その2 研究室にて

「お、六時になったぞ。斎藤さいとう村永むらながもゆっこも帰ろうぜ」

 飯田いいだ葉介ようすけが、そそくさと荷物を片付け始めながら皆に声をかける。葉介は恭太の研究室同期であり、午後六時になるといつも同期に声をかけて研究室を出るのを日課としていた。

「あ、桜田君は今日もまだ残るのかな?」

「うん、今日は後で先生とミーティングがあるんだ」

「そっかー。頑張ってね。お疲れ」

 葉介はそう言い残して、同期三人と一緒に研究室を後にした。


 恭太は、自分だけ同期から君付けで呼ばれていることに気にしていた。 同期の仲は極めて良好で、先輩たちからはいつも仲が良い学年だと言われている。それでも恭太は同期とは見えない距離のようなものを感じていた。葉介だけでなく、斎藤正忠まさただも村永拓斗たくと川野かわの百合子ゆりこも修士課程を修了したら就職すると決めていた。葉介と百合子はすでに内定先が決まっており、正忠は起業する予定で、拓斗は最終面接に進んでいる。恭太は、自分だけが博士課程に進学することが距離感を生んでしまったのではないかと感じていた。 恭太は、博士進学に対して前向きな姿勢を常に示していたが、同期との距離感という点で少しだけ後悔していた。


「桜田君、少し遅れてしまってごめん。今から始めよう」

 葉介たちが帰った後、約五分後に前田まえだ先生がやってきた。 前田先生こそ、恭太の博士進学を応援し続けてきた先生であり、恭太がもっとも尊敬する人物であった。

「先生、どうぞよろしくお願いします」

 この日は博士進学に関して具体的な相談をする目的で、恭太は前田先生とのミーティングを約束していた。


「・・・・。ということで、私は博士課程では事故で体が不自由になった子供たちのケアをできるロボットを開発したいのです」

 恭太はミーティングに向けて、博士課程での研究計画を立ててきており、それを前田先生に説明していた。 前田先生はニコニコしながら恭太の話を最後まで聞いていた。 前田先生は、ロボットに関する研究の世界的権威であるにもかかわらず、恭太など学生の話すこともいつも真剣に聞いて受け入れてくれていた。だが、この日は少しだけ様子が違っていた。

「桜田君のアイディアは面白いね。だけど、それでは博士研究としては不十分なのではないかな。やはり、注目される分野で学術的新規性も高い研究をしないと博士号は取得できないからね」

「え、でも・・・」

「例えば、災害が起きた場所で人命救助を行うロボットはどうかな。その分野ならいろいろな可能性が広がると思うよ。博士に進学するためには、奨学金を獲得する必要もあるし、やはり評価される研究テーマでないとね」

 恭太は前田先生の発言に対してどのように返答すれば良いかわからなくなっていた。 学生の意見を尊重してくれることが前田先生の特徴だと思っていたが、この日は恭太のアイディアはまったく認めてもらえなかった。


「さて、研究テーマについてはこれで良いかな。まずはそれでいいんじゃないかな。 あとは、ちょっとした事務的な話だけど、博士課程に進むための試験もあるんだ。その準備は進めておいてくれ。それから、先ほど言ったように、奨学金のことも考えておいた方がいいぞ。奨学金をもらうための申請書なんかも用意しないとな。その辺は、最近博士課程に進んだ学生に聞いてみるといいと思う。他にも何か質問があるかい?」

 研究内容に関する議論は前田先生によって中断され、恭太は言いたいことが言えなかった。 体が不自由になった子供たちをケアしたいと思ったのは、恭太の親友が中学生の時に事故に遭って寝たきりになってしまったからだ。 できれば、研究に対する情熱を前田先生に伝えたかった。 しかし、今の前田先生にはそのようなことを話す雰囲気ではなかった。

「いえ、特にありません。頑張ります・・・」

 恭太はそう言うしかなかった。


「あ、そうだ」

 ミーティングが終わり、研究室を出ようとしていた前田先生が、ふと何かを思い出したように恭太の方を振り返った。

「この前のアメリカの学会、桜田君はとてもよく頑張っていたね。発表も堂々としていて感動したよ。修士の学生があそこまで立派な発表をするのは、私が見てきた中では初めてかもしれない。桜田君は本当に研究者向きだよ」

 先々週の学会のことを、前田先生は満面の笑みで褒めてくれた。

「学会中、桜田君のことをいろいろな研究者にアピールしておいたからね。これで、博士に進学したら海外の研究室や他の場所に行かせてあげられるよ」

 そう話す前田先生の姿は、恭太が知っているいつもの前田先生であった。

「先生、ありがとうございます!とても、嬉しいです。これからももっと頑張りたいです」

 恭太の気分は一気に明るくなり、声高にそう返した。 前田先生はにっこりと笑って、研究室を後にした。 いつもと違う前田先生に戸惑いながらも、終わってみれば嬉しい感情ともっと頑張ろうという意欲だけが残っていた。

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