第14話 後梁、建つ

14―1 遷都

 

 山西方面を根城とする李克用に対し、朱全忠は、運河等、交通の便の良さから、開封に拠点を置いた。両者は対立しあう群雄であることが明らかになった。唐朝は、一地方政権に転落して行った。

 しかし、それでも、唐朝そのものが群雄の一つに成り下がりながらも、唐朝を回復せんとする動きがあった。唐朝の朝廷では、文官の長・崔胤が、宦官の一掃による唐朝の回復を目論んでいたのである。それを、昭宗に勧め、さらに、その目的のために、鳳翔(陝西)の兵卒上がりの将・李茂貞に、三〇〇〇の兵を率いて、長安に入城するように要請した。

 しかし、李茂貞は、かつて監軍だった宦官と相通じるものが有り、逆に宦官の力を強めるという結果を招いた。故に、崔胤は、朱全忠に出兵を求めた。

 要請を受けた朱全忠は、軍を西に向けた。宦官たちはまたしても、皇帝を連れ出し、李茂貞の本拠地たる鳳翔に逃亡した。朱全忠の軍は鳳翔を攻略し、結果として、李茂貞は降伏せざるを得なかった。昭宗天復二年(九〇二年)のことであった。この時、出された講話の条件としては、宦官誅滅と昭宗の引渡しであった。引き渡された宦官は、翌年までに皆殺しにされた。

 この時期、既に、寧二は四〇代半ばになっていた。戦乱が繰り返される大地の上で、生き抜いてきた。今回の李茂貞との戦では、寧二は参戦せず、他の武将が戦う形になっていたが、宦官が誅滅されたと聞いても、然程、心中で動揺することはなかった。宦官達は、そもそも、私財の溜め込みに励み、それは常々、民衆への重税となって来たのである。三国志等の古典に、ある程度通じている寧二には、理解できることであった。唐朝は今や、自らの身内である宦官の管理さえできない状況に陥っていた。群雄が割拠し、既に中原に鹿は放たれていた(天下取りの群雄の争いをこのように表現する)のである。

 そのような状況の中で、崔胤は長安で六〇〇〇人以上の新軍を組織しようとした。宦官誅滅の次は、軍事力でも、唐朝を維持、回復せんとしたのである。しかし、これは、朱全忠にとっては看過できない動きだった。

 この頃、朱全忠は、放たれた鹿を捕らえること、即ち、新朝樹立と皇帝即位によって、天下を手にすることを目論んでいたからである。

 朱全忠は再度、出兵し、昭宗に迫って、崔胤を罷免させた上、昭宗天復四年(九〇四年)、長安にある崔胤の屋敷を自軍で包囲し、火をかけて、崔胤一族を皆殺しにした。朱全忠にとっては、皇帝即位の妨げになるものは存在していては困るのである。

そんな朱全忠に寧二が囁いた。

「長安を放棄させ、者どもを洛陽にお移しなさいませ。遷都にございます」

 寧二にとっては、自分の立場を守っていかなければ、自分自身が危うくなる。そのためには、群雄割拠の中で、朱全忠の立場が弱くなっては困るのである。その弱さをもたらしかねないのが唐朝の存在であった。未だ、唐朝の権威は残っていた。諸侯は唐朝の権威を利用して行動している。まかり間違えば、後漢末に、袁紹、曹操等が反董卓連合軍を結成したようになるかもしれない(三国時代の幕開けとなった後漢末、反董卓連合軍と戦い、追い詰められた董卓は、市民もろとも洛陽から長安に遷都した。しかし、遷都先の長安で部下の呂布に殺害された)。

そうなる前に、権威の源泉たる唐朝を消したほうが有利と考えたのである。これには、李振も賛成した。

 あるいは、唐朝そのものを手中にすれば、朱全忠その者が唐朝の権威―と言っても、最早、残光だが―を利用しうると考えられた。謂わば、後漢末に董卓が洛陽から長安に向けて行った西遷を、今回は逆に、長安から洛陽に向けて東遷せんとするわけである。

 寧二はさらに続けた。

「長安の街そのものも、破壊なさいませ。最早、これで唐朝の天下も終わりであることを具体的に見せる必要がございましょう」

 朱全忠は決断した。

「我等は、帝を擁して、洛陽に東遷する。新しい時代の幕開けだ。古き唐朝は捨て去られねばならぬ」

 こうして、長安から洛陽への東遷が決まった。寧二等は、東遷の布告をしたため、自軍の兵達に、長安市内の各所に配布させ、市内全体に東遷を告知させた。


14―2 東への行列


 唐朝の宮殿等には、朱全忠の軍の兵士によって火がかけられた。官僚たちの屋敷も同じである。宮城をはじめとする市内各所から火の手が上がった。市内の各所には破壊の音が響き、二〇〇年以上に渡った唐朝は、ここに潰えようとしていた。兵達は残された財宝をそんな時でも奪い合う。

 市民達は、権力を持った者の都合に合わせて、長安を出なくてはならなかった。黄巣による長安占領以来、食糧不足や治安の乱れによって、長安を既に去った者も大勢いただろう。しかし、残った市民もいた。行く宛のない者もたくさんいたに違いない。しかし、いよいよ、長安を去らねばならなくなっていた。

 兵達は、早く荷造りをして家を出ろ、と市民達をせかす。市民達が持てる物と言えば、今、着ている衣服に加えた数着の衣服、当座の食料程度であろうか。家財道具等については運び出す余裕等はなかった。或は、それまでの長安の治安の悪化で、略奪される等によって持たざる者もいた。その意味で長安に見切りをつけ、今日の東遷に従うことを然程、苦にしない者もいたかもしれない。しかし、乳飲み子をはじめ、幼い子供等を抱える家族では、子供がぐずったり泣いたりするのを叱りつけてでも、東遷の支度をしなくてはならなかった。可愛い子供であっても、今はそうしなければ、他に生きるみちはなかったのである。さらに老人の家では、その老人が歩けない場合、見捨てて、置いていくしかなかった。董卓の洛陽から長安への遷都を約800年の時を経て、方角を逆にする形で再現せんとしていたのである。

 こうして、朱全忠の軍に率いられる形で、長安の市民等は東への長い行列をなした。この中には官僚が居り、皇帝がいた。皇帝は輿に乗っていたとはいえ、行列の一員でしかなかった。既にかつての権威はなく、ただ東へと運ばれて行く単なる飾りと化していた。この行列の中に、かつて寧二等を苦しめた呉倫がいた。この男、どうも、そもそもが高級官僚にして、大地主の家柄だったことから、必ずしも科挙に合格するのでもなしに、それなりの地位を得たのであったらしい。呉倫は、行列の中に、寧二がいるのを発見した。若い頃から、既に二〇年以上経っていたが、寧二を自分の子分、と勝手に思い込んでいた呉倫は、寧二を利用して一儲けすることを企んだ。

 東遷の一行が洛陽に到着した後、呉倫は傍らの皇帝に話しかけた。

「陛下、此度の東遷、お苦しゅうございましょう。私目、陛下の苦しみを取り除いて差し上げることができるやもしれませぬ」

 昭宗は言った。

「うむ、申してみよ」

「はい、陛下。此度の朱全忠の軍中に、李寧二と申す者を見出してございます。その者、私と同郷でございますので、説得してみましょう」

 昭宗は言った。

「うむ、やってみよ」

「かしこまりました」

 呉倫は答えると、皇帝の付き人に命じ、昭宗の状況を改善せよ、という内容の書簡を持たせて、寧二等、朱全忠の幕僚の元へと向かわせた。


14―3 白馬の変

 洛陽にて朱全忠の幕僚達が一堂に会しつつも酒と酒肴で休んでいる時だった。彼等の元に、呉倫の使いの者が来訪した。

「申し上げます。昭宗陛下よりの伝言をお付の呉倫様より、お預かりして参りました」

 寧二は一瞬、はっとした。

「あの呉倫の奴め、こんなところにいやがったのか」

 他の部将が問うた。

「して、何用か」

「はい、幕僚の一員たる李寧二様の下へのご伝言として、昭宗陛下の状況の改善を願いたいとのことにございます。古き友人として、また、義の者と見込んでとのことにございます」

 寧二は、呉倫の身勝手で厚顔無恥な笑いを浮かべた顔を思い出した。不遜で身勝手な笑いを浮かべた顔が思い浮かんだ。今、呉倫は昭宗を利用せんとした。それは、唐朝の権威故である。周辺の諸侯が唐朝の権威を利用せんと、「義の者」を演ずる可能性も無きにしも非ずである。我々の勢力は唐朝の権威を断ち切らんとしているものの、昭宗が生きていては、完全に断ち切るのも難しいであろう。

 寧二は、使いの者に、後程、回答するので、一旦戻るように言うと、朱全忠、李振はじめ、諸将に言った。

「此度の東遷は、皆の者に唐朝への未練を絶たせるための行動にございます。しかし、昭宗陛下が残っていては、未練も断ちがたいものがありましょう。陛下には気の毒ですが、ここは、お命を頂戴いたしましょう」

 皇帝即位を考えていた朱全忠をはじめ、諸将は同意した。皆、自分の立場と利害が大切なのである。その立場と利害を妨げる可能性があるのである。即ち、他の勢力に、その権威を利用させないことが必要であった。

 結果として、昭宗は朱全忠の仮子・朱友恭等の命を受ける形で、寧二の兵達が殺害し、その後、昭宗の子・一三歳の李祝が昭宣帝(哀帝)として即位し、元号は天祐と改められた(九〇四年)。呉倫もそれを見た。しかし、これは全くの朱全忠による飾り物に過ぎなかった。ここに、唐朝は事実の滅亡となったのである。呉倫が自らの権勢の根拠としてきたものも、事実上、ここに滅亡したのである。

 しかし、寧二にとっては、呉倫は厄介な存在であった。

 その後も東進は続いた。途中、ある日、寧二は傍らにいた李振に相談した。

「今回、連れて来た官僚どもも、皆、どうにかすべきしょう。唐朝の官僚どもには、実力もないのに貴族であるからとか、一族が官僚であったことなどから、その地位を得ている者も少なくない、と聞きます。唐朝の旧き体制を一新するためにも、官僚どもをどうにかしませんと」

 寧二は、幼き頃に自分を苦しめた呉倫に復讐せんがために、このような発言をしたのである。それに、呉倫を生かしておくと、今度は朱全忠に取り入る可能性も考えられた。呉倫としては―恐らく、他に何の才能もないのだろうが―、口舌の徒として、権力に取り入ることだけは上手いのではないか。それ故に、昭宗の傍近くにまで居られる存在になったと思われた。呉倫を生かしておいては、今度は自分の地位が危うくなるなど、またも呉倫に苦しめられないとも限らなかった。

「我々の大将様は、やがては新朝を開きうる立場にございます。新朝のためにも、今から、その基礎を磐石にされた方が良いかと」

 李振も科挙落第生としての私怨から、やはり同じように考えていたのである。唐朝官僚についての処置を朱全忠に相談すると言った。

「官僚達を如何にするか、大将様に相談してみよう。しばし待て」

 返事は、数日後、寧二の元に届いた。朱全忠が、東遷に同行させて来た旧唐朝の全官僚の処刑を下命したとのことであった。

 洛陽への到着前から、案の定、呉倫は、唐朝が事実上、滅亡した以上、次は如何にして朱全忠に取り入ることができるかを考えていた。特に、寧二をどのように利用できるかを考えていた。

 数週間後、呉倫等、官僚の下へ、数人の兵が来て言った。

「皆様、それぞれに地方官の地位を授けるので、近郊の白馬の地へ移動されたいとのことにございます」

 官僚の中には、唐朝中央部での幹部的存在であった者も少なくないので、この処置に不満の表情の者もいた。しかし、呉倫は思った。

 「とりあえず、一定の地位は得られたな。とにかく、再起までの辛抱だ。その時まで、寧二がそれなりの地位にいてくれると有難い」

 しかし、現実は違うことをすぐに思い知らされた。移動先の白馬で、兵が彼らに告げた。

「只今より、諸君の死刑執行を行う。我が軍の幕僚、李振様の命によるものだ」

 予想もしない展開に、官僚達、勿論、呉倫も顔色を失った。

 呉倫は叫んだ。

「何かの誤解だ。李寧二という者がいるはずだ、その者に訴えい。わしとあやつは幼馴染の仲だ」

 執行命令書の署名は、無論、李振のものである。李振は科挙に合格できなかった恨みを官僚に向けて執行し、寧二も又、幼き頃の呉倫への恨みを晴らさんとしていた。そんなことは、勝手な思い込みをしている呉倫に理解できるはずもなかった。寧二は李振の名で、刑を執行することで、新朝樹立への貢献をなしたとして、李振の顔を立て、同時に、寧二自身は、李振に署名を貰うことで、幼き頃の私怨で歴史の中を立ち回っていたと後々、評価されるのを避けんとしたのである。

 権力を有する者に取り入って、権勢を振るうことに「努力」して来た呉倫であったが、殺されそうになると、恥も見聞もなく命乞いをした。しかし、執行担当の兵が振り下ろした剣で首をはねられ、死体は他の旧官僚等と共に、黄河に投げ捨てられた。幼き頃から権力の有る者の権勢を笠に着る以外、能力のなかった卑劣な男のあえない最後であった。

 この間、陝西の李茂貞、蜀の一刺史(県知事)から蜀全体に支配力を伸ばしていた王建、高駢の元部下で、唐朝からの淮南節度使任命を経て、同地に事実上の独立王国・呉国を建てた楊行密、そして、李克用等は、朱全忠討伐の声を上げたものの、殆ど、兵を動かそうとしなかった。既に、互いに対立しあう諸侯なのであり、一種の独立勢力であった。兵を動かすと、その隙に他の勢力に攻め込まれる危険性に晒されていたのである。

 その三年後、朱全忠は昭宣帝から禅譲される形で、梁(後梁、首都は開封)を開き、元号は開平とされた(九〇七年)。ここに三〇〇年近く続いた唐朝は名実ともに滅亡し、昭宣帝は翌年、九人の兄弟もろとも処刑された。

 しかし、梁が支配し得たのは華北の一部であったし、李克用は梁を承認しようとしなかった。王建は、蜀の地に前蜀を建国するなど、分裂の時代になって行った。そして、朱全忠は自身の名を朱晃と改めた。

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