第20話 球場で出会った人たち

 君は修身に選挙関係者として出会って、彼の晩年の何年間かだけ、お付合いがあったようだが、私はね、あの子とは、もう、何十年もの付合いでね。何年になるかな、確かあれは、昭和29年の2月だった。今太郎たちが住んでいる家の近くの岡山県営球場で、あの子と最初に会った。あの時はまだ、5歳ぐらいだったな。私はA高校の生徒で、時間があれば、学校帰りなんかに、よく球場に立ち寄っていた。

 そうしたらだな、今の南西区、当時はまだ一面の田んぼだったけどな、福富小学校ってあるだろ、今でこそ家が増えて当新田小学校と洲崎小学校に分離されたけど、当時は、一面田んぼとイ草畑の農村地帯だったからね。あの子の御家族は福富小の近くに住んでいたのさ。そこから、宇野市と岡山市内にある永野書店にお父さんがバイクに乗って仕事に出てくるついでに、あの子はバイクの後ろに乗せられて、よく街中に出てきていた。それで、ちょっとでも時間があれば、岡山県営球場に親父さんがあの子を乗せて球場に来て、ユニオンズのキャンプを見せてやっていた。数回会っているうちに、ある日親父さんから声をかけられた。私が大宮病院の次男坊だということを言うと、実はその日、大宮病院に本を納品してきたばかりだ、ってね。

 米河君のイメージでは、修身は、酒は飲むわ、煙草は吸うわ、選挙になるとどこからともなく出現する、正体不明の「オッサン」でしかないかもしれんが、当時はまだ5歳ぐらい、かわいらしい少年だった。私は子ども好きなほうじゃなかったけど、なぜだかあの子にはなつかれてね。修身よりはもう少し小さな男の子がいて、その子はユニオンズが常宿にしていた滝沢旅館の息子さんで、卓司君と言って、その子と一緒に、球場で遊んでいたものだよ。そういえば、修身の親父さんに、ユニオンズの選手から雑誌やらなにやら頼まれたのが届いたから、旅館に届けてくれと言われて、学校に行く途中で届けに行ったことも何度かあったな。滝沢旅館は、今じゃ旅館を廃業して、街中で喫茶店をやっている。あの当時の男の子は、今やいい歳のマスターだ。修身とは死ぬまで交流があったが、あの子らの間では、特に大きな金銭の貸借はなかったようだし、修身も、米河君が言うような「寸借何とか」は、卓司にはしていなかった。あ、でも、2度ほど借りたことがあると言っていたな、修身が。2回とも、金額にして1万円だ。そんなの、返さなくていいのにと卓司が言うのを、修身は、1000円ほど色を付けて返したそうだ、その2度とも。その1000円はさすがになんだからと言って、卓司が修身に、コーヒーを飲ませたついでに何かお茶請けも出してやって、それに土産で何やら酒を持たせて、それでチャラにしていた。確かに修身が晩年、あちこちで小金を借りてそのままにしていた例が結構あったことは承知しているが、卓司君のところに限らず、子どもの頃から本当に仲の良かった人のところでは、そういうことはしてない。米河君のような年齢差のある若い人に対しても、基本的にはしていないはずだよ。現に君も、されていないだろ? もちろん、それで彼の今生の罪が免罪となるわけじゃないけどな、それだけは、彼の名誉のためにも、言っておきたい。


 それはともあれ、たびたび学校帰りに球場に行っていると、たいていはあの子らのどちらか、あるいは両方が来ているわけで、わしが来たら親御さんらから、ほれ兄ちゃんと遊んでもらえで、わしが子守を担当、ってわけ。まあ、どっちも賢い子らだった。聞き分けもあったし。球場で、ユニオンズの選手やコーチの人たちと、いろいろ話しながら、楽しくやっていたね。

 卓司と同じ名前の、中内さんって選手がいて、その人は三田義塾出身の人で、戦時中の最後の三稲戦と言われている試合に出た人の一人だった。その後、毎日オリオンズに入って、2リーグ分立後最初の1950年の日本ワールドシリーズ最初の打者になった人だよ。常宿の旅館の子でもあるし、何より、同じ名前だってことで、中内さんは、息子さんのことをものすごく可愛がっていて、成人後もずっとお付合いがあったそうだよ。

 もう一人、笠岡和也さんって選手もいてだな、その人も最後の三稲選に出た人で、早稲田側のキャプテンだった人だ。笠岡さんは戦後復員して南海ホークスで活躍されていたけど、将来指導者になるためってことで、当時の鶴岡親分がユニオンズに提供した選手だ。どっちも今でいえば相当なエリートになるな。

 わしがA高校に行っていますなんて言ったら、ベテラン選手の皆さんからも、当時の監督やコーチからも、おまえ、A高校って、岡山県の旧制一中じゃないか、って言われたうえに、背の低い監督さんから、こんなところで、ポンコツと飲兵衛と、あとは目が出るかどうかも覚束ない若い選手ばっかりのヘボチームの野球の練習なんか見ていないで一所懸命勉強しろ、って、よく言われていた。あの監督は浜中真一さんと言って、三田義塾出身の人だった。ポンコツや若い選手はともかく、「飲兵衛」なんて言葉をおっしゃるぐらいだから、浜中さんは、酒を飲む選手にあまりいい印象を持っていなかった。ご本人が飲まれないというのも、大きかったと思うがね。

 その浜中さんが言うには、大学時代に一中出身の同期の友人がいて、聞いてみると、わしの祖父の知人だった。それから、キャンプ時には、わしの父が選手の診察もしていて、母も看護婦として出向いていたからね、家に帰ったら、練習でけがをした若い選手が先輩選手と一緒に来ていてだな、君がここの先生の息子さんか、ってことで、兼ねて球場で見かけているものだからな、わしが高校生なのを十分知っていて、その先輩が、大宮君もぜひ、飲みに来い、なんて言われた。

 さすがに高校生が酒席に行くのはまずいかなと思ったけど、父も、構わんから行ってきな、ってことで、ユニオンズの選手に、毎年キャンプの時期には何度か、居酒屋で飲ませてもらった。今なら、マスコミがかぎつけてナンダカンダと言っているところだろうけど、幸か不幸か、ユニオンズはそんなに注目されるような球団でもなかったし、だとしても、知人の高校生を酒席に呼んで飯を食わせたぐらいのことでニュースなんかになることもなかったからね。

 それどころか、ベテラン選手と親しい新聞記者なんかは、その席に同席して、一緒に飲み食いしていたほどだ。その時出会ったスポーツ新聞の記者の人に、大学を出て仕事し始めたころに再会して、いろいろお世話になったこともあるよ。

 飲むともなれば、街中の、それこそ当時の大学生ではいけない店が多かったな。呼ばれて行ったら、ベテランの選手に、構わんから君もしっかり食べて飲んで帰れよ、なんて言ってくれるわけさ。無理して飲むことはないが、少々飲んだってかまわんからな、とまで言ってくれてさ。お言葉に甘えて、しっかり飲ませてもらったよ。

 確かあれは、高3の年のキャンプの時だったと思うけど、例によって飲み会に誘われて、「え? 勉強は?」って、思わず言ってしまったことが一度あった。兵後健一さんという大学出のベテラン選手が笑いながら、そんなもん、うまく時間を作ってやれ、勉強と「飲み会部」の両立ぐらい、できないでどうする、なんて言われて、皆さん大笑いされていたな。兵後さんは大阪の大東亜大学の出身で、学徒出陣で出征された学生の一人だった。戦争の話、散々、聞かされたよ。よいことも、悪いことも。

社会人になって3年目だったかな。仕事がらみで大阪の街中で兵後さんに再会して、駅前の屋台で飲んだことがあったが、その時、こんなことを聞かれた。


「うちは商業学校上がりの新制私学だからしょうがないけど、大宮君はO大法学部の出身だな。新制駅弁大学とはいえ、旧制高等学校を母体にした国立大だからたいしたものだ。同期や先輩や後輩にも、何人か司法試験に合格した人もいるだろう? 」

「ええ、います。ぼくは3回生の時から3回受けて駄目でしたから、父から、これ以上自主留年なんかして引っ張ってないで仕事しろと言われて、三角建設に就職しました。就職の際には、元マネージャーの長崎さんが紹介してくださいました」

「その方がよかったな。何年もしがみついている奴が東京や大阪近辺に結構いるけど、悲惨だぞ。君は岡山市の医者の息子さんだから、食うには困らんとは思うけど・・・あ、ちょっと言い方悪かった、申し訳ない。とはいえ、いつまでも遊んでいいってわけでもないだろう。ところで、受験生の仲間内で飲み会なんて、やったことあるか?」

「ええ、年に2、3回ほどですけど、やっていました」

「君は、そういうときには出席したか?」

「はい、しました。何だかんだで、楽しかったです。でも、私より幾分優秀な同級生の佐伯君というのがいて、彼は、そんなことには目もくれず、勉強していました。飲み会に誘っても、金がない、とばかり言ってね」

「その佐伯君というのは、本当に、金がなかったのか?」

「いや、彼の実家はそれなりの家業を持っていましたから、年に数回の飲み代も捻出できないほどではなかったはずです。それに、家庭教師のアルバイトもありましたしね」

「君らの飲み会なんて、何も毎月とか毎週とか、まして週に何回もとか、そんなわけじゃないだろ。それで、佐伯君とやらは、合格できたのかい?」

「いえ、しなかったですね。6年ぐらい引きずって、結局、親の会社を継ぐことになりました。その後会っていませんが、会社に塾部門を作って、地元の広島ではかなり大手の塾に成長させています。もっとも、学習塾の売上なんて、他業種からしてみれば、いくら大手の塾と言っても、知れていますけどね」

「まあ、それはそれで立派ではあるが、逆に、合格していった人たちは、どうだい?」

「1期下の加藤正明君ですけど、彼は4回生で合格しました。確かによく勉強していましたけど、飲み会の時は、必ず来ていましたね。しかも彼、飲み会では法律がどうとか、いついつの過去問の意図がどうとか、そういうネタを、面白おかしくネタにして話すことはありましたけど、基本的には、勉強がらみの話はしませんでした。彼は裁判官や検察官にも誘われましたけど、一昨年前に司法修習生を終えて、今、京都で弁護士をしています。彼の母方の伯父さんが弁護士だそうで、そこで頑張っています」

 「君が話してくれた、佐伯君と加藤君の例えだけじゃあ、一般化できないかもしれん。佐伯君あたりには、ひょっとして、そういうことに参加できないような事情も、君たちに言わなかっただけで、あったかもしれないからな。一概に彼を非難するつもりはない。だけど、ほら、昔、岡山市内の居酒屋で飲んだ時、高校生だった君の前で俺が言ったことがあっただろう、「勉強と飲み会部の両立もできないでどうする」って。少なくともその二人の司法試験の結果に関しては、その言葉通りの結果になったようだね」


 そういえば米河君、太郎やたまきちゃんから何度か聞いたけど、君も学生時代、鉄研の飲み会を「金がない」とか言って何度かサボっていただろう。聞けば、瀬野君もたびたびそういうことを言っていたと太郎から聞いているぞ。

 君たちが他の会員諸君よりもずば抜けた知識と見識の持ち主であることは認めるけど、いくら回りが酒と女ばかりとまではいわないにしても、それに近いレベルの話しかできない人たちばかりだったとしても、そういう行動は、どうもねぇ。たまの飲み会ぐらい、行ったらよさそうなものだが・・・。

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