第13話 群雄割拠の幕開け

13-1 去り行く黄巣


 朱温の唐朝への寝返りを聞いた黄巣は「斉」の維持困難なることを悟り、翌三月、長安から撤退した。僅か二年半程度の長安での政権であった。その際、黄巣は金銀珠玉の類は長安に残していくように命じた。唐朝軍は、黄巣軍より兵力は多く、まともに戦えば、自軍は敗れるだろう。しかし、唐朝軍とて、傭兵軍である。戦よりも、自身のための略奪を好むはずである。故に追撃をかわすための餌を市内に置いていく方が得策である。そして、撤退して行く黄巣軍の中に、劉炎の姿があった。

 炎にしてみれば、幼い頃、自らに辛い仕打ちをした夫婦を屠ることで、自身のわだかまりには一つの区切りがついたのであった。これ以上、戦乱の世の中にいても、何かが拓ける可能性は見いだせそうにもなかった。兵は所詮、兵である。上層部からすれば、単なる将棋の駒であり、又、何人の兵員数という数字の一つに過ぎなかった。戦乱の現場にいたところで、張浩士のように討ち死にするかもしれず、そして、それもまた、戦死者何人という単なる数字の一つに過ぎないのである。そのように考えれば、最早、朱温の軍勢の下で、これ以上、戦で「貢献」する気にもなれなかった。

 自らがかつて率いた分隊の五人の仲間を始め、小隊内では戦死、或は、長安入城時の混乱によっての脱走等によって、かつての仲間たちは殆どいなくなってしまい、今では、殆ど感情的なつながりのない部下、或は、部下とも言えないような野卑な者たちがいるだけであった。現実の問題として、彼等が略奪等で規律を乱すことを止められないし、小隊の長、という権力など、既に有名無実のような状況であった。朱温の軍勢のなかにいても仕方がないのである。

 そして、兵は単なる数字でしかない以上、劉炎一人が脱走しても、別に軍勢の上層部にとって、どうということはないだろう。代わりはいくらでもいるだろうから。劉炎はいつぞやのように、持ち場に就くふりをして、朱温の軍勢を脱走し、撤退して行く黄巣軍に紛れ込んだ。

 黄巣軍が撤退した後、長安には、各藩鎮からなる唐朝軍が雪崩込んだ。長安に黄巣軍が残した金銀珠玉等の財宝の分け前を巡って、同じ唐朝軍同士で争い、商店を略奪し、街に火をかけ、女を拐った。唐朝は最早、政府の体をなさない略奪集団であり、それは誰に止められるものでもなかった。唐朝の皇帝が考えることは、自身の長安復帰のみであったろうし、各藩鎮からすれば、皇帝の長安復帰による自身の行動の正当化のみであった。

 結果として、僖宗の長安復帰は、僖宗光啓元年(八八五年)春のことであったが、その際、黄巣との戦いに大きな功績があったのは、僖宗中和二年、雁門節度使に任命されていた沙陀族出身の将軍・李克用であった。李克用率いる鴉軍は、勇猛なことで知られ、その名を聞いただけで、黄巣の軍は逃げ出したと言われる。李克用の父・李国昌は、元は朱邪赤心という名であったものの、龐勛の乱での反乱平定に功績があったとして、唐朝から国姓としての李氏を授けられたのである。

 寧二も、朱温が黄巣を見限って唐朝に寝返って以来、広州で我が物とした明光鎧を着用して戦場に出ることが少なくなくなっていた。戦場では、人の死、傷つく姿は当然、日常の姿だった。それが現実である。三国志の物語に言われるような格好良いものでは決してない。そんなある日、寧二は朱温に呼び出された。

 寧二が幕舎に入るや、朱温は言った。

「我が軍は、黄巣との戦いに苦戦しておる。李克用殿が救援に来てくれているので、そなたに三〇〇の兵を与える。李克用殿指揮の下、黄巣の軍勢との戦いに参加して参れ。そなたへの命だ」

「はっ、かしこまりました」

 そう言って、寧二は下がり、幕舎を出た。

 かつて、唐朝権力に反発して出奔したはずの寧二は、今や唐朝権力の手先なのであった。

 友情のような人間関係は消え、軍勢という機械の中で、兵三〇〇という数字の歯車を操る乾いた存在と化していた。

 寧二は、三〇〇の兵を前に言った。

「皆の者、良いか。我等は李克用殿の指揮の下、黄巣の賊軍を討つ。命に逆らう者は斬る。良いな」

 この言葉を兵達がどのように、心中にて受け止めたかは定かではない。しかし、寧二は、内心、これを、反唐朝から唐朝の手先へと立場を真逆にさせた自分自身に言い聞かせた。軍勢の中では、違和感を感じても、異議申し立てのような行為は許されないのだという現実、即ち、自分自身を納得させる理由付けとしていたのである。

 自分自身を半ば、無理に納得させた寧二は、兵を率いて、戦場で戦った。兵達はよく従ってくれたが、それは朱温からの制裁を恐れてのことだった。朱温は隊長が戦死した隊の兵は全て処刑する等、過酷な支配をなしていた。朱温は、黄巣の軍勢にいた時から、様々な勢力の寄せ集めである事を知っていたので、部下を信用できないのかもしれない。

 また、朱温は、その性格からして、過酷な支配を好む面があったのかもしれない。寧二が小隊に参加したばかりの頃、小隊の長・厳重三は、違反者を斬刑に処したことがある、と言っていた。それも、朱温のある種の過酷な軍制を背景にしたものだったのかもしれない。

 とにかく、戦場では、敵を斬り、自らを守ることで精一杯である。相手がかつての仲間であったはずの黄巣の軍であることなど、気にしている暇はなかった。馬のいななく声、刀剣が交わる干戈の響き、飛び交う火矢、上がる火の手等、現場は怒号と混乱の坩堝であった。

 寧二が参戦した戦に一応の決着がついたのは、日も暮れかけている夕方頃であった。戦場になった村々一帯は、既にほとんどの住民が消えていた。住民達は逃走するか、拐われるか、巻き添えで虐殺されるかしてしまっているのであろう。とにかく、先の見えない状況が続いてることだけは確かなようであった。

 鴉軍の長・李克用は駐屯した土地で、地元住民に対し、略奪をはじめ、過酷な支配を行っているらしい。それでは、人々はさらに逃げてしまうであろう。それが農業生産をはじめ、生産力の低下を招き、さらなる人口流出を招くだろう。それは、単なる「数字」とされている人々が如何に重要な存在であるかを示すものであった。しかし、誰が、どうすることができるというのだろう。こんな有様の世の中である。玉花は何処でどうしているのだろうか。

 そんなことを考えなているところへ、兵が伝言を取次ぎに来た。

「申し上げます。総大将の朱温様が、李寧二様の此度の戦い、よくやったとのことにございます。後日、金銀珠玉によって、褒美を授けたいとの仰せでございますが、いかがされますか」

「かしこまった。金銀珠玉等はありがたく頂戴する、と伝えてくれ」

 寧二の言葉を聞くと、伝令は引き上げた。

 寧二にとっては、荒廃した状況の下でも必死に生きていることへのそれなりの評価であるとも思えた。

 さらに、寧二は思った。

「李克用、か」

 龐勛の乱で父を亡くしたと思う寧二であった。その際、反乱鎮定に功績があったのは、沙陀族であった以上、父は李克用の一族に殺されたのかもしれなかった。父がいなくなってから、母はうるさく科挙のことを言い、寧二を苦しめた、という一面があった。父が生きていたら、何か違う人生があっただろうか。否、このような世の中では、何の違いもなかったであろう。そして、自身の肉親を殺したかもしれない相手とともに動かねばならない自分がいる。何とも戦乱の世は過酷で不思議なものである。

 李克用は長安奪回の功労者でありながら、山西一帯を拠点に駐屯し、半ば、唐朝と対立していたとも言えた。唐朝僖宗付の宦官・田令孜は、僖宗の蜀への逃走時に編成した禁衛軍の資金を、山西の塩池から取れる塩に求めんとしたものの、そこは、李克用に次ぐ長安回復の功労者・王重栄が抑えていた。田は、王重栄を口実をつけて転地させんとしたが、王重栄が聞かぬので、陝西の節度使・朱玫と李昌符に王を討たせようとした。しかし、李克用が王を支援したことから、またも激しい戦乱が起きていた。

 李克用と田令孜の争いの中で陝西の諸将は、どちらに味方すべきか迷い、結果として、唐朝に新帝を立てんとした朱玫は李克用に殺された。その間、再び長安を脱出していた僖宗は、長安に戻ったものの、直後に死去し、弟の昭宗の即位となった。全国的に藩鎮の自立化が進み、最早、唐朝皇帝は形ばかりの存在になりつつも、細々と存在しでいたのであった。

 そんな中、唐朝に寝返ることで、「斉」を崩壊に追いやり、唐朝の長安奪回に功績をなした、として、朱温は、唐朝より「忠義を全うする」という意味の「全忠」という名を与えられ、汴州(開封)宣武軍節度使の地位に就いた。そして、僖宗中和四年(八八四年)、李克用等に追い詰められた黄巣は敗死し、一〇年に及んだ大乱としての黄巣の乱は終わった。

 朱全忠は、その李克用を宴にてもてなさん、とした。


13―2 両雄対面


 宴は、朱全忠が用意していた幕舎にて、行われた。朱全忠が首座で、李克用は客座に座った。李克用は数人の部下を連れていたが、朱全忠も数人の部下を連れていた。

 寧二もその一人である。

 またも、朱全忠がどこからか連れてきたのであろう女性たちが、宴席の参加者に酒を継いで回った。長引く戦の中、荒廃した日々の生活を癒すのには、宴も悪くないのかもしれない。寧二は宴そのものを見回しながらも、李克用を見た。

 李克用は、鴉軍の猛将と言われていた。彼は独眼竜である。片目には眼帯をしている。

 寧二は思った。

「李克用殿は、我が方をどのように思っているのだろう。なぜ、朱温、否、朱全忠は、李克用を宴に招き、もてなそうとしているのか。ゴロツキ上がり、とはいえ、否、ゴロツキ上がりだからこそ、人心の掌握に長けているのかもしれない。幼い頃から培った人心掌握術のようなものがあるのだろうか。首領同士の会合で、李克用を味方にして、勢力拡大をはかろうということだろうか。今や、唐朝は有名無実も同然の存在だ。味方は少ないよりも多い方が良い、という判断か」

 そう思いつつ、寧二は酒を進め、料理を口に運んだ。徐々に、酔いが身体に回って来るようになった。酒が回ってくると、気分も大きくなってくる。日々の戦場の荒廃した気分から、抜け出て来るような感じである。

 寧二は酔った調子で、再び、李克用の方に目をやった。

 彼は猛将だという。表面からは分からぬことも多いが、李克用の鴉軍との衝突は避けるのが賢明であろう。自身の戦の経験から、そのように思った。

 酔いが回ってきたのは、寧二のみならず、皆同じであったようである。

 気分が良さそうに、朱全忠が口を開いた。

「李克用殿、いつぞやは、黄巣との戦いで、お助け頂き、感謝する。礼を申す」

 李克用が答えた。

「何も感謝していただくことはござらぬ。それよりも、元上司相手の戦いとなれば、やりにくいものがありましょう」

 李克用の顔面には嘲笑のような表情が浮かんでいた。朱全忠が、黄巣が彼を引き立てたにも関わらず、その黄巣を裏切った事を突いたのだ。

 裏切りを李克用は軽蔑しているのかもしれなかった。李克用も軍勢の中で人身を掌握することに努力しつつ、生きた来た人物である。あるいは、朱全忠の人心掌握術を見抜いているのかもしれなかった。

 朱全忠の裏切りについては、寧二にも身に覚えがあることであり、半ば、汚点を突かれて何かしら、逆上せざるを得ないものがあった。しかし、朱全忠はそれ以上に怒り、沸騰する血流が逆流しそうになった。そのことは、朱全忠の顔面に表情として現れていた。しかし、剣を抜くことなく、無理な作り笑顔を浮かべた。

 朱全忠の表情を見て、寧二をはじめとした周囲は一瞬凍りつくような空気となった。

 朱全忠はこの瞬間、

「おのれ、このわしを侮辱したからには、必ず殺してやるぞ」

と内心で叫んだ。

 しかし、猛将の李克用を殺してしまうには、一筋縄では行くまい。剣の腕もなかなかのものだろうし、酒で酩酊しているところを殺すのが最良の方法かと思われた。

 一瞬、凍結した宴席で、寧二は思った。朱全忠と李克用は最早、敵同士だ。それならば、李克用が倒されてくれれば、天下の騒乱も少しは収まるかもしれない。いや、大将をなくしたと知った鴉軍は、益々、凶暴となり、山西の地一帯は益々、荒廃するだろうか。いずれにせよ、予測がつけられない状態である。

 それでも、宴は進み、一同、殊に多くの杯を重ねた李克用は、かなり酔った様子である。

「朱全忠殿、今宵は大分、馳走になりました。私はこれで、失礼つかまつりまする」

 朱全忠は言った。

「これ、そこの者達、李克用殿をお部屋まで、案内して差し上げよ」

 李克用は、数人の女性と、李克用自身の部下に付き添われて、宴席を出て行った。

朱全忠は、李克用が出て行った後をしばらく睨んでいた。その目には、無論、怒りがこもっていた。李克用の宴席での発言がよほどに怒りの火種となったらしい。ゴロツキ上がりの性格ゆえであろうか。

 朱全忠は口を開いた。

「わしは、あやつを殺したい」

 将の一人が言った。

「しかし、李克用殿は強力な鴉軍を有しております。唐朝の権威は地に落ち、群雄割拠が明らかになりつつある今は、しばし、堪えられ、強い者とは敵するよりも、味方にする方が得では」

「うるさい。わしは侮辱されるのが大嫌いだ。我慢ならぬ」

 最早、朱全忠の怒りは抑えられないもののようであった。

 寧二は思った。

「この男は、常に自分中心、自分が礼賛されねば、何事も気がすまぬらしい。しかし、李克用を殺したい、というなら、それも良かろう。先程も思ったように、鴉軍の動きがとまり、少しは天下の状況も良くはなるやもしれぬ。勿論、その逆もありだが」

 未来は、誰にも見えないのである。

 朱全忠は、宴を警護していた兵を集めると、言った、

「李克用の奴は、今頃は部屋で酩酊しているはずだ。今宵、寝込みを襲って、彼奴を殺せ」


13―3 一瞬の隙

 

 朱全忠が思った通り、李克用は朱全忠からあてがわれた場所で酩酊し、寝息をかいていた。

 李克用の部下には、然程、酒の進まぬ者もいた。酒の飲める、飲めないは、いつの時代にも、個人差があるようである。

 外で話し声がする。何か、赤いものが見えた。警護の兵の松明だろうか。

 次の瞬間、赤いもの、即ち、松明が投げ込まれ、一瞬、部屋が明るくなった。何者かの襲撃である。彼は、そばの木桶にあった水を李克用にぶっかけた。

「将軍、起きてください!何者かの襲撃です」

 李克用は、急に冷水をかけられて、目を覚ました。

「何、何だと」

 敵が窓を蹴破って、侵入して来た。しかし、李克用は流石に戦慣れした猛将である。侵入者の二、三人を斬り伏せると外に飛び出し、部下と共に馬を駆って、雷雨の中、難を逃れた。

 部下の一人が言った。

「将軍、危ういところでしたな。おそらくは、宴席での将軍の発言に怒った朱全忠の仕業でしょう」

 李克用は言った。

「朱全忠め、よくもこのわしを謀りおったな。この借りはかならず返させてもらうぞ」

 他の部下が言った。

「宴席での将軍の発言に、朱全忠は相当な怒りのようでしたが」

 李克用は言った。

「裏切り者が何を言うか。他人の心を宴のような小細工でつかもうとし、失敗すれば、寝込みを襲うような真似をしおって」

 李克用は一本気な男のようであった。しかし、彼とて、占領し、根城としている山西一帯で、群雄の一つとして、民衆にかなりの苦しみを与えているのは、朱全忠と変わらぬのだが。

 とにかく、この一件を境に、朱全忠と李克用は不倶戴天の敵となったのであった。朱全忠は一瞬の隙で獲物を逃したのであり、李克用は一瞬の隙で危機を脱したのであった。

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