第3話 焦げ付いた債権

 冬場で冬至からまだ1か月と立っていない時期なので、18時前とはいえ、あたりはもう真っ暗。建物からの明かりがむしろまぶしいほどだ。

 斎場についた私たちは、「永野家」の看板の出ている祭壇のある場所へと向かった。そこにはすでに何人か顔見知りの人が来ていた。入口の右側手で、宇野市議の田井幸一さんが受付をされていた。受付の場所に座っているわけではないが、晩年永野さんのもとにしばしば立寄っていた北林信哉さんという60歳近い男性がその横に控えて、会葬者を案内している。

 私たちもそれぞれ田井さんに香典をお渡しして会場へと入る。見回すと、宇野市内で会社を経営されている油井さんという三田義塾出身の人がいたので、あいさつした。この方と永野さんが一緒にあのO駅前の店で飲まれていたところに居合わせて一緒に飲んだこともある。最前列には、永野夫人と娘さん方とその娘婿各位、それに妹さんご夫妻と思われる方もおられた。奥さんは何度かお会いしたことがあるが、他の方とは今回が初対面というか、これが最初で最後の出会いということになるか。しかし、会場に来られている人たちは全部で約20人を幾分超えるかどうかという程度で、家族葬のような感じ。常木市議は北林さんと受付の近くで何やら話されているが、私と大宮さんご夫妻は最前列の御家族が腰掛けられている席の反対側の空いている席に並んで座り、それぞれ数珠を出して目の前の遺影に手を合わせた。


 18時がきた。お坊さんが来られて読経が始まる。間もなくして、焼香が求められる。焼香のセットが会場に回されていく。このお坊さんの読経、何かもう一つ声のキレがよくないなぁ・・・。しかし、この読経、通夜にしては長い。あまりに長く感じられる。どういうことだろうか・・・。一向に終わる気配もない。

 牛のよだれも顔負けの延々と続く読経は、約1時間後、ようやく終わった。

 入り口前に陣取って受付をされている田井さんが、後ろから会葬者にまずは挨拶。


 「本日は、お忙しい中ご会葬くださり、ありがとうございました。明日は友引ですのでお坊さんをお呼び致しません。10時45分より、出棺させていただきます。もしお時間のおありの方がいらっしゃいましたら、お越しくだされば幸いかと存じます・・・」


 はあ、なるほど。翌日は友引なので本葬はできないが、火葬場は開いているので明日荼毘に付すとのことか。要は、今日のうちに「まとめた」わけだな。

 引続き、永野夫人の御挨拶があり、それをもって通夜兼葬儀はお開きとなった。

 それほど大きくない斎場の真ん中には、永野さんの遺影が飾られている。私が永野さんに出会う少し前の写真だろう。同じ大学の出身者とは言うものの、常木さんも永野さんと知り合ったのは、あの選挙の直前だったそうだ。

 遺影の服は、モーニングの洋装。晩年の私が知っている永野さんは、ぼさぼさになるまで伸びた髪とくたびれた服装で杖をついて歩く姿の印象が強いが、こういう格好を普段からされていたら、本当に似合っていたと思うけどな。

 

 周囲はもはや真っ暗。帰りのクルマの中で、永野さんの話がぽろぽろと出た。私も常木さんも永野さんという人の人生にとっては最後の数年間だけのお付合いだったが、大宮さんは高校生の頃からのお付合いだったという。

 子どもの頃よく近所の岡山県営球場に行っていて、プロ野球のキャンプなどがあれば、その間はほぼ毎日のように時間を見ては足を運んでいた。一方の永野さんは当時まだ5歳かそこらで、本屋を営んでいる父親のバイクの後ろに乗せてもらい、岡山市の南の自宅からはるばる県営球場まで来ては、野球選手の練習を見ていた。何度も顔を合せるうちに永野さん親子と知合いになって、それからのお付合い。

 この頃主に岡山県営球場でキャンプをやっていたのは、川崎ユニオンズという個人がオーナーとなっていた球団。1954年から1957年の春までのわずか3年強しか実在しなかったパシフィックリーグの球団である。しかもこの球団、最後は岡山県営球場で「解散」となった。このとき大宮さんはO国大生になっていたが、知合いになっていた球団関係者から予め聞かされていて、その日の県営球場に居合わせた。永野さんのお父さんも、息子である修身少年をバイクの後ろに乗せて引連れて球場に立寄り、解散劇に居合わせた。関係者を通じて球団解散が行われることを聞いていた親父さんが、修身少年にその日学校を休ませて球場に来たということだ。

 大宮さんは、永野さん親子よりも早く現場に到着していて、解散劇の一部始終を球場から見ていた。つい最近、私とほぼ同世代のライターの手によって、その川崎ユニオンズに関する本が出版された。解散写真が何枚か紹介されているのだが、その写真の中には、後ろの三野山をバックにして、手前になぜか民家としては大きめの長屋のような木造の建物と、造りたてと思しき白亜のモルタル造りの建物が映っている。それは「よつ葉園」という養護施設(現在の法令では児童養護施設)で、現在は岡山市の郊外に移転しているが、当時はこの球場の近くにあった。川崎ユニオンズは「球界の孤児」と言われていたが、まさかその解散写真の背景に、実際に「孤児院」と呼ばれていた養護施設が写っているというのも、何かの因縁だろう。

 もっと言うと、大宮さんは球場の近くの病院が実家で、その「よつ葉園」の嘱託医をしていた父とともによつ葉園には何度も行ったことがあるばかりか、当時の理事長や園長といった人たちからもかわいがられていた。

 一方の永野さんとはその後もお付合いがあり、息子の太郎さんが大病を患った時はいろいろと尽力してもらったという。太郎が今生きておれるのは修身君のおかげだと、事あるごとにおっしゃる。ただし、自分がその件で動いたことは死ぬまでは息子さん本人には言わないで欲しいと言っていたという。太郎さん自体は、永野さんの存在を知らないわけではないのだが、お会いしたことはそれほどない。そんなことからすれば小さい話かもしれないが・・・と前置きして、大宮さんは、晩年の永野さんにお金を貸していたが、こちらはある程度律義に返してもらっていたことを私たちの前で明かされた。

 こちらは常木さんよりいささか額が多く、300万円を幾分超えるほどの「焦付き」が発生したことになるが、40年ほど前に息子である太郎さんの件で尽力してもらったこともあるので、別に気にしていないとのこと。

 ただ、常木さんにも借金ばかりか、他にもお聞きする限り修身君が多大なご迷惑をかけたようで、それについては申し訳ない、とも。

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