第7話 朱温


7―1 初対面


 数日して、寧二は、浩士の分隊を伴って、朱温の陣に向かった。今日は、寧二は厳から与えられた馬に乗っており、浩士を含めた分隊の兵を少数とは言え、引き連れていることで、ある意味での出世とも言えるかもしれない。寧二の馬の脇を行く浩士が馬上の寧二に話しかけた。

「なあ、寧二」

「何だ、浩士」

 浩士は切り出した。

「聞く所によるとな、これは以前、炎と一緒に、呂から聞いたのだが、大将の朱温様は、昔、よく笞で打ち据えられて、ひどい目に遭っていたそうだ」

「ふむ、して」

 浩士は続ける。

「打ち据えられると、怒りは感じるし、忍耐は切れそうになるよな」

 寧二は返した。

「何が言いたんだ」

「打ち据えられたから、鍛えられて、軍勢の大将になれたのだろうか。こんな世の中じゃ、荒くれの方が生き易いだろうしな」

 寧二は思った。確かにそうかもしれない。国中がある種の戦場となってしまえば、最も求められるのは、武力という力である。先日、蘇の屋敷を襲って、食料調達ができたのも、武力の使用によるものであったし、こんな時代に、科挙が何の力になるのか、と考え、出奔してきたのも、寧二自身の事実だった。

 寧二は言った。 

「朱温様は、どんな方なのだろうか。厳隊長によれば、厳しい方とも聞いていた。それに、厳隊長は恥をかくな、とも言っていた」

 浩士は言った。

「どうすべきかな」

「まあ、とにかく、会ってみなくては分からんところもあるだろう」

とにかく、寧二等一行は、朱温に気に入られねばならない。その目的を達成せねばならないのである。間もなく、一行は、朱温の陣の前に着いた。

「何奴、何用か!」

 寧二は馬を降りて答えた。

「私ども、厳重三の小隊の配下の者にございます。私は、李寧二、この者は我が小隊内の分隊の長、張浩士にございます」

 それを聞くと、歩哨は続けた。

「して、何故、我が陣に参られた」

 寧二は続けた。

「お届け物がございます。大将の朱温様にお目通りしたく、まかりこし申した旨、お伝えください」

 陣内の兵が答えた。

「しばし、待たれよ」

 兵はそう言って、陣内の大将のそれらしい幕舎に戻って行った。

かつて、寧二や浩士、そして、炎が乱に参加した時に似た光景だった。但し、今度は、黄巣の軍の一員として、動いているところが違うのである。間もなく、取次に行った兵が戻って来た。

「李寧二等、入られよ。朱温様がお待ちだ」

 寧二は礼を言った。

「お取り次ぎありがとうございます」

 兵に連れられ、寧二と浩士は、朱温が待っているという幕舎に入った。

 幕舎に入ると、立派な甲冑を背後に置いた男が座っていた。

「うむ、そなた達が李寧二と張浩士か。座れ」

 寧二と浩士は、勧めに従い、椅子に座った。

 この男が、初めて見る朱温である。何となく、ゴロツキ上がり、といった感じの男である。斬る時は斬る、と言ったものの、何となく知的な感じを併せ持つ厳とは、異なる感じである。その朱温が言った。

「して、此度は何用か」

「はい、大将の朱温様にお持ちしたものがございます」

 朱温は興味を持ったらしく、続けた。

「ほう、して、何の品か」

「はい、只今」

 寧二は、浩士と兵等に持たせていた大きな箱の蓋を開いた。

朱温は、身を乗り出し、強い興味を示した。

「ふむ、これは金銀珠玉の類か」

 寧二は答えた。

「我が小隊の食料調達の際、蘇という地主の屋敷を攻め、その際、手に入れたものでございます」

 朱温は言った。

「これらの品をわしに献上するというのだな」

「左様にございます」

 朱温は続けた。

「うむ、遠慮なく、馳走になろう」

そう言うと、自身の背後に控えていた自身の兵等に箱の蓋を閉じさせ、片付けさせた。

 自分の得するものを手に入れることには、目が無い男のようである。流石はゴロツキ上がりのようである。

 さらに、朱温は言った。

「して、女はどうだ。調達はできていないか」

 寧二が答えた。

「申し訳ありません。食料の調達等で精一杯でございましたので、女の方は、恐れながら、余裕がなく、手に入りませんでした」

 朱温は、不満そうに言った。

「それは残念だ」

 物欲に目がないことに加えて、かなりの恥知らずな好色家らしい。

 朱温は続けた。

「して、食料調達に成功したということだが、食は、行軍と軍営の基本だ。寧二、そなた、我軍全体を食わすための良き策は有るか」

 まだ、小隊の軍師でしかなく、若造である寧二にとって、そのようなことを考えるのは難しかった。朱温の軍勢は、寧二の小隊をも含めて、何千の兵力であろう。策を考えるのは難しいが、かと言って、策がなければ、軍勢が瓦解してしまうのは明らかであった。寧二等も行き場がなくなってしまうという、一貫する問題であった。しかし、やはり、良い策は浮かばない。

「申し訳ありません。良策は思い浮かびませぬ」

 朱温は答えた。

「うむ、厳の下で、蘇の屋敷を襲った際、闇塩商人の力を借りていたであろう。黄巣様の下に加わった我等は、闇塩商人のつながりを軍勢にも組み入れている。彼等の実力は大きい。我々の力だ」

 寧二も、勿論、そのことは承知している。朱温はさらに続けた。

「して、寧二、そなたの食料調達は、上手く功を奏したようだな。我が軍勢には李振なる軍師がおり、謀議を担っているが、そなたも、わしの軍師として、我が軍勢全体の食料調達などを担当する軍師になってみる気はないか。いや、なれ。我が軍勢の生存のためにもなれ」

 そこには、有無を言わさぬ響きがあった。全く、武力あるいは暴力を背景にしたような言い方であり、ゴロツキ上がりを象徴するような、かなりの威圧感があった。あるいは、それ故、先程の道中で話したように、武力が重視される時代に、一軍の将になれたのかもしれない。

 寧二は、断れば、斬られるかもしれず、拒否はできまい、と思いつつ、言った。

「かしこまりました。但し、朱温様、厳隊長や、この者等についての処置もございますので、一度、我が小隊の陣に戻ることをお許し願えますでしょうか」

 朱温は答えた。

「よかろう。但し、早めに戻れ。知ってのとおり、我が軍勢は、淮河を渡り、華中に入る予定だ」

「かしこまりました」

 寧二と浩士は幕舎を出て、兵達を連れて、陣を出、自分たちの小隊の陣への帰路に着いた。

 帰路、浩士が馬上の寧二に問うた。

「寧二、あの朱温の軍師になるのか」

「仕方がない。上からの命令だからな」

 浩士は内心、思った。俺と寧二と炎の三人で反乱に参加したのに、お前だけが出世しやがる。俺達農民は、どこまでも下っ端のままだ。俺の祖先は逃戸だった。今の時代だって、家は貧しい。なんで、民草というのは、殊に農民は、いつも割に合わない目にばかり遭うのか。反乱側においてさえ、書生崩れが得をする始末だ。

 寧二は、浩士が内心、どのように思っていたかを察したかどうかは分からない。しかし、彼もまた内心、ほぼ同時に思うことがあった。

 浩士よ、お前や炎や、小隊の仲間達とは別れることになるが、友人だった俺が、小隊に残れば、お前等とは上下関係が露骨になってしまう。俺に上の者として命令されるのは、必ずしも、愉快ではないだろうし、それが続いたら、俺も辛い。しかし、隊を公平に動かそうとすれば、そうならざるを得ない。だから、俺と皆は出来るだけ、距離を置いたほうが良いと思う。

 二人はそんなことを考えながら、厳の待つ小隊の陣に戻った。


7―2 別れ


 寧二は、浩士と分かれると、そのまま、厳の幕舎に向かった。無論、朱温との話を厳に伝えねばならないからである。幕舎に入って、寧二は厳に言った。

「李寧二、戻りました」

「うむ、ご苦労。して、朱温様の態度は如何なものか」

「はい、朱温様は、金銀珠玉を受け取ってくださいました」

 厳は問うた。

「して、朱温様は、我が小隊について、何か仰せか」

 寧二は答えた。

「実は、朱温様は、私を自身の軍師にしたい、と仰せでした」

 そう言って、これは、朱温自らの命である、という響きがあったことも伝えた。

それを聞くと、厳は

「うむ」

と一言発して、黙り込んだ。

 厳としては、他の小隊との競争上、自らの小隊の朱温との関係を良好なものにしたい、と考えていたのでった。朱温にしてみれば、厳の小隊は、軍勢の中の一小隊でしかなかった。兵は沢山、集めうる以上、単なる使い捨ての駒にされる可能性は明らかであった。実際、厳の小隊は、唐朝軍との大きな戦がなかったから、生き延びてきたようなものであった。先般の蘇の屋敷の襲撃だって、小規模な戦いを、闇塩商人の協力を得て、成功したのである。食い詰めることは避けねばならない、という現実の要請による戦いであった。

 故に、軍勢全体が食い詰めたら、唐朝側の藩鎮の支配権をも侵す形での大きな戦になるかもしれない。その時は、軍勢の誰もが飢えていよう。朱温は、自身に必要と思う隊を優先し、あまり重視しない隊は切り捨てるであろう。戦の状況次第では、自隊がそうならない、という保証はなかった。だからこそ、先般、入手した金銀珠玉を朱温に献上したのである。どうも、献上が奏功したかどうかは分からない状態である。

厳は、先程から寧二が立ったままであったことに気づき、椅子にかけるように促した。

 寧二が椅子に座るのを見て、厳は口を開いた。

「して、そなた、朱温様の下に参るのか」

「はい、隊長殿がお許しくださるならば」

 厳は言った。

「うむ、大将の命とあれば、仕方あるまい。行って良い」

 こう言いつつ、厳は自隊の今後に不安も覚えたが、今、朱温の命を拒めば、誅殺されるやもしれなかった。そう思えば、命に従う他に、道はなかった。

 寧二は、厳にこれまでのことについて礼を言うと、二、三日中に、朱温の下に向かうことを告げて、幕舎を出た。

 幕舎を出た寧二は、浩士や炎、あるいは呂といった皆の所に向かった。特に、今日、朱温の陣に同行した者は疲れているのか、座って休んでいる者も多い。寧二は皆に声をかけた。

「休み中に、皆、すまない。話があるんだ」

 皆、一斉に寧二の方を見た。但し、あまり驚きの表情でもなかった。浩士とその配下の兵等は、その内容を知っていたであろうし、それ以外の者も、浩士から話を聞いて、既に知っているのかもしれない。寧二は話した。

「これまで、皆、お疲れ様。俺はここ数日中に、この隊を離れて大将の朱温様の下につく軍師になることになった。もう少しで、皆ともお別れになる」

 兵の一人が言った。

「結局、書生とかばかりが、出世するよな。俺達のような百姓風情は、いつも、下っ端のままだぜ」

 この言葉は、おそらく皆の声だろう。朱温の陣からの帰路、同じように心中で言っていた浩士も、今また、心中、この言葉を繰り返していた。

「みんな済まない。しかし、今は、我々は軍勢という組織の中だ。ここは堪えてくれないか」

 そのように言いつつも、やはり、寧二は、皆との距離が近ければ、ある種の友情が、軍師と兵という冷たい上下関係に変わって行かざるを得ないことを思っていた。但し、それを口にすれば、「出世」を正当化する口実と思われかねないだろう。

 そう思っている時、炎が口を開いた。

「寧二、お前、酒はやれるか」

「うむ、できる方だ」

「じゃ、今夜一杯、どうだ。当分の間、俺達はお別れだし」

 兵達からは、

「それは良い」

という意見が口々に上がった。

 寧二は言った。

「皆、有難う。しかし、小隊を上げて、となると、隊の任務のこともあるから、まずいだろう」

 寧二は、こういう点ではしっかり者のようでもあった。科挙が嫌で出奔してきたとはいえ、父なき後、李家を守って来たことから、そうした姿勢が身についていたのだろうか。それに、酒に酔っての喧嘩等も好きではない。酔った勢いで、「出世」を責め立てられた場合、一人で対処できるとも思えなかった。そうなれば、それこそ、厳に斬ってもらわねばならないかもしれない。それでは、余りにも不快である。

「ここで、一杯だけにしよう」

 そう言って、二五人の中で、酒の飲める者達と、杯を交わした。これは別れの杯ではあるが、同時に、兵達にとっても、久しぶりの酒宴の楽しみであった。

 寧二は、父を亡くして以来、家で楽しかったことは殆どなかった。もし、将来的に、寧二が科挙に合格すれば、母はそのことを祝い、少しは良き思い出になったかもしれない。あるいは、中小地主として、その経営を上手くすれば、同じようになったかもしれない。しかし、科挙の勉強にこれ以上、苦しみくはなかったし、地主として成功する自信も然程なかった。地主として成功しようとすれば、浩士のような小作農と、時には友情関係ではなく、地主と小作という冷たい上下関係が生まれるであろう。寧二は、そのような関係になることを望まず、そうした「大人の論理」に反発していた。

 しかし、今、この軍勢の中で、同様な「論理」に動かされている自分がいることも明らかであった。浩士等と、露骨な上下関係になる前に、距離を置けるようになったのは、せめてもの幸いであった。

 寧二は言った。

「皆、有難う。本当に今まで、よくついてきてくれた。礼を言わねばならないな」

 浩士が言った。

「まあ何、良いってことさ。お前、村では頭の良い方であったものな。頭の良い奴と俺みたいな百姓風情じゃ、立場が違うものな」

 浩士のこの言葉は、朱温の陣からの帰路に内心思っていたものが、口をついて出たものであった。その裏側には、百姓風情の民草には、所詮、這い上がる道などない、というあきらめの気持ちもあったのかもしれない。

 いずれにせよ、軍勢の長であれ、地主であれ、あるいは、平時の科挙合格者であれ、いずれも強者であり、それらの強者の論理に、浩士もまた、振り回されてきたと言えた。勿論、炎も同様であり、呂や、その他の兵達も同じであろう。

 寧二は、久しぶりに飲んだ酒で、顔が火照り、腹が熱くなった。そもそも、科挙受験生の身分たる彼に、母が飲酒をも許さなかったのである。勿論、お忍びで、浩士等と飲み、また、お相伴したこともあるにはあったが。

 酒を飲むと、寧二も、何となく、良い気分になり、気持ちが大きくなる。しかし、

「一杯だけにしよう」

と言ったのは、ほかならぬ寧二であり、酒の楽しみの足しになりそうなものなど、ありそうにもなかった。貴重な食料をこんな時に浪費するのもまずいし、浪費すれば、それこそ、厳に斬られるかもしれなかった。女の楽しみなどないことは言うまでもない。それは、朱温との面会の時の言葉にも明らかだった。

 淮河を渡って南下する時が、迫っているはずである。そこを渡れば、最早、華中である。軍勢の論理、とでも言うべき強者の論理、あるいは、世の中のこれからの推移という歯車がどのように、寧二をはじめ、皆を回す事になるかは、誰にも予測のつかないことであった。さらに、寧二にとっては、朱温というゴロツキ上がりの下で、自分には今後、どのような未来が待つのか、出世したとはいえ、心中、霧のような不安があった。反乱に身を投じた時から、朱温の「厳しさ」については聞いていたものの、今回、実際に会ってみて、その「厳しさ」の実態がある程度、分かった感じがした。

 しかし、漠たる不安があるとはいえ、朱温の下に行く以外、道のない寧二であった。

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