第28話 兄の旅

 次に目を開けたとき、私は鮮やかなピンクの蓮が咲く池のほとりに立っていた。

 目の前のあまりに清浄な光景に、呆けたように立ち尽くす。しかし、伸ばした手の先に竜胆がいないことに気づいて、鋼の手で心臓を鷲掴みにされたような恐ろしさを味わった。

「竜胆! 竜胆!」

 視界の下半分は、蓮の花のピンクと白、そして生色にあふれる濃い緑で占められている。遠景には、奈良盆地から見た生駒山地のような、なだらかな山並みが薄紫に霞んでいる。その麓には、五重塔や寺の甍屋根が並んでいた。なぜか胸が締めつけられるように懐かしく、原風景、という言葉が浮かんだ。

 古代の都を描いた日本画のような風景の中に、墨染の衣に菅笠をかぶった男が立っていた。

 こちらを振り向いたその男の顔は、私にそっくりだった。今は日本から遠く離れた南国にいるはずの兄、木立だったのである。

「晶博、はあるかぶりだな」

「兄貴、どうしてこんなところに……」

 私はハッと心づいて、胸を冷たくした。

「もしかして俺、溺れて死んだだかいや……?」

「なんして俺がおっんでることが前提になってるだ?」

 兄が苦笑した。私は、どもりながら反論した。

「だってほう、日本を出てから、全然音沙汰なかっただねえか。竜胆にも連絡入れねえし。ていうか、竜胆は?」

「竜胆なら、おめより一足先に目を覚ましてるに。ガイコツ池の側で」

「ほうか……それならよかった。でも、なんして俺だけ? ここはどこだいや?」

「世界樹の上だに」

 あまりにさらりと告げられたので、危うく聞き流すところだった。

「世界樹? ここが?」

 私は、あらためて匂い立つような蓮池をきょろきょろと見回した。

「全然木の上っぽくないし、随分きれいなとこだだな」

「だれえ、ここが全部じゃないに。何たって世界樹だからな。ほう、ここう。下見てみなあ」

 兄が指差すほうを見下ろした私は、足元の地面が消えたのかと思って肝を冷やした。

 顔の前に人差し指を立てて焦点をぼやけさせると、人差し指が透けて、その向こうの風景が見える。ちょうどそんな具合に、蓮を通して、その先にこことは異なる風景が見えたのだ。海で泳いでいたら、急に足がつかない場所に迷い込んでしまったときのような心許なさに、心臓が大きく跳ねた。

 かなり距離を隔てた場所なのだろう、黒く見える人々の群れが、多方向から押し寄せてぶつかっている。

「蟻ごみてえにちっちぇえ人が見えるずら?」

「あっこで何してるだ?」

「合戦だず」

 よくよく目を凝らせば、人々の洪水の中には、源平合戦のような鎧武者や火縄銃を構えた陣笠の藩兵、銃剣を突き出す近代式の兵隊が入り交じっている。

「まっといる、まっといる」

 兄に注意を促されるままに見れば、戦場にいるのは日本人だけではない。ターバンを巻き、黒々した口髭を生やした馬上のシパーヒーが、全身をきらきらしい鉄の鎧で覆い、馬上槍を構えた西欧中世の騎士に一騎討ちを挑んでいる。青銅の盾と鉄の槍で固めた古代ギリシアの重装歩兵団に向かって、百合の紋章の王旗を掲げたフランス軍が弩を一斉に射かけた。宝石を飾ったターバン姿のトルコ人マムルークが、半月形の刀を振り上げて、馬蹄の音も高らかに突進していく。

 三国志の将軍のように顎鬚をたくわえた偉丈夫が軍配を振り、塹壕に潜んだイギリス兵士がマシンガンをぶっ放す。歩兵も騎兵も蹴り殺しながらカルタゴの象軍が進撃し、大砲の砲弾の飛び交う戦場に、モンゴルの騎馬団が濛々たる砂塵のカーテンを引く。まるで、軍事史の資料集から、切り抜きを一箇所にぶちまけたような有様だ。

「時代がめちゃくちゃだに……」

「あいつらはあっこにいて、あっこにいない。本人たちは、それぞれの時代のそれぞれの場所で、本来の敵と戦ってるつもりさ。だが同時にそれは、世界樹の上のこの戦場で殺し合ってることと同じだだ。いま見てるのは現世の戦場だが、ここには修羅と呼ばれる世界も戦士たちの天国ヴァルハラもある」

 私は、殺戮と血の世界から視線を引き上げた。そうすれば、平和で清浄な蓮池のほとりである。しかし意識してどこかに焦点を合わせていないと、またすぐに下の戦場がだぶって見えてくる。

「兄貴はなんしてここにいるだかい」

 そう尋ねながら私は、もうすでに返ってくる答えを知っている気がした。

「俺は、椿を探すために世界樹への入り口を探してただよ」

 兄は遠い目で大寺の辺りを眺めながら、やはりそう答えた。

「いま晶博も見たように、ほう、ここにはあらゆる時代のあらゆる空間が、同時に実在してるずら。ここなら、生きている椿にまた会えるはずだった。だけど、まあず世界樹は広いな。そんな簡単にめっかんなかったわ。そのうちずくもなくなっちまった。椿の死後の魂が、世界樹のうろに飛んできていたとしても、もうとっくに、この世界に溶けて広がっちまったずら。もう何遍も世界樹の上を探したけども、きりねえや」

「……佐上さんから、兄貴が椿姉ちゃんと結婚したいきさつを聞いたよ」

「佑賢さんは、まあずずねえ人だいや。そんなことまでしゃべっただか」

 兄は気恥ずかしそうに、苦労皺の刻まれた額に手を当てた。

「ずねえってことねえに。……俺はその話を教えてもらって嬉しかったよ。椿姉ちゃんは早くに死んじゃったけど、めた幸せな人だったって思えたよ」

「椿が幸せだったかどうか、俺にはわからねえ。十九の椿が水神の嫁にされかけているのを、俺は黙って見ちゃいられなかっただ。須賀の一族から逃げた俺とがしゃっかまった挙句、結婚が認められたあとも、椿は、俺を不幸にした、すまない、と泣いていた……」

 椿姉ちゃんには、これからの二人の生活が、常に鯨の報復に怯えるものになるだろうとわかっていたのだ。

若い兄と椿姉ちゃんのやり取りが想像できる。

 椿姉ちゃんが、袖で涙を拭きながら、兄に訴えかける。

 ——わたしたちは一緒にいられないだよ。一緒にいては、いけないだよ。

 なんして? とは兄は問い返さない。兄は、自分を追い込む言葉を椿姉ちゃんに言わせたりしない。

 最終的に椿姉ちゃんは兄に根負けして、二人はともに暮らし、竜胆が生まれた。

「それなのに結局、椿は病気で死んじまった。椿を病気にしたのが、ガイコツ池の主だったらよかっただに。鯨だったら、椿を守りきれただに」

 兄は、かすれた声で恨み言を口にした。あんまり何度も心の中で繰り返しすぎたから、時が言葉を漂白してしまったのだ。

 その言葉を聞いて、兄がもう、椿姉ちゃんを鯨が連れていったとは考えていないことを知った。

 私は、その恨み言については何も触れずに、触れることができずに、別のことをきいた。

「兄貴は、どうやってここに来ただか」

「こっちにも、須賀山みた、世界樹との境界線が曖昧なとこがあるだ。心配ねえ。ちゃんと現世に戻れるど。友達の呪術師が、向こうで待ってるだからな」

「なんでそんな身近に呪術師がいるだ」

 突っ込んではみたものの、呪術師と魔術師が一人ずつ身近にいる我が身を振り返って、説得力がちっともないことに気づいた。

「そういうおめは、なんしてここにいるだい」

「え? 兄貴がここを呼んだんじゃないだ?」

「だれえ、俺がここで蓮を楽しんでたら、おめのほうが突然来たんだに。そもそも、俺には人を世界樹に呼び寄せる力なんてないに」

 私は頭をかいた。

「じゃあなんでだろ。ガイコツ池に落っこちたからかな。そういえばさっきも、ここじゃないけど枯れた蓮の池の幻を見た」

「そんときも世界樹に行ってたのかもしんねえな。ガイコツ池のそっこの蓋が開きかけてるせいだと思うだ。だから、蓋を閉じさえすれば、もう大丈夫だず。俺も、おめがこっからけえったら封印のまじないをやってくれるわ」

 私は、本当にひさしぶりに、兄とまじまじと視線を合わせた。

「兄貴、たまには帰ってこう。竜胆が寂しがるに」

 兄は、力を抜いた笑みを見せた。

「ほうだな。すまなかった。俺にはいやおいを離れて飛んで歩く時間が必要だっただ。でも、旅をする時間も終わった。今度こんだ正月にでも帰るだ。竜胆と三人で、椿の墓参りにも行かねといけねえな」

 その穏やかな目を見て、やっと兄の中で、椿姉ちゃんの死を受け入れるための物語が終わったのだな、と思った。妻の死を受け止めるために、兄には時間的にも空間的にも長い道のりが必要だったのだ。

「竜胆のことも守ってくれてありがとな」

「おう、悪い虫がつきかけてたから、追っ払ってやったぞ」

「ガイコツ池の主を悪い虫扱いか。こりゃあ、どんな人間の男がやってきても、叔父さんが追い返しちまうかな」

「それは竜胆次第だず」

 風もないのに、私と兄の周囲の蓮が揺れはじめた。ただでさえたくさんある花弁が、複数の残像によって無限に生まれていく。

 何度か目の前で、ちらちらとまばゆい光が散ったかと思うと、私はガイコツ池のほとり、鹿島と太夫と竜胆がそろっているほうのガイコツ池に戻っていた。


第二十九話 名前を呼ぶとき につづく

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