第32話 黙って、文章を読んでくださる人のありがたさ

 入った寿司屋は、「船寿司」という店で、私が最近よく行っている店だ。とあるクーポンを度々使っては、4000円以上の会計になるところを2000円引で済ませられるとあって、週に何度かはここへ来ている次第。

 さすがに今日は、6人もの団体なので、裏にあるお座敷に通してもらった。さすがに、割り勘にして一人頭2000円、合計1万2千円もの金額を割り引いてくれというわけにもいかないが、クーポンを近くのホテルでもらって、店に来た。

 当日注文可能な宴会コースがあるので、さしあたり、それを頼んで、飲み物は飲み放題にした。皆さん最初は、ビールを頼まれた。この中で特に飲めない人はいないし、どなたもクルマは使われていないからね。

 ビールが運ばれてきて、まずは乾杯。参加者のうちで会話が弾むが、さすがに、永野さんがらみの話は出ない。どんどん料理が運ばれてくる。ビールをお代わりする人もいれば、別の酒に変えて飲む人もいる。

 飲み始めて30分ほどしたころ、西沢さんが私に尋ねてきた。


「ところで、米河君、あなたが本格的な作家稼業に入ったのは、いつ頃なの?」

「3年前にある小説のコンテストに応募し始めて、何度か目で運よく大賞が取れまして、それが出版されまして、それからのことですから、今でちょうど、2年目ぐらいですかね。軌道に乗ったのは、ちょうど1年前ぐらいからです。永野さんに限らず、あちこちから岡山県に戻って仕事をしてくれとしつこく言われ出したのが、4年前の一斉地方選挙の頃でして、その選挙の後、本気で小説に取り組んでみようと思うようになりましてね、そのときに、永野さんからいろいろアドバイスをいただきまして、本格的に書き始めるようになりました。今思えば、最初の頃に書いた文章、ホンマ、恥ずかしい限りですね、読み直してみても。ですが、1年もすれば、割に書けるようになりました。実は10年以上前、父が亡くなったときに何か残さねばということで、本を出したのですけど、その本を読んだ永野さんの感想というのが振るっておられて、思いが文章力と連動できていない、つまり、思いは少なからざるものがあるのに、それが文章力不足と相まって、折角の文章が台無しとは言わないまでも、もう一歩のところに留まっている、と言われましてね。最初は、ノンフィクションの自伝でしたが、このままそういうものを書き続けても行き詰まるだろうし、この際、いっそフィクションの形式をとって、好きなことを書き続けたほうがいいのではないかと思いまして。それが、小説を書き始めたきっかけです。もっとも私は、昔から小説や物語の類を読むのはそれほど好きではなく、評論モノやノンフィクション系のもの、あるいは、プロ野球関係者の本とか、そういうものを読むことが多かった。それはそれで、小説を書くようになったら、なまじ小説ばかり読んでいなかった分、意外と、読んできたものが役に立っているような気もしますね。逆に私が小説好きで古今東西の小説を読みまくっているような人間でしたら、今のようには書けていないかもしれません」

「じゃあ、あなたは、修身から、小説を書くにあたってもアドバイスをもらったり、時には読んでもらって感想を聞いたりもしていたわけだね?」

「ええ。正直、読んでくれる人なんて殆どいない中、しっかり読んでいただけた上で、否定せずに正当な論評を述べてくださる人は、永野さんの他いませんでしたから」


 西沢さんの質問に、私は淡々と答えた。言われてみれば確かに、これは小説に限った話ではないのだけれど、文章というものは、読んでくれる人がいて初めて生きてくるものだということを再確認させられる。


「そうそう、今から10年少々前、本を出した時ですけど、お世話になった地元の出版社の社長が、こんなことを言っていましたね。

『本は、出した段階で独り歩きを始める』

 これは、本に限った話じゃなくて、どんな文章でも、それこそ、インターネット上の書込み一つにしても、同じことだと思うのです。まあ、書込み程度のことであれば、削除や書換えで、ある程度コントロールすることも可能かもしれませんが、それ故に、本気で動きだされたときには、こちらが思っている以上の動きがもたらされることもありますよね。その結果、「炎上」とか・・・」

「まあ、書いた者の立場としては、言葉を子とするなら親にあたるわけだから、できれば手元にずっと置いておきたい、という思いがないわけじゃない。子どもに、同居とは言わないまでも、近所にいて欲しいと願う親は昔も今もいるでしょう。だが、子どもには子どもの人生があるからね、はいそうですか、というわけにもいかない。哲郎から一度聞いたことがあるが、米河君が以前、母上から婿養子の縁談の話を聞いて、自分は乞食じゃないとか、そんな話を聞くぐらいなら何とやらと言って怒鳴り散らしてその話を粉砕したことを聞いたが、それこそまさに、できるだけ手元に置きたいと思う親と、それを一切拒絶したい息子の典型例じゃないか。本を書いた者と書かれた本、言葉を発した者とそこで発せられた言葉そのもの、これらはまったくとまでは言わないにしても、同じような関係にあるという気がするのだが、どうかな?」


 たまきさんが、ここで話に加わってきた。彼女は小学生の頃から読書好きで、小説なども沢山読んできているし、何より、文学部のそれも国文学科出身でもあるから、そういうことにはものすごく敏感なところがある。なんせ、ラジオの仕事とともに、自ら「うみの新聞」なるミニコミ的な新聞を作って、家族のこととか、時に、身近にいる人のことを書いてあちこちに配っているほどだからね。まあ、私も、何度となくたまきさんの「ペン」にしてやられたことがあるので、そこはよくわかる。

「せいちゃん、この米河君は中学生の時に出会ってからずっと知っていますが、中学生の頃から比べれば、確かに、文章力も表現力もついてきたと思います。ですが、今のように書けるまでは、私が見ていても、かなり苦しんでいましたね。恐らくそれは、幼少期に植え付けられた抑圧感を排除すべく、もがき苦しんできたからではないかと、私は見ています。それ故、思いに対して言葉がそれに見合ったレベルで出てこない。そのジレンマが嵩じて、ついつい、荒れた言葉を使ってみたり、他者に対して激しい攻撃を示してみたり、そういう形で出ていたのではないでしょうか。彼は確かに、小説なんてものをそれほど読んではいませんでした。ですから、小説の技法とかストーリー展開を構成する力は、確かに、優れているとは言えません。しかし、ノンフィクション系統のものや評論系のものを散々読んで、趣味の鉄道関連もそうですけど、特にプロ野球がらみの本を太郎君に勧められて読みだしてからは、この子の人間そのものは、少しずつですけど、穏やかなものになってきたと思います。もっとも、プロ野球がらみの本を読むことで、もともと群れあうことを嫌う性質が良くも悪くも先鋭化しているところがあって、それが今もって、彼が独身のまま過ごしている決定的な要因になっているように思えるのが、実の弟ではありませんけど、姉のような立場にいる私としては、ずっと、心配です」

 こんなこと言うと、また、犬も食わぬ、いやいや、いつだったかの私の言葉で言えば猫も後ろ足で蹴飛ばしていくような夫婦喧嘩が始まってしまうぞ。


「あれ、たまきちゃん、マニア氏が弟であることを認めたの? ついに・・・」

「何を言っているの、太郎君。彼は弟ではないと、はっきり述べたでしょ」

「じゃあ、姉のような立場にいる、というのは? 」

「彼よりは年齢が上です、ということを、直喩を用いて表現しただけですけど? ひょっとまさか、太郎君、肝心なことを忘れてなくて?」

「何?」

「大宮太郎の妻・大宮たまきの弟は、米河清治である。これを正の命題とします。そうすると、大宮太郎にとって、米河清治君は、どうなりますか?」

「まさか、配偶者たる妻たまきの弟・・・」

「ということは、太郎君にとっても、彼は姻族になるということじゃない? 法学部出身なら、そのくらいわかるでしょう」

「こいつはやっぱり、勘弁してください。姻族でもこんな弟は、いりません、はい」

 しょうがないので、私も一言。

「あの、私の両親はどちらも戦後生まれでして、戦争を知らない子供たちです。その子供の走りと言ってもいいのが、私です。両親がそれぞれ20代前半で私は生まれておりますので、それより5歳上の姉というのは、それこそ、両親が16歳か17歳のうちに産まないと存在しえないということになりますので、これはいくらなんでも、そのような年齢の姉はいないということは、これにて立証できたものと思われます」


 法学部出身のおやっさんが、呆れながら言う。

「大学で習った論理を駆使して話しているのはわかるし、まあ、酒の席だから、変に仕事の話でネチネチやったりするよりは面白みもあっていいとは思うが、そういう論理は、もっと別のところで使った方が、いいんじゃないかな?」

「私は哲郎や諸君のように大学、まして国立大学なんて受験もしていないし、わざわざ行って講義の一コマさえ受けたこともない。大体、神戸の私立商業高校出身だから詳しいことはよくわからんが、まあ、理解できないこともない。現にうちの息子らも大学を出ているからか、こんな議論をしたり、吹っ掛けてきたりすることもある。でもまあ、いいと思うがね、それで酒の席が荒れたりするわけじゃないのだからさ」

「西沢さんのおっしゃる通りですよ。まあ私も、県立ですけど商業高校出身で、大学には行っていませんから、人のことは言えませんけど。せっかくなので、修身君の話、どなたか、もっと聞かせてくださいよ」

 滝沢さんが、うまく話を戻してくださった。西沢さんとおやっさんが、ここで、川崎ユニオンズの話をさせてくれと言うので、聞くことに。西沢さんは選手だったから当然この「解散」の現場にも居合わせたわけだが、西沢さんや永野さんの父からもかねて解散の話を事前に聞かされていた、当時O大生の大宮哲郎青年も、その現場に居合わせた。

 本当に偶然なのだが、あの永野修身さんも、居合わせたという。

 ときは、1957年2月26日の昼過ぎ。岡山県営球場でのことだった。

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