第2話 今でも好きな人

ある日、いつものように、麻布の貯金局で働いているところへあの人がやってきて、私に「何を読んでいるんですか?」と聞いて来たんです。わたし、顔が真っ赤になるぐらい恥ずかしくて。皆に聞かれるんじゃないかしらと思うぐらい胸が高鳴ってね。

ちょうどその頃、与謝野晶子のみだれ髪という、詩集みたいなものが流行ってましてね、

私はそれを読んでいると答えました。

そしたら「僕にその本を貸してくれませんか」と言うんですよ。

それからね、なんとなく話しをするようになって。一緒に出かけたり、食事をするようになりました。


それって、デートじゃないんですか。


そうです。デートですわね。

って言ったってあなた、私の若い頃の話しですからね。今みたいに密着して歩いたりなんてことの無い時代ですよ。

ただ並んで歩くだけです。

それでも、私はその人に憧れていましたから。もうのぼせ上がっていましたよ。

スラリと格好が良くてね、これがまた、何でも知っているんです。話しも上手でね、私の知らないいろんな話しをしてくれるもんだから、こっちはもう夢中でしたよ。

旅行にも連れて行ってくれてね。伊豆に行きました。


え?? 泊まりでですか?


まさか。私達の時代には、今みたいなそういう事は無かったんです。

でも、、手ぐらいつないだかしら。


ふふふ。

その方とはどうなったんですか?


ある時、私の家に送ってくれましてね。

父に挨拶してくれたんですよ。

そしたら父が、気に入らなくてね。

「箸の持ち方が悪い」ってんで、、。

まあ、、それだけの事だったんですけど、、

それっきりになりました。

私は失恋をしたんです。

でも、ほんとに素敵な人でね。

私、今でも好きですよ。


それ、ご主人が聞いたら、怒りませんか?


まさか。怒らないわよ。

だって、主人も知っていますもん。

主人も、同じ貯金局にいたんですよ。

だから、知ってるの。

あの人の悪い噂も知っててね。

僕は心配してたんだよ。って言ってたわ。

あの人は素敵な人でしたけど、なんだか噂がある人で、何処かの学校で教師をしていたんだけど、女生徒と何かあっていられなくなったらしいとか、、そんな話しでしたよ。

噂は噂で、私にとってはどうでも良かったんですけどね。

冷静に考えれば、父にしても、深澤さんにしても、この男は良くないと心配してくれたぐらいでしたから、まあ、どっか女たらしのようなところはあったんじゃないかしらね。


それでも、私にとっては、初恋みたいなもんですから、忘れられず、今でも好きな人。

多分、死ぬまでそうでしょう。






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