第23話 水神の嫁

「でも、椿姉ちゃんの骨は、村中のお墓に納められてるはずですよね?」

「ほうだよ。晶博君は、焼き場で姉やんの骨を骨壷に入れたときのことを覚えてるずら?」

 私は黙然とうなずいた。お盆に墓参りをしたときに思い出したばかりだ。私と竜胆が並んで手を合わせた墓石の下には、椿姉ちゃんの骨が眠っていたはずである。

「姉やんの骨は、葬式の三ヶ月後くらいにお墓に入れただず? それまでに、俺も何度かこの家に来て、仏壇に線香をあげさしてもらった。そんときにちっとばか、骨をもらっといただよ。もちろん、おめえさんの兄貴には内緒でな」

「なんでまたそんなことを?」

 私は、兄の長年の知己である僧侶の行動を気味悪く思った。

「姉やんの遺骨は状態がよくなくて、いまにも崩れそうだったに? だけど、いくらかはしっかり残ってたと証言できるずら?」

「証言ですか? ええ、まあ」

「おめえさんの兄貴は、姉やんが骨のかけら一つ残さず、あるやつに取られちまったんだと思い込んでる」

「どういうことですか? あるやつって」

「もともと木立は、姉やんを、ほかの者のもとから奪って結婚しただよ。だから木立は、姉やんの生前は、二人の結婚生活と家族を守るために、ありったけの術を施してくれと俺に頼んだ。いつそいつが姉やんを取り戻しにくるか、自分やおめえさんや竜胆ちゃんに復讐にくるか、木立は恐れていたからな」

「兄貴が椿姉ちゃんを奪った相手って……」

「ただの人間じゃねえわな。そいつは、ガイコツ池の主だったのさ」

「それは……、鯨のことですか?」

「晶博君は、鯨のことを知ってただか」

 私は、佐上さんの答えを半ば予想していたのかもしれない。以前、神仙の暁天から、「須賀神社の神官の血を引いていながら、須賀山の神の眷属たる鯨から疎まれている」と聞かされたとき、これまで兄貴が須賀神社を恐れるような言動をとっていたことを思い合わせて、私たち家族が鯨から嫌われている理由をさまざま考えてみた。さすがに、兄貴と鯨が、一人の女性を取り合った仲だとは思いもよらなかったが。

 兄の古くからの友人である僧侶は、兄と兄嫁にまつわる私の知らない物語を語り聞かせた。

「姉やんは、須賀神社の神官の一族に連なる人だった。昔、台風による浅科川の氾濫を防ぐために、水神であるガイコツ池の主にお願いすることになった。そんとき姉やんは、一族の者から望まれて、ガイコツ池の主に嫁ぐことを取り決められただ」

「それって、生贄になるってことですか?」

 私は声を上げた。白い衣を着せられた椿姉ちゃんが、ガイコツ池の深緑の水に沈められるところを想像して、かっとなる。

 しかし、佐上さんは首を振った。

「いや、さすがに二十一世紀にもなってそれはねえ。だが、姉やんを鯨の嫁として決めて、人間の夫を取ることを禁じただ。姉やんは、諾々と一族の意思を受け入れたが、姉やんに惚れていた木立は、彼女の手を取って逃げ出した」

「そんな大胆なことを」

 弟である私からすれば、兄の若い頃の恋愛譚を聞くなど気恥ずかしい。佐上さんもそれを察したらしく、にやっと人の悪い笑みを浮かべた。

「おめの兄貴は情熱的だな。だけんど、駆け落ちしようとした若い二人は、すぐに一族の者にしゃっかまった。でも、須賀の一族も、姉やんを人身御供に捧げることは気が咎めただな。おめえさんの兄貴と姉やんが結婚することを、非公式に認めただ。ただ、鯨に逆らったことによって、祟りを受けることを恐れたので、俺がおめとに守りのまじないを施すことになっただ。妻に生き写しの娘が、ガイコツ池の主に連れて行かれることを、木立は恐れた。姉やんが、娘に竜胆なんて名前をつけたのは、鯨が竜胆の花を嫌っているからさ」

「なんで嫌ってるんですか?」

「ここらの地域では、墓前にあげる仏花に、竜胆を用いるのはよくないとされているのは聞いたことがあるかや? まあ、禁忌の類だな。昔、ガイコツ池の主は、湖のほとりに生えていた竜胆の蕾に片目を傷つけられたっつうに。ほう、竜胆の蕾は、ボンドを塗ったみた固えずら? 鯨を近づけないために、やつの嫌う竜胆を名前にしただよ」

 それだけのことをしてもまだ兄は、最愛という言葉でも代えがたい妻を守りきることのできない無力感を、振り切ることができなかったのだ。

 僧侶は、氷の溶けきった薄い麦茶をごくごくと飲み干して、酷使した喉を潤した。

「やつの頭ん中で、焼き場で火葬炉から引き出された台車の上に、姉やんの遺骨はなかったことになっとる」

「どういうことですか?」

「姉やんの死んだあとに、おめの父親は自分にこう言い聞かせただ。もともと、姉やんは片足が悪くてびっこを引いてた。姉やんのだんだんと筋肉の衰えていく病気は、その片足から広がっていっただよ。神に差し出される犠牲は、片目や片足を印のために傷つけられたっつうに。木立は、姉やんが死んだのは、鯨が姉やんを取り返しに来たからだと、さかのぼって筋道を後付けしただ。だから、姉やんの遺骨は火葬炉から消えてしまった。鯨が姉やんをつれてっちまったからな」

 人は物語なしに死を受け入れられないだ、と僧侶はぽつりと言った。その言葉には、大学生の長男をバイク事故で亡くした父親としての実感がこもっているに違いなかった。

 私は、手の中でステンレスの容器を回した。

「それならなんで、これを僕に渡すんです? 兄貴に、いまのままのことを思い込ませてたっていいんじゃないですか」

 佐上さんは、白いものが混じった無精髭の頬を薄く微笑ませた。

「別にそのままでもいいだ。だが、おめえさんの兄貴が、自分でこさえた物語を本気にして、姉やんを取り戻そうなんて考え出したら、おおごとずら。その筒の中身で目を覚まさせてやる役目は、俺がやろうと思っとったが、おめに託すだ」

 父の年上の友人の顔に、紛れもない老いの影を見て、私は夕暮れの風の強い鉄塔の上に立つように心細くなった。

 椿姉ちゃんが死んで十年が経ち、私が大学生に、竜胆が高校生になった分、佐上さんは歳を取った。同じ老いの影は、兄貴の上にも差しているのだろう。記憶にある椿姉ちゃんが若くきれいな姿ばかりなのは、あるいは幸福なことかもしれない。身近な人が老いて変貌していく姿を見ることは、何よりも悲しく怖いことだから。

 佐上さんは、「ほう」と言って、墨染の袂から一枚の紙切れを取り出した。

 黄色い地に赤で何やら画数の多い漢字が記された細長い紙は、釣り針のように、馴染みの記憶を引っ張り出した。

「あれ、玄関のおふだはがしちゃったんですか?」

「だれえ、新しいやつだに。ほう、この家を鯨から隠すためのおふださ。ほ」

「ありがとうございます」

「さっき見たら、玄関に古いほうが貼ってなかったに」

「え?」

 古いおふだを剥がした覚えはない。知らぬ間にどこかへ飛んで行ってしまったのだろうか。

 新しいおふだから目を上げた私は、僧侶の存外真剣な目と出会って、体の芯がゾクッとした。

「それは……大丈夫なんですか?」

「おふだの貼ってなかった間に、何かたちのよくないもんが入り込んでないといいがな」

 佐上さんと私は、玄関に移動して、戸の上の壁に新しいおふだを貼った。

「最近、何かおかしなことがこの家で起こんなかったか?」

「実は、僕が家にいないときに、竜胆を誰かが訪ねてきてるみたいなんです。はっきりそいつを見たことがないんですけど、少し気味の悪い感じもして」

「そうか。やっぱり何か入り込んでるかしんねえな」

 私は、ぶるりと背筋を震わせ、上ずった声できいた。

「どうしたらいいんです? 竜胆がそいつに危害を加えられるってことはあるんですか?」

 佐上さんは、安心させるように私の肩に両手を置いた。

「心配すんな。さっきも言ったずら。竜胆ちゃんの名前の護りは、そう容易く破れるもんじゃねえ。これさえきっちり貼っとけば大丈夫だ」

 竜胆ちゃんによろしく、と言い残して、僧侶は、菅笠をかぶりなおして炎天下に出ていった。

 薄暗い屋内に戻って、私は、佐上さんの言葉を思い出していた。人は、物語なくして死を受け入れることはできない。私もこれまで、幾度となく頭の中で繰り返した言葉だ。死を異常として捉える以上、連続する日常の連なりの中に、死という劇物を取り込むことは容易ではない。

 時間の流れは、痛々しい原色の日々を波にさらし、角の取れた小石を川底にぽつぽつと残す。最後に目にした生きている姿。息を引き取る数日前に故人が夢に出てきたこと。最期の瞬間を看取ることのできなかった後悔。時間をかけて小石を拾い集め、中学生だった私は、大好きだった人の死を物語の形に変えて、死の前の日常と死の後の日常に連結させることに成功した。

 兄は、時間による侵食をただ待ったりはしなかった。兄のしたことは、椿姉ちゃんの死という目の前の現実に合わせて、これまでにあった過去の事実を組み替えることだった。現在の状況に合わせて、それを説明する過去の出来事に焦点を合わせることくらい、誰でも行なっていることだが、兄の場合は、それが極端な度合いで行なわれた。そしておそらく、兄は椿姉ちゃんの死という現実に合わせて、その後の未来を決めたのだ。

 竜胆はどうやって、母の死という日常の断絶を、その前の世界とその後の世界とに結びつけなおしたのだろう。兄も私も、自分の内面ばかり見つめていて、小さな人を見ていてやらなかった。自分が立ち直れたと確信したとき、竜胆も同じく立ち直れたのだと信じて疑わなかった。竜胆に誰も、死からの立ち直り方を教えてやらなかったのだ。

 私が一人考えにふける室内で、古い扇風機が稼働音を立てて首を振る。

 とにかく、現在の得体の知れない脅威から、私にとってはたった一人の姪を守らなければならない。玄関の戸の上のおふだを見上げていると、戸の曇りガラスの向こう側に、人影が映った。

 私は、さっと緊張する。しかし、外から聞こえてきた声に、ほっと肩の力を抜いた。

「晶博ー、戸ぉ開けて? お土産買いすぎちゃったよー」

「おかえり、竜胆」

 私は苦笑して、引き戸をがらがらと開ける。外の熱風を引き連れて入ってきた竜胆は、両手にスーパーの袋を持っていた。玄関を上がったところの板張りの床に袋をどさっと置いて、その横にひっくり返る。

「あー、床が冷たくて気持ちいいー」

「どう、目ぇよく見せてみなあ」

 私は、竜胆の前に膝をかがめて、目をよく確認した。左目は眼帯で覆われている。竜胆は、眼帯にそっと触れた。

「お医者さんから薬もらったよ。眼帯は、人と会うときとか以外、あんまりしないほうがいいんだって。目やにとかたまるから」

今度こんだ、茅舎の北向観音にでもお参りに行くか。あっこは目の病を治してくれるので有名だに」

「別にそこまでしなくてもいいよ。その前に治るよ」

「ほうか。じゃあ薬さすの忘れねようにな」

「ハイハイ」

 私は、竜胆のいい加減な返事に苦笑した。

「まあず、そんねんまくお土産買って、持って帰れるだかい」

「宅配で送っちゃおうかなあ」

「そうしなあ。新幹線に乗るのに邪魔だず。何買っただ」

「えーと、鯉の旨煮と、丸山珈琲の豆と、七味唐辛子と、林檎パイと……」

 竜胆は、楽しそうにお土産の品目を指折り数えた。

「あと、わさびアイスなるものを買ってきたから、食べようよ」

「おお、うまそうだに。そう、いま、佐上さんが来てただよ。竜胆と入れ替わりで帰ってったけど。よろしくって言ってたど」

「へえ。何か用事だったの?」

「いや、たまたまこっちの檀家に用があって、ついでにうちに寄ったみたいだったな」

 怪しい何かがうちに入り込んでいるかもしれないと口にして、竜胆を不安がらせたくなかった。

「ところでおめ、いつ向こうに帰るだい?」

「二十七日。来週の火曜」

「じゃああと五日だな」

 うん、と気怠げにうなずいた竜胆が玄関の段差に座って、後ろに両手をつく。

開きっぱなしの玄関戸から、雲の峰がそびえる群青の空を二人で見上げた。

青穹、青霄せいしょう、青冥、碧宇、碧落、翠霄すいしょう、翠天、蒼玄、蒼極そうきょく蒼昊そうこう。すべてあおぞらをいう漢語である。このほかにもまだまだある。

「なんか、あの青くて高いところから、何かが落ちてきそうだねえ」

 竜胆が、のんびりとそんなことをつぶやく。確かに、途方もない大瀑布が、音もなく炎天下の地上に流れ落ちてくるような空だった。


第二十四話 夜明けの時間 につづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る