第8話 従軍南征

8―1 宴


 「どうした、さあ飲め」

 先輩軍師の李振が酒を勧めた。

 「は、頂戴します」

 寧二は、酒杯に口をつけた。朱温の幕舎内での、宴席である。

朱温の軍勢の中で主に謀議を担当している李振は、西域の出身らしい。言葉にも、寧二の出身地域とは違う訛りのようなものが感じられた。科挙の落第受験生ということでは、寧二と似た身分であった。

 寧二等の軍勢は、遠く、福建まで来ていた。宴がなされるのは、朱温の軍勢においては、これまでにもあったことである。朱温は自軍内で、武将のような武官、さらに、李振や寧二のような文官的な役割を果たしうる者を集め、饗すこと等をも通して自軍の強化を図っていた。

 黄巣が華北方面で決起してから、既に三年の歳月が過ぎ、時は、僖宗乾符五年(八七八年)十一月となっていた。寧二も乱に参加してから、既に数年が経っていた。彼も既に二一歳、反乱の軍勢と共に、各地を回り、場数を踏んだせいか、単なる書生崩れではなく、精悍な顔つきの青年に変わっていた。寧二が朱温の下に、改めて軍師として参内した時も、朱温は酒を楽しんでいた。酒を楽しみながらの集団でありながら、唐朝軍に壊滅させられなかったのは、唐朝軍の藩鎮の兵もまた、傭兵であり、彼等の生活を脅かさなければ、大きな戦いにはならないからである。そうした状況であるから、唐朝軍の兵も士気は低い。

 黄巣等、反乱側の軍勢が、まず最初に突破すべき最初の関門は東西に走り、華北と華中を分断している淮河を渡河することであったことは言うまでもない。しかし、そこを突破するのに苦労はなかった。士気の低い唐朝軍は、淮河を天然の要害として、応戦することに意欲を持たなかったからである。軍そのものに、戦意がなければ、要害は要害としての用を成さない。

 寧二の加わる朱温の軍勢をはじめ、王仙芝、黄巣の軍勢は村々を襲い、略奪したものの、村人達には、可能であれば、食料を分配する等した。華北で決起した王仙芝、黄巣の軍としては、住民からの支持こそが、大きな力の源泉であった。住民を藩鎮等、唐朝側に追いやらねば、食料の調達、補給等は容易になり、又、兵力の補充も期待できる。最早、唐朝は死に体になりかけているのである。村々の住民とて、大半、唐朝には未練を持っていないだろう。

 それでも、華北という異郷の地から来た反乱の軍勢は怖いであろう。中華の大地は、今は、唐朝によって治められているものの、始皇帝による統一以来、古くから、各地の話し言葉は様々に違っていた。故に、漢字という表意文字によって、互いの意思疎通がなされて来たのである。

 そういう状況においては、文字の読み書きができる寧二等、ある種の知識人は貴重な存在であった。行く先々で、自分らの身分を明かし、文字の読める層に対し、協力を文書の作成によって、呼びかけることができたからである。

 殊に、地主層に対し、「協力」を呼びかけることによって、蔵の中の食料等を放出させ、自軍の食料として、調達すると共に、住民への分配として、放出させるわけである。金銀珠玉は、住民以外にも、闇塩商人にも分け与え、生活必需品としての塩との交換、彼等を利用した情報収集に利用するわけである。これまでの戦は「戦」というよりは、破産した農民を中心とした民衆の生活を求める旅、といった方が適切な表現かもしれなかった。しかし、食を求めること自体が、戦というべき状況である。その意味で、「戦」という表現も間違ってはないだろう。

 道端には、寧二等が乱の参上の途中で見た飢えた人々が大勢いた。自分の村では食べていけない、かと言って、別の村に入るわけにも行かない。いつぞや、浩士が言っていた逃戸のような人々である。そうした人々は、行き場がない以上、通りかかった王仙芝、黄巣等の反乱軍に加わるしか、行き場はなかった。現在、人々の苦しみは、極めてひどい。地方を移動するに連れて、行動範囲が拡がった分、苦しむ民衆との接触も拡がって行き、反乱軍の軍勢が、益々、食を求めて、各地方を歩き、さらなる勢力拡大、という状況を生み出していた。

 寧二は、そんな中、地主等に対する食料供出を命ずる文書を作成していた。勿論、実質的には、各隊の兵による脅しつけである。しかし、食料調達は、現場の兵も望むところであり、文書の内容は理解できなくても、軍勢の上層部との意思疎通はできていたようであった。そうした文書を作成する係りとしての寧二は、軍師というよりも書記のような存在であった。食料調達に必要文書を作成してくれる寧二は、朱温にとっては、重宝すべき不可欠な存在の一員であった。

 華中に入ると、華北とは違い、白い漆喰塗りの白壁の家々が目立つようになった。こうした風景からも、異郷に入ったことが自覚させられた。当然、軍勢の中には、言葉の通じない者も、多数入って来た。各隊の長と兵が、それぞれ私兵関係であるということは、今日でも、乱の当初と変わらないというよりも、各地域の地域性が加わったことによって、その性格は、さらに強まったように思われた。それらは寧二等にとって、軍の統制にとって、大きな問題であった。

 しかし、朱温は、軍勢内の有力武将を集めて、宴を開き、又、場合によっては、略奪した金銀珠玉等を与える事によって、彼等を懐柔し、軍勢をまとめあげているようであった。いつぞや、寧二等が朱温に献上のために持参したした金銀珠玉も、誰か、有力武将の褒美等になっているかもしれない。

 あの時、朱温が、寧二の持ち込んだ品に強い関心を示したのも、必ずしも、その品を我がものにしたいからではなく、配下の武将の心をつなぎとめておく有益な道具と思ったからかもしれない。朱温は、ゴロツキ上がりにも関わらず、否、それ故に、組織内の人心掌握術を心得ているのかもしれなかった。

 そんなことを考えつつ、酒杯を空にした寧二ではあったが、更にもう一杯、酒を所望した。給仕役の少女が、酒杯に酒を注いでくれた。彼女も何処かで食い詰めて、親に売られたのかもしれないし、さらわれて来たのかもしれない。素性は分からぬが、どういう原因であっても、ありうることである。好色者の朱温が、集めた者かもしれない。

 寧二は、再び酒杯を口にしながら、乱に加わり、朱温の麾下になった、これまでを思い返していた。

 軍勢は、街々の付近をも通ったものの、陥せない街も多い。生活拠点としての都市は言うまでもなく、多くの住民が居住しているのみならず、藩鎮の拠点でもあろうから、その確保は、兵や節度使にとっても、死活問題である。城壁は、それ故に、防御施設として生きていると言えよう。しかし、淮河の時同様、長江を渡河するのや簡単だった。三国時代、赤壁では、魏、呉両軍の激戦が展開されたのであったが、今、唐朝軍に然程の戦意がない以上、長江は要害としての意味をなさなかった。そして、寧二等の軍勢は、福建まで来たのである。そして、この五月、決起以来、黄巣と並ぶ総大将たる王仙芝が戦死していた。王仙芝の戦死は、黄巣が自軍にその兵達を吸収することによって、黄巣の軍勢の更なる拡大につながった。


8―2 予測


「なあ、寧二」

 宴に加わっている曹という武将が寧二に話しかけた。

「はい、なんでしょう」

「お前は若いのに、朱温様の下に置いていただけるとは、早い出世だな」

 寧二は、なんと答えて良いのか分からず、とりあえず、礼だけを述べた。

 曹は続けた。

「黄巣様と一緒に旗揚げした王仙芝様が今年の夏に唐朝軍に斬られ、戦死したんだ。そなた、知っているだろう」

 勿論、寧二も知っていた。

「ええ、残念でした。総大将様が一人、亡くなられてしまいましたね」

 曹は言った。

「うむ。王仙芝軍は、江陵で虐殺と略奪を大々的に行い、それで民心を失ったらしい。そこを唐朝軍に討たれたそうだ」

 住民を敵に回しては、彼等の戦は戦えないはずだった。寧二は、王仙芝がどのような人物かは知らない。同じく総大将の黄巣と共に決起した等の話を聞いたくらいである。

 曹はさらに続けた。

「ある時、王仙芝様は、唐朝側から官位を授けられる、という話を聞いて、唐朝側に帰順しようとしたらしい。黄巣様は、それに怒って、王仙芝様をぶん殴ったらしい」

 国中が、藩鎮に分割されながら、なおも唐朝の権威は生きているらしかった。正直に言えば、寧二とて、母がうるさいと思いつつ、科挙に合格して村の誉れと言われてみたい気持ちも、あったのである。その意味では、王仙芝の気持ちも分からないではなかった。

「結局は、唐朝側が沙陀族の騎兵軍で攻め入るという噂も流れ、とにかく江陵の街で、相当なことをしてしまったらしい」

と、曹は続けた。 

 寧二は思った。

「江陵とて、城壁のある城市の一つのはずだ。城壁に囲まれているのだから、守るには堅い面もあったのではないか。そこで民心を上手く掴み、戦の拠点にできれば、唐朝軍相手に有利に戦えたのかもしれない。それなのに、相当なことをしてしまったとはどういうことなのか。最初から、民心を掴めなかったのだろうか。そうだとしたら、何が原因か」

 寧二は更に考えた。

「食料補給が上手くいかなかったのか、あるいは、元より上手くいくはずのない食料調達が原因で、軍勢の維持のために、市民等への暴行略奪となってしまい、市民を敵に回した挙句、唐朝軍に討たれてしまったのか」

 とにかく、王仙芝は敗北し、唐朝軍に斬られたしまった。一つ間違えば、寧二等の明日の姿である。軍の統制、食料調達、何れも看過できない重要な問題である。寧二は、さらに酒杯を口にし、つまみの牛肉片を口にした。

 寧二は言った。

「我々の軍勢はどのように動くべきでしょうか」

 曹は答えた。

「うむ、総大将の黄巣様からの連絡を待たねばなるまい。軍勢としては、根拠地を確保せねばなるまいが」

 いかにも、その通りではある。しかし、華北、華中では人が飢えをはじめ、経済的に厳しい状況が続いているのは、見て来た通りである。経済力を確保したくば、必然的に華南に向かうべきであろう。寧二は、

「恐れ入りますが、酔い冷ましのために外に出させていただきます」

と一言、断ると、幕舎の外に出た。海沿いの福建は、郷里の華北等とは大分違い、沿岸などでは、潮の匂いもする。事実、軍勢は、南下を続け、華南に近づきつつあった。寧二が乱に参加してから南下を続けていた。

 寧二が、幕舎の外で、酔いを冷ましていると、伝令がやって来た。息せき切っている様子で、幕舎の中に入って行った。何かが起こっていることは、寧二にも直ぐに分かった。そう思うと、酔いも一瞬でかなり冷めた。寧二は直ぐに幕舎に戻った。

 大将の朱温に向かって、伝令は言った。

「申し上げます」

「うむ、何用か」

 伝令は告げた。

「総大将の黄巣様より、全軍勢を移動すべし、との命にございます」

 朱温は重ねて問うた。

「して、我らは、どこを目指すか」

 伝令は重ねて告げた。

「広州にございます」

 朱温は答えた。

「心得た。我が軍も命に従う、と総大将の黄巣様に伝えよ」

「はっ!」

 伝令は答えると、幕舎を出た。朱温は皆に言った。

「今、聞いての通りだ。皆の者、各自の隊に戻って、広州攻略の準備を致せ。我が軍勢は、総大将様からの命を受け次第、広州攻略に向けて進発する」

命を受けた部将達は、続々と幕舎を出始めた。

 朱温は言った。

「広州攻略が今から楽しみだ」

 寧二は、側で思った。

「今から楽しみか。権力を欲するこの朱温にしてみれば、そうかもしれん」

 寧二は、広州は様々な外国商人と交易のある豊かな街だと闇塩商人等が語っていたのを聞いている。彼らのつながりは広いようであった。異郷、というより異人の街に入って行くかのようである。郷里の大地主・呉の屋敷内には、村人から搾取した金で購入した異国の珍奇なものが置かれている、と聞いたことがある。広州方面からの物もあったのかもしれない。しかし、それらは、寧二自身にとっては、無縁のものだった。浩士や炎、あるいは呂にとっても、状況は同じであろう。華北からの古参の武将にとっても、事情は同じであろう。

 広州へ向かう前に、一つ、寧二は、気がかりなことがあった。軍勢が華南の風土に慣れていないことである。寧二は既に、華中で長江あたりに差し掛かった時、華北との違った風土に違和感を覚え、少々の発熱、倦怠感を自身が感じることがあった。兵達にも、同じような状態になったものは少なくないであろう。三国時代、曹操軍が赤壁の戦いにおいて、船揺れによる酔いに加えて、地元の風土病とも言うべき疫病にかかったことが、この戦いでの曹操軍の敗因の一つであったと言われている。

 これまでにも、各隊では、動けなくなった者は見捨てる等しても来た。それが軍勢の崩壊に繋がる数字にならなければ良いのだが、という懸念があった。そこには、兵を文字通り、兵員、兵力として、冷徹に計算する視点があったのであり、出奔当初の友情的な周囲とのつながりは着実に薄れつつあるようであった。寧二も、「公正な態度」に徐々に染められているようであった。

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