第24話 夜明けの時間

 夜明けの時間は特別だ。徹夜で本を読んでいていつのまにか辺りが明るくなっていたときも、旅行のために早起きしたときも、喉が渇いてふと目が覚めたときも、夜明けの感慨は等しく訪れる。

 子供の頃は、徹夜の果ての夜明けなど知らなかった。小学生のころ毎年、遠い海に連れていってもらっていた。隣県の海に行くために、朝三時に目覚まし時計をかけて、まだ暗いなか、椿姉ちゃんを手伝ってサンドウィッチを作った。兄の運転する車が、高速に乗っているうちに、周囲の大型トラックの県外ナンバーが次第にはっきり読めるようになってくる。

 朝靄にかすむ広大な緑の田圃の海に、街灯が白い明かりを灯している。その灯が一つ消えていくたびに、空は水の色に透き通っていく。雲に火をつけるばかりに激しく燃え上がり、幻のように鎮火されてしまう朝焼けを、私は、冷たい窓ガラスに額をくっつけて、まばたきも惜しんで見つめた。幼い竜胆は、ぷっくりした頰をよだれで汚し、チャイルドシートで熟睡していた。

 高校に上がってからの夏休みには、しばしば友達と徹夜オールでカラオケをしたものだった。閉店とともにカラオケ屋を出て、妙に冴えた頭で友達とぼそぼそ話しながら、ひと気のない商店街の坂道を下っていく。朝刊を運ぶ自転車とすれ違う。坂道の上を振り仰げば、刷毛で描いたような薄雲のたなびく澄み切った空を背負い、猫耳に似た二点の頂上を持つ旭岳が、薄紫色に染まっている。

 一回生のとき、サークルのコンパで飲み慣れない酒を大いに飲み過ぎて、家に帰り着くなり、服を着替えないまま布団に倒れこんだ。干上がるように酷く喉が渇いて、青い薄闇の中で目を覚ました。頭の痛みに起き上がる気力もなくぼうっと横たわっていると、遠くから、ピーヒョロオオォ、とトンビの鳴く声が降ってきた。ぼんやりと聞くともなしに聞くうちに、今度はカラスが、カア、カア、と空虚な声を響かせはじめる。

 そのときの惨めさ、胸の内の空虚さ、虚無感は忘れられない。やがて雀がチュンチュンとにぎやかに鳴きはじめる頃には、よく見知った明るい朝が訪れていた。

 私は、食堂の椅子を立って窓辺によると、網戸越しにうっすらと明るくなってゆく空を見上げた。

「曇っててまだ暗いけど、もう朝だな」

 横座りになって、椅子の背もたれに頰と腕を預けた鹿島が、大儀そうに顔を上げて、「朝かあ」とうめく。太夫の姿勢の良さは普段と変わらないが、わずかに目が赤い。私の顔も、二人と似たようなものだろう。長テーブルの上には、コンビニで買ってきたきゅうりの浅漬けが乾いている。

「台風はもう行った?」

「行ったみたいだよ。風はまだ強いけど、もう雨は降ってない」

 おおかた、今頃台風は本州を逸れて南の沖合を荒立てているのだろう。食堂のテレビでアナウンサーが昨夜、台風十五号か十六号か、その辺りのナンバリングを口にしていた記憶がある。昨日も、竜胆に、「戸締り気をつけてな。何か飛んでくると危ないから、あまり外には出ないように」と言い置いてから、家を出た。

 荒神寮の地下音楽室は、寮外生でも使うことができると耳にした太夫が、一度見学したいと言い出した。太夫と面白からぬ仲にある鹿島に任せるわけにもいかず、私が太夫を荒神寮に連れてきたのが昨夜のことだ。

 音楽室の設備を一通り見て回ったあと、ブロックのコンパで余った酒があると鹿島が言うので、食堂に移動して飲みはじめた。私が上手くかすがいとして立ち回っているからか、鹿島と太夫も、最近ではごく一般的な知り合いどうしの会話と表情をするようになった。もっとも、私がトイレのために席を外して帰ってきたりすると、険悪な雰囲気で押し黙っていることはあったが。

 味の薄いアメリカビールを傾けながら、とりとめもない話に興じているうちに、外では雨が降ったりやんだりした。鹿島は、どこからともなく白ワインを持ってきて、夜の初めこそちびちびグラスを傾けていたが、早々にお茶に切り替えた。私や鹿島よりもよほど酒豪である太夫は、芝漬けをぽりぽりかじりながら、ずっとガラスのコップに千曲錦を汲んでいた。

「そういえば、うちの夏休みの子供会で、こないだアッキーに教えてもらった〈見覚えのない自筆サイン〉の怪談、使わせてもらったよ」

 そういえばそんな話もしたっけ、と思い出しつつ、私は、

「ああ。子供たち、少しは怖がってくれた?」

と何気なく相槌を打った。太夫は、にこりと笑って答えた。

「ううん。思いきり不発だった」

「いや、そんなにこやかに嬉しくない報告をされても」

「怪談って何の話?」

 太夫が鹿島に、私の体験した不気味な出来事のあらましを説明してやると、鹿島は即座に質問した。

「晶博、雑誌閲覧室に行ったとき、几帳面な知り合いに会った覚えない?」

 私はおぼろげな記憶を探った。

「うーん、いつだったか思い出せないけど、東洋史の院生の先輩によくあそこで会うなあ」

 いつもなぜか、真面目な男子中学生のようにYシャツの第一ボタンまで留めている色白の先輩を思い浮かべた。鹿島は断定した。

「その人だ」

「何が?」

「だから、お前の名を勝手に騙った犯人だよ」

「え? でもその人はそんな馬鹿げたいたずらする人じゃないぞ」

 反論する私に、鹿島は超然とした笑みを浮かべて説明する。

「国文学がどうとかっていう雑誌のタイトルまでは、お前が書いたんだよ。でもお前は自分の名前を書き忘れた。お前の次にコピー機を使ったその先輩が、几帳面にもお前の記載漏れを埋めてくれたんだよ」

「ちょっと待てよ。百歩譲って俺が名前を書き忘れていたとしよう。でも、書いてあった雑誌を確かめてみても、内容のことは全然覚えてなかったんだぞ。そんなことあるか?」

 鹿島は、我が意を得たり、とばかりに人差し指を突き出してきた。

「お前、自分じゃ気づいてないみたいだけど、時々国語学と国文学を言い間違えてるから」

 太夫が大きくうなずいた。

「確かに。アッキー、この前私にこの怪談をしゃべったときは、国文学の雑誌じゃなくて、国語学の雑誌って言ってた」

「え?」

 国語学と国文学は違うものである。しかし、国語国文学研究科、という言い方に慣れているせいか、この二つを言葉の同じ引き出しに入れてしまっている自覚はある。

「本当は国語学の雑誌をコピーしたのに、間違えて国文学の雑誌名を書いてたってこと?」

 私が言うと、鹿島は顎を撫でた。

「結構前、お前が荒神寮で徹夜麻雀した日に、しつこいくらいに言ってなかったっけ。明日は比較言語学のレポート〆切があるのに一文字も書いてないとか……」

「あ」

 私の脳内に稲妻が走った。

「そういや、徹夜明けでぼんやりしながら、中国語と日本語の文法上の違いについて、レポートを書いた記憶がある……」

鹿島はわざとらしく首を振った。

「あーあ、なぜ大学生という生き物は、まずいまずいとわかっていながら、課題を放置したまま、徹夜で麻雀をしてしまうのかね」

 太夫が不満そうな顔つきをする。

「アッキーにどうしてもその雑誌を見せたい犯人がいたっていう私の説のほうが、真相よりも絶対面白いよ。物語が広がりそうじゃん」

 私は、とある事実を思い出して笑ってしまった。

「そうだ、あのとき朦朧としながら読んだのは、日本語学の雑誌だったんだ」

「国語学でも国文学でもなかったのかよ」

 鹿島が突っ込んだ。

 夜のうちに轟々と風が強まり、横殴りの雨もだいぶ激しく降った。外では、廃品置場のような駐輪場で、自転車が将棋倒しになる音が遠く聞こえた。

 山がちなおかげで台風が直撃することのほとんどないこの辺りだが、去年の秋の超大型台風で、そんな油断は粉砕された。上流で降った雨が浅科川を暴れ竜のごとく変え、ちょうど、ローカル線の赤い鉄橋が渡されている辺りの堤防が、決壊寸前になったのだ。茶色い濁流が堤防沿いの道を、人ひとり通るのがやっとの幅まで削ぎ落とし、道沿いの家々を恐慌に突き落とした。

 鉄橋のたもとにあるいやおい市警察署の職員も、さぞかしひやひやしただろう。非常時に活動しなければならない役所さえ、川のすぐ脇に立っていたのである。この台風では、上流のほうで川に流された人も出た。

 危うく決壊するかに思われた堤防沿いの道は、いまだに通行禁止である。去年の台風が来る前に、よく堤防沿いを散歩していた経験から、警察署と浅科川の間にも、その対岸にも、昔からの水神の祠が祀られていることを、私は知っていた。祠の石碑には、大正時代、その近くにあった村が大水によって流されたことがしっかり刻まれていたのである。

 二十四時間三百六十五日、電灯を消さない食堂には、私たちが徹夜で飲んでいる間も、寮生が絶えることはなかった。机に突っ伏して眠る人、ヘッドフォンをつけてノートに向かう人、書道の実習でも取っているのだろうか、習字にいそしむ人、さまざまである。

 現在時刻は七時前である。鹿島が、くあぁ、と大あくびをする。

「夏休みに入ってから生活リズムがめちゃくちゃだから、こんな時間に起きてるなんて新鮮だな」

「お前は、夏休みに限らず、授業期間でも昼頃まで寝てるじゃないか」

「それもそうか」

 鹿島は、理系なのに私と同じ近代文学の授業などを取っていたが、朝九時前に始まる授業に間に合った試しがほとんどないのが実情だった。

 眠い目をこすって、夏目漱石『夢十夜』の解釈などを聞いている私に、「一限に出たしと思えども、一限はあまりに早し。せめて温かき布団にくりまり、気ままなる二度寝をきめてみむ」などというふざけたメールを送ってきたものだった。

 典型的な昼夜逆転大学生の隣では、日頃勤勉な太夫までが、

「今日の朝稽古はさぼっちゃおう」

などと不埒なことを口走っている。

 鹿島が、面白がっている色を含んだ視線を太夫に向けた。

「あら? しっかり者の櫻田さんが、そんな不真面目なこと言っちゃっていいわけ?」

「朱に交わればなんとやら、でしょ。今日は、お昼過ぎにこっそり帰ろうかな。荒神寮から朝帰りっていうのも、外聞が悪いしね」

「言ってくれんじゃん」

 不毛で平和な言い合いに明け暮れる姿からはとても、二人が数百年来暗闘を繰り広げる厭魅舞踊太夫と黒魔術師だとは思えない。

 ぴんぽんぱんぽーん、とのどかな音が朝の空気を割って、開けっ放しの窓から入ってきた。

「二十三隣組の、掛川、しょうじさんの、お父さん、はじめさんが、八月、二十二日に、お亡くなりになりました。つつしんで、お悔やみ申し上げます。お通夜は、本日、午後六時から、自宅で執り行われます……」

 放送は引き続き、のんびりした口調で、葬式の日程と場所、喪主を告げた。

「こっちでも、自治会の放送ははっきり聞こえるんだな。目覚ましがわりになるじゃん」

「そう思うでしょ? ところが、起きれねえんだなあ。ねえ、この放送をよく聞いたら、自分の葬式の話だったってなったら、超怖くね?」

「なんでそんなこと思いつくの?」

 太夫が、感嘆ではなく、どちらかといえば気味悪そうな目で、鹿島を見やる。

 私は、滅多にないメンバーで滅多にない時間に起きていることが特別に思われてきた。

「いまならちょうど、国分寺の池に蓮が咲いてるかも。見にいってみないか?」

 太夫は、格好の時間潰しになると思ったのだろう。鹿島も、意外とこの手の誘いを断らない。私の提案に二人が賛成したので、徹夜明けのテンションに任せて、私たちは自転車を駆り国道を東に上った。


第二十五話 お前は誰だ? につづく

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