対決の時2

 隣室にいたはずのマインラートが足早に部屋へ入ってきた。張られた頰が痛むし、歯で口の中を傷つけたようで鉄錆の味がする。それでもマインラートに向かって笑顔を作り、来ないでと首を振る。


 マインラートの姿を認めたクルトが渋面になる。


「どういうことだ。何故シュトラウス卿が……」

「……そんなことはどうでもいいでしょう」


 話すと口が痛んで、顔を顰めながらも立ち上がる。真っ直ぐにクルトを見据えると、わたくしも思いっきり振りかぶった。


 パシンと再び打擲ちょうちゃくの音が響く。じんじんとわたくしの掌が痛みを伝えてこれが現実だと教えてくれる。


 これまで誰にも振るったことのない暴力。自分がされて嫌なことはしたくないと自分を戒めてきた。だけど、暴力を振るわれたことがなく、虐げられたことのないクルトには、こうでもしないときっと人の痛みはわからない。


 クルトは最初呆然としていたようだけど、次第に顔色が赤くなる。


「何のつもりですか」

「こうでもしないとあなたは気づかないでしょう? あなたがそうやって踏みつけにしてきたわたくしにも、領民たちにも心があるということよ。あなたがそうやって人を虐げる限り、人はついて来ないし、ブリーゲルは廃れていくでしょうね」

「……あなたがどう思おうと関係ない。無価値な人間は黙っていてください」


 クルトはそう言うなり、マインラートに向き直る。


「みっともないところをお見せして申し訳ありません。それで本日はどのような用件でしょうか?」


 クルトはあくまでもわたくしが勝手に言っていると思いたいのだろう。笑顔を浮かべてマインラートに話しかける。だけど、マインラートは無表情で黙ったままだ。


「だから言っているでしょう? シュトラウスはブリーゲルから手を引くと。マインラートが否定しないということはそういうことなのよ。あなたがいくらわたくしを無視したところでそれは変わらない」


 わたくしは溜息をつくと、クルトに向かって話す。


「そんな……急におかしいだろう。あなたの入れ知恵か」


 蒼白になりながらも、クルトはわたくしを睨んで詰め寄ろうとする。それをマインラートが間に立って阻む。


「……先程から黙って聞いていれば、何様のつもりだ?」

「は?」


 マインラートの唸るような声にも、クルトは首を傾げる。周囲がクルトの機嫌をとっていたからクルトは人の感情の機微に疎いのだ。マインラートの静かな怒りにも気がつかない。


「アイリーンの言う通りだ。アイリーンがこちらに嫁ぐことで政略的に結ばれたものを、そちらが最初に破った。それでもアイリーンの実家だからと我慢していたが、領民に対する仕打ち、援助金の私的流用、アイリーンへの仕打ち、それらをかんがみて、そちらに援助する利点が全くない。そういうことだから、こちらは手を引かせていただく。これは現当主である私の息子も同意見だ」

「そんな! 急にそんなことを言われても困ります!」

「……急だと思うか? 私はずっと我慢してきた。それがアイリーンのためだと思ったからだ。だが、お前たちは彼女に何をした? お前は無価値だと繰り返し言い続けて洗脳してきた。それが血の繋がった家族にすることなのか? 挙げ句の果てに暴力か。卑怯にもほどがある」


 マインラートは侮蔑を浮かべてクルトを睥睨する。マインラートの本気を感じ取ったクルトは、わたくしに助けを求めてきた。


「姉上、あなたからも何とか言ってください! このままではブリーゲルが……!」


 この期に及んでまだ言うのかと呆れる。重い溜息をつくとクルトに言い聞かせる。


「元々は援助がなくても治められていたはずでしょう? それを自分が楽をするために領民を締め付けたあなたが間違っていたのよ。確かに今は領地経営だけでは生き残るのが厳しい。それならどうしてマインラートのように商業をするなり、別の方法を考えなかったの?」

「あ、あ……」

「援助金もそう。そのお金を投資するなりして別の形で増やすことができればよかったのよ。あなたが散々馬鹿にしてきたわたくしでも、このくらいのことは思いつくのよ。何故あなたはそれをしなかったの?」


 わたくしの言葉にクルトは愕然としている。今頃気づいても遅い。わたくしがシュトラウスにいるからと胡座をかいていたのだろうけれど、もうそれは通用しないのだ。今のシュトラウスを取り仕切るのはコンラートとユーリであって、マインラートとわたくしではない。


「それじゃあ、私は、どうすれば……」

「このまま領地を治めることができなければ爵位を返上するか、また真面目に領地経営をしなさいとしかわたくしには言えないわ。あなたがまた間違った方法を選ぼうとすれば全力で止めてみせるから」


 わたくしは本気だ。真っ直ぐにクルトを見据えて宣言すると、クルトはがっくりと肩を落とす。マインラートもクルトに告げる。


「……アイリーンと一緒に、私も君の動向を見させてもらう。シュトラウスの力を使ってでも、君が間違えたら止める。それを忘れるな。アイリーン、これで用は済んだだろう? 帰ろう」

「……ええ。帰りましょう」


 踵を返して歩き出すと、後ろからクルトの悲痛な叫びが聞こえてきた。


「……私だって最初はちゃんとやっていた! だが、どんなに頑張ったところで報われないのなら、少しぐらいいい目を見てもいいだろう⁈」


 わたくしは思わず足を止めた。それをクルトが言うことが許せなかったのだ。表情を消して再び振り返り、クルトに言う。


「……わたくしもずっと思っていたわ。どうしてこんなに頑張っているのに報われないのかと。いつもあなたたちは、わたくしがどんなに頑張っても、意味がない、無駄だと無視をしてきた。シュトラウスが大変な時にこちらに援助を求めに来た時もそう。価値がない自分を恨めとあなたたちは言った。マインラートにも同じようなことを言ったそうね。それでマインラートがどれだけの思いをしてシュトラウスをここまでにしたと思う? もう、話すことはないわ。行きましょう」


 マインラートを促して外へと向かう。張られた頰と口が痛むけれど、気が高ぶっているせいで思ったほどではない。


 それよりも、初めて人を叩いてしまった掌と心が痛い。


 乗ってきた馬車に二人で乗ると、気が緩んで涙が込み上げる。マインラートはわたくしの肩に手を回して抱き寄せた。


「……叩かれるのは痛いと思っていたのですが、叩いた手も心も痛いんですね。わたくしは人に暴力を振るわないという戒めを破ってしまいました……」

「……彼は今までそんな目に遭ったことがなかったんだろう。だからこそ平気で君に暴力を振るっていた。これで君の痛みがわかるんじゃないか?」

「どうでしょうね……」


 話すと少し口の中が痛む。顔を歪めるとマインラートが心配そうに聞いてくる。


「痛むのか?」

「少しだけ。口の中を切ったみたいです」

「助けるのが遅くなってすまなかった」

「いいえ。わたくしは元々一人で来るつもりでしたから。今度は殴られても折れるつもりはありませんでした……あの子があんな風に傲慢になってしまったのは、ブリーゲルの者の責任です。甘やかして誰も諌めることもなく、思う通りに物事がうまくいくとあの子は思い込んでしまった。それが通用するのは家の中だけだとも知らずに」


 両親はあの子の育て方を間違えた。何でもお膳立てしてちやほやして、あの子のすることが正しいと勘違いさせた。その結果、あの子は努力することを放棄し、他人を思いやることを忘れてしまった。


 遥か昔の思い出が蘇って涙が一粒落ちる。


「……ずっと昔は、あの子はわたくしを姉上と慕ってくれていた。わたくしが泣いていたら心配してくれる優しい子だったのに……」

「そうか……」


 まだわたくしはあの子の心にはそんな風に他人を思いやる気持ちがあると信じたかった。


 だからこそ、これからも間違ったことをすれば全力で止めると言ったのだ。きっと改心して領民たちに慕われる立派な領主になってくれるはずだと。


 甘い考えだとはわかっている。その甘さが命取りになるかもしれないけれど──。


 もう二度と帰ることのないだろうブリーゲルの屋敷を、わたくしは切ない気持ちで後にするのだった。

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