3匹

 彼女は話し言葉の中で、分かれ道の分岐点を「道違みちちがえ」と表現する。その他にも度々古風な言い回しや、生まれ・岩手の訛りが混ざった。

 素朴で素直な性格で弱視、服装はラフな格好が多く、折り畳みの白い杖を持っている。それで、サングラスを取るとかなりの美人だ。僕は、彼女を見つけ出した自分のセンスについて、結構得意に思っていた。



 今日はそんな彼女との久しぶりのデートだ。待ち合わせは駅近くの音の出る時計塔の下、点字ブロックがある人の少ない道を選んだ。

 ほどなくして彼女がやってきた。カツ、カツ、と杖を突く軽快な音が近づく。

小夜さよちゃん! こっちこっち」


 彼女が近づき、顔を上げて手を振った。いつものサングラスで、珍しい濃い色の口紅が目をひいた。

 編み込んで高い位置で留めた、黒いポニーテールが揺れる。春らしい水色の衿のある膝丈ワンピースは、生地のせいか胸元からお腹の体のラインがよく目立った。


「…………」

「関川くん? あれ」

 彼女が近づき、不安そうに手をさまよわせる。


「あ、ああごめんごめん! ちょっと可愛くてびっくりしちゃって」


 声で僕の顔の位置を定めた彼女が、はたと手を留めてふにゃっと笑った

「ふふ、上手。珍しく美容院行って気合い入れちゃった。……変じゃないかな」

 いつもジーンズにスニーカーの彼女が、珍しくヒールのある靴まで履いている。

 僕は頬をかきながら、ちょっと照れた。

「うん……いいと思う。似合うよ」


 今日はこれから早めにランチをして、それからはいつも通りの無計画なデートだ。上手く言いくるめれば僕のアパートまで来てくれることもあるし、ご機嫌伺いに気合も入る。

 彼女は赤い顔をして、ついと僕と反対方向を向いた。

「……今日は関川くんとの特別な日だから、ちょっと気合い入れ過ぎたかも」

「ん?」

 ……今日ってなんか特別な日だっけ?

 彼女はにこにこと機嫌がいい。杖と反対の手を僕に向けて差し出した。

「それでは、これからどこに行くの? 連れて行ってくださいね」


「あー……うん、……バスで少し行ったとこ、自然公園の中の有名なイタリアンの店あるじゃん。そこでいい?」

「うん! お洒落だね! 嬉しい」

「うんうん! 小夜ちゃんそういうの好みだよね、良かった!」



 手を繋いで、歩調を合わせながらバス停まで歩いた。

 バス内は人が多く、席の空きがなかった。体を寄せ合って、小夜の体を支える。透き通るような、森を思わせる爽やかな香水が香った。バスの振動と共に、彼女の長めな前髪が、僕の首にかかって揺れる。


「ごめん、タクシーにすればよかったかも」

「ふふ、そんな気を遣わないでよ。公園まで距離もあるし。そんなことより、久しぶりに会えたのが今日で嬉しい」

「……うん! 僕も嬉しいよ!」


 バスは度々止まってはガタガタと、騒がしく人が乗り降りする。

「関川くん、毎日大変みたいだったから。システムエンジニアって忙しいんだね、話聞いてびっくりしちゃう」

「忙しいっていうか、時間が不安定で。急ぎの依頼が急に来て、そのまま遅くまで残業になること多いし……、」


 特に内容のない話をしながら、長時間バスで揺られ続ける。彼女はどんな話にもにこにこと、相槌を打って嬉しそうにした。

 途中立ったまま、うつらうつらもした。寄り添った彼女の重みのせいか、自分が父親になって子供を背負って歩く夢を見た。夢の中で、僕には目の見えない六歳の子供がいた。



 自然公園に到着するとちょうどお昼時で、レストランにはざわざわざわと行列ができていた。

「あー……と、ごめん小夜ちゃん。一時間くらい待つみたい。……どうしようか」

「うん、わたしはどっちでもいいよ。関川くんが決めて」


「うーん、一時間はちょっと長いな。サンドイッチでも買って外で食べようか」

 彼女は、少し表情を曇らせた。その後にすぐ笑顔に戻る。

「うん、いいよ。楽しみだね」


 売店でお弁当を二つと、お茶とドクターペッパーを買って、二人で公園内の歩道を歩く。

 有名な公園なだけあって、少し歩くと青く樹々が増えて行った。

 レストランから離れると、人影も急になくなる。


 吹く風から森の香りがした。進むほどに徐々に自然が濃くなる。


 段々緩やかに上下する遊歩道をしばらく行くと、視界が開けた場所に出た。目の先には小川と、続く深い池が広がる。

 小川の近くのベンチに並んでお昼にした。爽やかな水の流れる音が響く。


 二人して黙々と弁当を食べた。僕が先に食べ終わったくらいで、池にいた灰色の水鳥が「ギャオ」と声を上げた。


「鷺だわ」

 彼女が顔を上げる。


「小夜ちゃんさすが、よくわかるね。大きな鷺。近くの岸には……ネモフィラかな。ちょうど小夜ちゃんのワンピースの色の花が咲いてる。嗅ぐ? 取ってくる?」

「ふふ、ありがとう大丈夫。お花可哀想だし」


 彼女は機嫌がよさそうだ。モソモソと冷えた弁当を食べる。鳥はもう一度、「ギャオ」と声を上げた。


 食べ終わって彼女にばれないように、こっそりゴミを捨てる場所を探していると、

「あっ」

 彼女が出っ張った木の根に、足を引っかけて派手に転んだ。


「うわ大丈夫!?」「いっ……た」

 彼女のサングラスが軽く飛んだ。杖も飛んで、一度カッと音を立てて、池に落ちる。


「あ、杖が……」

「うわ、取って来てあげる。ちょっと待ってて」


 覗き込むと杖は池の中、結構遠くへ沈んでいた。小枝か何かで引っ掛けて取ろうにも、ぎりぎり届かなさそうな距離だ。

 しばらく身を乗り出して見ていると、膝が泥だらけになっていたのに気が付いた。汚れをパッパッと払って、諦めて彼女の場所に戻る。



 彼女は両手を地に着いた崩れた姿勢のまま、漠然と不安げな顔をしていた。

 片方の靴が脱げて転がって、かかとには濡れた靴擦れが大きくできている。両目を薄く開けたまま両手をパタパタと動かして、やっとサングラスを拾った。ばれないように小さく一つため息をつく。


「小夜ちゃんごめん、杖なんだけど、池の深くにハマってて取れない」

 彼女は、ばっと顔をこっちに向けて、眉を下げてふにゃりと笑う。


「だっ大丈夫だよ、全然大丈夫! 家にスペアあるから!」

「うん。ごめんね、じゃあちょっとまた行こうか。小川沿いに行けば風も気持ちいいし」


 彼女がここで不意に泣きそうな顔になった。口元だけは笑って、片手でサングラスを軋むほど握りしめる。

「え、なに」

「ご、ごめんなさい……左足、ひねっちゃって……」


「え、大丈夫なの?」

「歩けない……かもです……痛い」

「まじか。仕方ないなぁもう……。ちょっとこのまま休もうか」


 足首にお茶をかけて冷やして、しばらく座って休む。質問されるままに僕の仕事の話なんかをしていると、すぐに彼女の足首が大きく腫れだした。

 内出血なのか捻挫なのか、ぶよぶよとした水膨れっぽい手触りで、触ると凹んで酷く痛がる。泣きそうな笑顔のままの彼女に「だっ大丈夫だよ!」を言われ続けていると、ぽつぽつと雨が降りはじめた。


 すぐにザアザアといった雨脚に変わる。あたりが一面薄暗くなり、服がまだらに濡れて染まった。冷たく体に張り付く不愉快さに眉を顰める。

 彼女のワンピースも濡れて、徐々に水色が濃くなる。黙って不安げな顔をじっと向けられ、頼られているのを感じた。彼女のワンピースもすぐにぐっしょりと体に張り付いて、体の線やふくらみを目立たせた。


「……小夜ちゃん。おぶってあげるから、ちょっと屋根のあるところか、樹の多い所まで行こう」

「はい……。気を遣わせてごめんなさい、関川くん」


 返事をせず、ぐっと力を込めて彼女を背負う。濡れた布の感触がして、染み込んだ土が薄く臭った。冷えた柔らかい彼女の体が、ずっしりと背中に当たる。


 空には黒雲が広がり、暗さを増している。慣れないノロノロとした移動になった。屋根のある場所は見当たらず、雨避けになるような大きな樹は探すと思った以上に少ない。


 水溜まりを踏んで思わずまたため息が漏れる。ついに彼女が背中でひくりとしゃくりあげた。

 そのまま、震えはじめる彼女の感触が伝わる。どうやら泣きだした様子だ。


「ごめんなさい関川君……重いよね」

「大丈夫だよ、重くないから」

「でも、きっとそのうちすぐ重くなる……」


 彼女はもう一度しゃくりあげる。面倒さも相まってイラっとした。

「関川くんには、いつも行き先決めて案内してもらって、こうして今も気遣ってもらって」

「いや大丈夫だって言ってるじゃん」

 つい乱暴な声が出ると、彼女はしゃくりあげる声を一瞬止め、「ふふ」と不思議な声を漏らした。なぜかそれが笑われたように感じてイライラが加速する。背中で、彼女はまだ小さく震えている。


「……確かに、さ。いつもいつも俺が決めて、選んで失敗したら俺のせいだし、めんどくさい時はあったけど、それはさ、仕方ないじゃん」

「ごめんなさい……」

 大粒の雨がぼたりと額にかかる。


「泣かないでよ、機嫌治してよ」

「……気を遣ってもらってごめんなさい」

「だっから、大丈夫だって」


「たまに、親しい相手や、親にまでばかにされて嫌になる」


 彼女はポツリと言った。悲しげな声にイライラが加速する。


「気にしすぎだって」

「それでも……もうちょっと長く背負っていけば、きっと思うよ」

「はいはい機嫌治して。あ、右側と左側の先に森、二か所あるけど小夜ちゃんどっちが好き? たまには選んでよ」

「左がいいです」


 即答されて驚いた。

 道の先はやや斜面になって、下った先で左右に二股に分かれている。

 つい候補にあげた左側の森までは、右側よりも距離があった。はぁ、ともう一度ため息をつく。


 分かれ道でこっそり右側に進もうとすると、

「そこの道違えで、石があるでしょう」

 と、静かに言われた。


 見下ろすと確かに、腰までの高さの石で作った案内板がある。黒い石に赤い文字で、左右の地名が彫ってあった。


「そこを左に行くんです」

「……わかった」

 彼女の声は暗く静かだった。命令するような雰囲気もあり、苛立ちより違和感が湧き起こる。理由もわからず気持ちがざわめいた。

 遠くの山の方で雷の音がする。


「……小夜ちゃんもしかして、目見えてる? あはは、なんて。そんなことないよね! ごめん、ごめん……」


 乾いた声が出てしまって、空々しくあたりに響く。

 返事はなかった。彼女の温かな肉が、呼吸と共に上下するのを背中で感じる。


 雨が激しさを増し、あたりが黒々とした。やっと森まであと少しのところで、彼女がまた静かに言った。


「関川くんは、忘れちゃったんだね」

 耳元で、冷えた声だった。独り言のようでもあった。彼女が冷たい指先で、僕の濡れた前髪をなぞって撫でつける。


「……なにが」


「何がって、知っているでしょう。こんな日で、晩だった」

「いや、うん……いや、言われてみれば、知っているような、知らないような……?」



 暗い森に入ると、彼女が前方を指さした。


「あれ、あの杉。あの下に行きたい」

 指さす先は、確かに大きな杉の樹に見える。



「関川くんあれだよ、あの樹。ね、ちゃんと覚えてるよね?」

「うん! 覚えて、ます、けど…………」

 勢い頷いてしまい、語尾が小さくなる。と同時に、何かを無理やり忘れていた感覚が、不意に腹の奥でくすぶって湧き起こる。


 ザ、と雨が激しく音を立てて木々を濡らした。

 もうすぐ杉の樹の下の、地面のぬかるみで足を止めた時、冷えた彼女の柔らかい手に、不意に両眼を覆われた。


「大正の十年の、酉年だったでしょう」

 彼女は断定して小さな声を響かせる。

 言われると、なぜかなるほど、確かに大正十年の事だった気がしてくる。


「関川くんがこの木の下で、わたしを殺したのは、今日からちょうど百年前だね」

 真っ暗な中、吐息交じりで、彼女が囁いた。


 そこで、確かに僕は今から百年前、大正十年にこの杉の下で一人の盲人を殺した。自覚が、忽然と頭の中に沸いておこった。

 ザ、と水音が頭いっぱいに響く。


「そっか。僕、人殺しだったんだな……。今まで忘れてたわ」


 ストンと納得して声に出た。静かな声だな、とどこか客観的に思った。

 彼女からの返事はもうなかった。視界は閉ざされたまま、思い出した途端に、背中の彼女がまるで大きな岩のように、冷えて固く重くなった。




 ---

 出演:夏目漱石『夢十夜』第三夜の二人から

(https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/799_14972.html)


(冒頭はこちらのお題から改変引用させていただきました: https://kakuyomu.jp/works/16816452219618132890/episodes/16816452220145901286 関川二尋さま)


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 今日は彼女との久しぶりのデートの日だった。


 待ち合わせは駅の中央改札にある時計塔の下。

 いつも人がたくさんだけど、ここなら間違うことはない。


 彼女との約束の時間は午前十一時。今はその十五分前。 

 これから一緒に早めにランチして、近場の水族館に行くデートプランを立ててある。


 ほどなくして彼女がやってきた。

 

 いつもはジーンズ基本のラフな格好がほとんどなのだが、今日は春らしい色のワンピース。

 普段は口紅ぐらいしかつけないのに、今日はメイクもバッチリしている。


 か、かわいい……


 あんまり見つめ過ぎていたのだろう。

 彼女はちょっと赤くなる。


「あ。やっぱり気付いちゃいました?」


 え? 何に? 何も気づかなかったけど?


「……今日は関川サンとの特別な日ですからね、気合い入れちゃった!」


 ……今日ってなんか特別な日だっけ?

 ……なんだろう? さっぱり分からない。


 正直に言うべだろうか?

 それとも会話しつつ探るべきか?


 僕にゆっくりと考える時間はなかった……

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