第2話 ハチャメチャおじさんの生涯

 生前の永野修身さんはどんな人だったか、ここでご紹介しておこう。ただしここで述べるのは、あくまでも私が見た限りでの永野修身像であり、他者が見た場合は、また違うことは言うまでもない。そのことは、予めここでお断りしておきたい。


 確かにこの方のお名前、先の大戦時の海軍軍令部総長だった永野修身海軍元帥とまったく同姓同名なのだが、そちらの偉大なる元帥は1947年にいわゆる東京裁判の公判途中に病死されているので、私の知る永野修身さんとは生年がまったく重ならない。

 本屋をされていたお父さんが海軍の元将校で、血縁関係こそ全くないものの永野元帥とたまたま同姓だったので、永野元帥にちなんでということで名づけられた次第。

 永野さんは元帥が亡くなられた2年後の1949年5月生れで、同じ年の1月に生まれた常木さんより1学年下。ちなみに私の父(故人)は1948年7月の生まれなので、常木さんと同学年。永野さんは岡山市南西区のとある本屋の息子さんなのだが、事情があって隣の宇野市の祖父母宅で過ごしていた時期もある。こちらの家も系列の本屋で、近くのM造船関連からの注文が多く、大いに繁盛していた。


 高校は岡山県宇野市内の名門・県立宇野高校出身。

 文系科目は恐ろしいほどよくできたそうで、国語、社会(現在の地歴公民。氏の選択は世界史だった)それに外国語(いうまでもなく、英語だけど)はいつも満点。

 しかし、数学は高校入学後あまり勉強する気が起こらず、勉強も当然しないものだから、高校3年間を通して数学のテストでとった点数は通算わずか2点。しかもその2点は、答案用紙の裏側になんと、「漢詩」を書いたが故のものだった。ところがこの漢詩、その数学の先生から漢文の先生に回状よろしく回され、添削された挙句「韻を踏んでいない」とのかどで、次回の漢文のテストで1点引かれたという。それでも他の生徒に満点も99点もいなかったから、堂々の一番には変わりなかった。

 理科はというと、文系の常として、ある程度暗記で処理できる生物を選択していたが、こちらは何か記号でも書いていればある程度の点数になったため、いつも赤点すれすれ程度はあったそうな。

 これだけでもいい加減ハチャメチャな話だが、それだけじゃなく、宇野市内の居酒屋で同級生らとしばしば酒を飲んでいて(当然その頃から煙草も平気で吸っていたそうだ。この頃は、それでも大人が注意したりすることはなく、本人の自主性に任されていたところがあった。大学はもとより、高校進学率も今ほど高くはなかった)、ある時宇野高校の例の漢文の先生と数学の先生が居合わせて、結局そのまま一緒に飲んだとか。さすがにおごってもらったりはしなかったが、その「酒の席」で、例の数学の先生から「早稲田に現役で合格出来たら卒業させてやる」と言われた。漢文の先生からは「どうやら、困った後輩ができそうな気配ですなあ」と苦笑交じりに言われたが、表情は満更悪くもないようだった。結局早稲田大学文学部に合格できたので、何とか高校を卒業させてもらえた。

 さて、大学に行き始めたら、祖父母の経営する本屋を利用してかれこれ小金稼ぎもしていた。それで儲けた金の一部を利用して、帰省の際には廃止になる寸前の東海道本線の急行「なにわ」に乗ってビュフェの寿司コーナーで散々飲み、散々寿司を食べまくったという。ちなみにその寿司のお味はというと、まあ、そこらの寿司屋の寿司とさして変わりはしなかったとの仰せだ。


 大学卒業後はしばらくの間東京で週刊誌や新聞の記者をしていたが、祖父母が亡くなり、両親の本屋を継がなければいけないということで岡山県に戻ってきて本屋を継いでいた。やがて両親も高齢化し、借金を整理して店もたたむことになった(本人弁)。そして、それまでもしばしばしていたのだが、選挙の参謀やら知人の会社の経理の手伝いやらなにやら、そういう仕事をして糊口をしのいでいた。晩年は病気がちだったことと年金がそれほどなかったこともあって、苦しい生活を余儀なくされていた。それでも選挙参謀の引く手がある頃は潤っていた時期もあったが、年齢を重ねるにつれそういう仕事もなくなった。

 この手の仕事に携わる人の常として、本人は何とか市長選でどこの何とか候補を当選させたとか、岡山県議選のどこの選挙区でナニガシ候補を当選させたとか、何とか、そんなことを自慢というわけでもなく淡々と酒を飲んだり選挙事務所に行ったりする度に聞かせていた。

 だが、これまたこの手の話の常として、相手に聞けば、必ずしもそれに応じた反応が返ってくるとは限らない。先日も宇野市長の赤田氏に常木さんが永野さんのことを尋ねたところ、永野さんがおっしゃるのとは裏腹のあまり芳しくない反応が返ってきたそうだ。


 しかも永野さん、酒も飲めば煙草も吸う。宵越しの金は持たないという江戸っ子を特徴づける言葉を地で行く人生を送ってきたこともあり、晩年は経済的に困窮しておられた。それに加えて、常木さんの知人からも何人か、金額的には総額で数万円程度という事例が多かったが、借りたままのがいくつとあった。具体例はいくつもお聞きしているが、さすがにこれは迷惑がかかるのでここでは述べない。手口? としては、自宅に帰る金がないから1万円か5千円でいいから貸してくれと言い、それで借りた金で早速、帰りに缶ビールを買って飲んだり、居酒屋で飲んだり・・・というのが典型的なパターン。それが何度も続けば、相手も、さすがに勘弁してくれという話になる。

 常木さんや私つながりの知人でさえそんな調子なのだ。まして同年代でそれなり以上の収入のある常木さんからは、桁がいくつか違う額の借金をしていた。選挙の仕事があった頃はそれなりに返済していたものの、最近はその返済もほぼ完全に滞っていた。

 私はというと、幸か不幸か年齢差も親子近くあるし、そこまで求められることはなかったが、それでも数日間数千円貸してくれという話は結構あり、決まって数日後、私の地元地銀の備讃銀行の口座に戻ってきた。最後に戻ってきたのは、昨2018年12月15日の年金支給日。確か3000円戻ってきていた。電気代名目でお貸ししていた金額ぴったりだった。なんせこの備讃銀行、同行の口座同士だと振込手数料がかからないから、その節は確かに重宝した。振込む前にまずその金額ちょうどを通帳に入れ、そのあとすぐ振込む。振込まれてきたらすぐに引出す。そのたびに「ナガノ オサミ」という名前がカタカナで記帳される。備讃銀行の私の口座は、このところほとんどがその名前の入った取引もしくはそれに付随した取引ばかりで、正直そのためにこの口座を開設したのかと勘違いするほどだった。

 だけど、記帳してこんな文字が書かれることは、もう、ないんだよなぁ・・・

 それからもう一つ。この人は、日本のプロ野球が好きな人で、歴史にも相当詳しかった。高校時代にその筋の本をいくらか読んでいた私など、その手の話はすでに知っていてなまじ相槌を打てるものだから、ますますその手の話が酒の席で増えるというわけで、これはこれで楽しかった。野球の話についてはもっとじっくりご紹介したいネタもあるので、それは後程、じっくりとご紹介したい。

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