と同じような居場所のなさを味わっているからだ。

「さてと、今日は何を手伝おうかしら?」

と、有希が利用者の一人にいうと、

「ああ、じゃあ、水穂さんのご飯食べさせて。」

と、彼女はいった。実は、これが、一番難易度の高い手伝いなのであるということを、製鉄所へ来たことのある人なら、みんな知っていた。

有希がわかりました、と言って、とりあえず四畳半ヘ行くと、真っ黒な雄のグレイハウンドのたまが、彼女を出迎えてくれた。

「たまなんて、センスのない名前を付けたものねえ。なんだか猫みたいじゃない。本人はいやじゃないかしら。」

と、有希はたまにきいたが、人間の言葉を知らないたまは、返事をしなかった。たまの真っ黒な体は、つやつやしていてまるで真珠のようである。水穂さんが熱心に手入れしているのだろう。頭の先からしっぽの先まで、まるで黒真珠といった感じだ。

有希はたまに出迎えられて、四畳半のふすまを開けた。

「水穂さん、具合はいかが?」

と、有希は水穂さんに声をかけるが、返事の代わりに帰ってきたものは咳であった。やれやれ、お返事位してくれればいいのにと思いながら、有希は水穂さんの近くに座る。

「今日は、何が食べたいですか。食欲の秋でもありますし、何か作りますよ。」

「何もいりません。食べるという気がしないんです。」

と、水穂さんは、弱弱しくそういうのである。

「だめよ。栄養を取らなくちゃ。このままだと本当に寝たきりになっちゃうわよ。それでもいいの?」

そういう風に水穂さんに直接言いたいことを口に出して言えるのは有希だけであった。ほかの利用者たちは、そういう風に詰問することはできない。

「ほらあ、水穂さんが食べてくれないと、他のひとだって、食べなくなっちゃうわよ。食べられたら食べて元気をつけましょうね。何が食べたいのか言ってちょうだい。すぐに、作るから。」

「本当になにもいりません。何も食べたくないので。」

水穂さんはそういうことをいうのであるが、水穂さんの顔は少し皴になっており、げっそりとやせ細った、いわゆるマラスムスに近い状態であった。これが、長期間続いてしまえば、骨がスカスカになって、立って歩けなくなる可能性もある。

「せめて、おかゆくらい食べて頂戴。いま作ってくるから。必ず食べて頂戴よ。」

有希は、一度立ち上がり、台所に行って、お米を鍋の中に入れて、水を普通に炊くより多めに入れて、ガスコンロにかけた。有希はこういう時炊飯器を使わない。炊きがゆというスタイルでおかゆをつくるのだ。そして、おかゆができるまで、ぐつぐつと煮る。この作業を退屈しないで、ちゃんとやれるのは、彼女だけだった。おかゆは、30分以上煮てやっと出来上がった。それを広めの器に移して、ある程度かき回して冷まし、有希はお盆に器とおさじを乗せて、水穂さんのいる四畳半に行った。

「ほら、白がゆ、作ってきた。おいしいから食べて。ちゃんと味見もしてあるし。しっかり食べて。」

と、有希は、水穂さんの口元に、おかゆのはいったおさじを持っていくが、水穂さんは顔をそむけてしまった。

「水穂さん、どうして食べないの。何も食べないでいたら、本当に力がつかないわよ。人間は動物なんだし、食べ物から栄養を取らなければ生きていかれないのよ。早く食べて。」

有希は、一生懸命食べさせようとするが、水穂さんは、布団をかぶったまま、何も食べなかった。様子を見に来た利用者が、心配そうな顔をしていた。

「やっぱり食べないんですか。もう三日以上何も食べていませんね。どうして三日間何も食べないで平気な顔していられるんですかね?私は、不思議で仕方ないですよ。」

「ええ?三日も食べてないの?だって、人間は動物よ。一日食べなかったら、其れこそ疲れ果てて、動けなくなるものよ。」

と、有希は、利用者に言ったが、利用者ははいと頷いた。

「犬は、二三日ご飯をたべなくても大丈夫だけど、人間はそうじゃないわ。食べないということがさらに、人間を壊していくわよ。ほら、よくあるじゃないの、拒食症になって、おかしくなっていった女性の話。」

「ああ、そうですね。いわゆる、カレン・カーペンターとかそういうひとですね。」

有希と、利用者は、そういうことを話しあった。

「そうなると水穂さんは、変な動物というものになるわねえ。まあ、私も変な動物ということになっちゃうんだろうけど。」

と、有希は、にこやかに言った。

「だから、水穂さん、何回もいうけど、人間なんだし、ちゃんと食べないとやっていけないわ。少しだけでもいいから、ご飯をたべて!」

有希は、急いで、水穂さんの口元に、おさじを持っていった。

「じゃあ、なんでご飯をたべないのか、それをちゃんと話してよ。」

有希は水穂さんにそういうことを聞いた。

「わかりません、とにかく食べるという気にならなくて。」

と、水穂さんは、そう返すのだ。水穂さんいつもの決まり文句じゃないですか、と、利用者は大きなため息をついてしまうが、有希は、そのあとに続いた。

「水穂さん、本当に食べないと、何も出来なくなるわよ。あたしみたいにただ生きているだけの人間が、どんなにつらいのか、考えてもみなさいな。私は、何も生きている価値がないのよ。だって、出来ることが、何にもないんだもの、あるのはミスコンに出ただけ。其れにしたら、水穂さんは、ゴドフスキーのすごい曲をなんでも弾けちゃうすごい特技があるじゃないの。だから、それを無駄にしないためにも、お願い、食べて。私のような、生きているだけしかないというつらさは水穂さんには味合わせたくないわ。其れはわかって。」

有希は、水穂さんに自分の思いを伝えようと一生懸命言った。

「でも、有希さんは、僕とは違う。」

と、水穂さんは言う。

「違うって何がよ!」

と有希が言うと、

「だって、僕は、」

と言いかけたが、そのあとせき込んでしまうのであった。有希は利用者にお願いしてタオルを持ってきてもらい、水穂さんの口元に当てた。其れと同時にタオルは真っ赤に染まるのである。

「水穂さんの答えだって私、知ってるわよ。そういうところから来たのだから、私よりもっと身分が低いと言いたいんでしょ。でも、幸いことに、いま一番身分が低いのは、私みたいに、家族に頼りきって、働かない人に代わっているのよ。だから、水穂さんが、身分が低いというのは、もうどうでもいいの。」

と、有希は、水穂さんの言葉を打ち消すように言った。

「それに、水穂さんは、何も食べないというのなら、自分の命を無駄にしているような気がするわよ。あたしだって、いろんな人に同じことを言われるんだけどね。それに対してリストカットしたり色いろやっちゃうけど、死にたいと言って喜ぶ人はいないから、生きていた方が良いのかなって、最近思うようにしてるの。誰もが、生きてと当たり前のように言うでしょ。死んでくれという奴なんていないでしょ。だから、何とかして、生きようと思ってちょうだい。何も食べる気がしないとしても無理して食べるつもりになって。大変だと思っても、がんばって生きていようという姿勢を示さなきゃ、誰も助けてはくれなくなるわよ。」

と、有希が言うと、水穂さんは、やっとわかってくれたらしい。やっと半分覚めてしまったおかゆを、そっと口にしてくれた。

「どう、おいしいでしょう。まずいとは言わせないわよ。あたしが作ったんだから。」

と有希が言うと、水穂さんはそうですねといった。

「よかった、三日ぶりに食べ物を口にしてくれたわ。本当によかった。」

と利用者は、一件落着という顔で、大きなため息をつく。真っ黒な顔をしたたまが、やっと食事をしてくれた、主人のもとへやってきた。有希は、この難易度が高い手伝いをこなしたのだった。もし、彼女が、仕事としてこれをこなしてくれるのであったら、優秀賞が上げられるほど、有希は、優秀な手伝い人であった。






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