第5話 軍勢、動く

5―1 編成


 浩士と炎が、呂から酒をもらってから、数日が経っていた。強い酒ではあったが、酔いも覚め、酒は身体から抜けていた。

 近く、軍勢は南に向けて、進軍を開始するとのことだった。そんな噂が、陣内、または隊内でも聞こえていた。特定の地域にて停止することは、軍勢、ことに反乱軍にとっては必ずしも有利なことではない。膨れ上がった軍勢の食料調達のためには、新たな食料源等を確保せねばならなかった。

 一週間から十日程経過していただろうか、隊長の厳と話し込んでいて、浩士や炎と共に起居することのなかった寧二であるが、その日、久し振りに生活を共にしていた。浩士が言った。

「俺達の隊の食料は保てるのか。このままでは、飢えてしまうという噂もあるようだが」

 炎も続けた。

「うむ。我々は、唐朝の支配からは逃れて来たが、このままでは、唐朝の支配下で飢えていたのと変わらなくなる。この前、酒にありつけたのは嬉しかったが、あのような楽しみ以前に軍勢に必要なのは、食料だ。寧二、お前、軍師として、どのように思っているんだ」

 寧二は言った。

「俺も同じ意見だ。しかし、俺はまだ軍勢を動かす立場にいるのではない。厳隊長の命を待っているだけの存在だ。厳隊長は、朱温様を通して、総大将の黄巣様の命を受けるのを待っているのだろう」

 この言葉に、浩士が言った。

「俺の持っている武器といえば、鍬だけだ。唐朝の軍と衝突した時、戦えるのか不安だ。甲冑も無いし」

 炎が答えた。

「それは皆、同じだ。俺も藩鎮を抜け出す時、甲冑は捨てて来た。武器も、この剣一本だ。それでも、給与が遅配、欠配の藩鎮よりは良いかもしれん」

 こう言いつつも、人間関係が悪くなれば、またも、藩鎮時代と同じになるかもしれないことであった。今は、同じような境遇の者同士でいて、しかも、寧二が隊長に取り立てられているので、隊内の人間関係は、炎や浩士にも有利なのかもしれなかった。そこへ、ある兵が来て、話しかけた。

「寧二、厳隊長がお前を呼んでいる」

「分かった」

 寧二は簡単に答えると、炎や浩士と別れて、厳の待つ幕舎に向かった。幕舎に入り、厳と目が合うと、寧二は言った。

「お呼びでしょうか」

「うむ、まあ座れ」

 寧二はテーブルを挟んで、厳と向かい合って座った。

「朱温様からの命が下った。近いうちに、我隊も軍勢の一員として、南下する」

 厳の言葉に、寧二は聞き返した。

「何処に向かいますか」

 厳は言った。

「それは今はわからん。但し、今の場所にいても軍勢は保てん、ということで、総大将の黄巣様や朱温様の一致した意見のようだ。食料源を求めて南下し、淮河も超えることになるだろう」

 淮河、という言葉を聞いて、寧二はいよいよ、現実に軍勢の一員として、動かねばならないことを悟った。淮河は、北の黄河、南の長江と並び、中国の大河の一つである。それは、河北、山東等の華北一帯と華中を区分する存在であった。淮河を超えれば、そこは最早、異郷であろう。いよいよ、自分の郷里を離れなくてはならない。それは唐朝の地元での支配を離れると同時に、母や妹の玉花とも音信不通になること、つまり、家族としてのほぼ完全な断絶であった。

 そんなことを心中、思う寧二に厳は続けた。

「して、そなた、どのように動くべきと思う」

「軍勢をもう少し、この土地に留めることはできませぬか」

 寧二は思わず言った。寧二の心中には、片隅にまだ家族のことがあったのかもしれない。

「いや、この場所には留まれない。これは上からの命だ。逆らえば、朱温様にことごとく誅殺されるやもしれぬ」

 「誅殺」という言葉に、寧二は、唐朝の支配から逃れても、また、別の支配構造の中にあることを自覚せざるを得なかった。唐朝とは縁を切ったものの、そこに戻ることもできないのは言うまでもない。寧二は言った。

「とにかく、我が隊の強化に努めましょう。軍力が増せば、唐朝軍とて、そう簡単に手出しはできないでしょう。古えの三国時代もそうでした。今の世とて、そう変わりはないと思います」

 厳は寧二の意見に同意した。

「うむ、わしもそう思っていた。唐朝の世は乱れておる。上手くすれば、我々に味方する者もどんどん増えよう」

 乱れた世の中で、民衆が飢えに苦しんでいるということは代替の兵になるものはいくらでもいる、ということでもあるが、同時に、上手くすれば、大軍勢の編成も可能なのだ。郷里の家族のことが心配になりつつも、寧二にとっては、自分の力を試しうる、というより、何とか功績を残しうる好機でもあった。隊から見放されないようにするための好機とも言えた。

 そんな寧二に厳は続けた。

 「して、我が隊は五分隊、各五人から成る。近いうちに何かがあることを、各分隊の長に知らせておいてくれ」

「かしこまりました」

「それと各分隊の長を決め直したいなら、そなたが指名しても良い。軍師としてのそなたの権限だ」

「ありがとうございます」

 寧二は初めて、権力というものを授けられた。五分隊を早速、編成し直さねばならない。

 寧二は幕舎を出ると、浩士や炎をはじめとする兵達の方に向かおうとしたが、自分に彼等が従うかどうか、不安があった。そこで、寧二は出際に、厳に問うた。

「皆が従わなければ、どうしますか。私は何せ、落ちこぼれ書生なもので、あまり、自信はありません」

 厳は言った。

「その時は斬れ。俺は実際、逆らった者を斬ったことがある」

 かなり、殺気のある力のこもった言葉である。初対面の時の知的な感じとは異なった一面であった。寧二は理解した。殺る時は殺る人なのだな、それで、小隊とはいえ、まとまっているのであろう。

「では、行ってまいります」

 寧二は自隊の兵達のいる方向に向かって歩いた。そこには、勿論、浩士や炎もいた。

 浩士が声をかけた。

「おう、どうだった」

「うむ、我が小隊を含めて、軍勢は黄巣様の命の下、南に向かって、近々、動き出す。淮河も超えて行くらしい」

 兵達の間に、少し、ざわめきが起こった。兵達も、華北一帯を離れ、他の地域の移するのは初めて、という者が多いに違いない。その兵達に寧二は告げた。

「これから、君達の再編成を行う。これは厳隊長から命ぜられてのことなので、よく従うように」

 そう言って、寧二は二五人の兵を五つの分隊に分け直した。内心、従ってくれるのかと、一抹の不安もあったものの、不満を言う者はいなかった。おそらく、厳に斬られた者の姿を見たものもいるのだろう。その時はどうだったのだろう。首が飛んだのだろうか。身体が割けて、血しぶきが飛んだのだろうか。想像してみるしかないが、寧二にとっては、初めての“戦場の光景”だった。五つの分隊の中で、第一分隊の長を浩士、第二分隊の長を炎とした。出奔して来た時からの仲間をその地位につけた方が意思疎通も容易であろう。今後、兵が増えた時には、第一、第二分隊を中心とすれば、指揮命令もし易いのではないか。さらに、第三分隊の長は呂である。

 浩士と炎は内心、嬉しかった。小作農や藩鎮の兵では、うだつの上がらぬ身分であったが、初めて、ある程度の地位を得たのである。李寧二、張浩士、劉炎の三人は、義兄弟の契りこそできなかったものの、小隊内でそれぞれの地位を得ることで、互の心中の結びつきを強めたかのように思われた。

 寧二は改めて、皆に告げた。

「先にも言ったように、我々は近々、南下する。淮河も超えるだろう。各自、心してもらいたい」

 兵たちは答えた。

「分かった」

 小隊としての南下の準備は整った。寧二は軍師としての本格的な仕事をやり終えた、という第二の関門を突破したようであった。寧二は兵達の氏名を紙に筆で書き残しておいた。文字の読み書きができる彼なりの仕事でもあった。


5―2 南下


 言われていた、軍勢南下の命は、数日して届いた。寧二達のいた陣は解体された。小隊もそれに合わせて、幕舎を解体し、柵を取り壊した。華北の地と別れる時が来たのである。郷里と別れるのが辛くても、軍勢に従わねばならなかった。或は苦しみばかりの郷里から離れられたことに、せいせいしている者もいるかもしれない。軍勢、というよりは、雑多な民衆の集団移動であった。今や、巨大な民衆の集団が、華北の一隅から、淮河の北へと向かいつつあった。

 寧二等の小隊は、厳は馬に乗っているが、他の者は皆、徒歩である。それは、どの隊も皆同じであるらしい。多くの者が徒歩である。彼等を拒むものは、勿論、唐朝が各地に置いた藩鎮の軍である。そして、村々の自警団、あるいは都市の城壁であった。

 淮河に至るまでの行軍の道のりは、数ヶ月ほどかかった。その間の食料は、勿論、現場での調達である。軍が多ければ、まずは補給が大きな問題である。唐朝側の藩鎮軍との衝突は避けたいところである。唐朝の軍はやはりまだ、正規軍ということもあり、装備も黄巣の軍よりも整っているであろう。戦は兵力の多寡だけではないであろうが、藩鎮側も、手を出されなければ、大した衝突にはならないであろう。彼等、藩鎮の兵も、節度使の下にある各将の私兵であり、生活の糧欲しさに藩鎮に入隊したのである。黄巣の軍勢が、河北、山東といった華北一帯で政権を建てなかったのも、藩鎮が、彼等の支配の妨げになることから、黄巣の政権樹立を認めない、という事情があった。

 黄巣の軍と藩鎮の軍は、反乱側と政権側という対称的存在に見えて、ある意味、同じ穴の狢であった。したがって、食料調達は、なるべく、藩鎮と衝突せぬように注意する必要が有り、又、同時に、城壁によって、防護の強いであろう都市を攻めるのは愚策であった。

 都市は城壁に囲まれている。人々の集住する場所であると同時に、交易の場でもあった。

 陥せられれば、利益は大きいものの、だからこそ、城壁で囲まれているのである。

 都市は、人々の生活の拠点であると同時に、防御施設をも兼ねていた。城市、という言葉が正にそれを表していると言えよう。

 寧二は軍師として、心中、そんなことを考えながら、行軍していた。さらに、三国志の時代について、思いを巡らしていた。

 黄巾の乱の時、反乱者たる黄巾軍は、次々に県城を突破し、乱に加わる者も多く、それは漢王朝を揺るがす大乱へと発展していったとされる。勿論、劉備や曹操といった政府側義勇軍によって、最終的には鎮定されるのであるが、我々はどうであろうか。

 県城が小規模都市なら、突破可能かも知れない。しかし、大都市ともなれば難しい。大都市を攻略するともなれば、その攻城戦が膠着状態に陥った場合、食料が尽き、自軍が崩壊する可能性もあろう。そもそも、生活苦が原因で、乱に加わった者が多いのである。例えば、浩士がその一員であったことは言うまでもない。ということで、食料調達は、小城鎮、あるいは村々ということになりそうだった。

 しかし、その村々にも、何らかの形で、有力者がいるであろうことは、自分たちが逃げ出して来た郷里の呉の事例によっても明らかであろう。有力者によって支配されているであろう村々が、素直に、自軍に協力してくれるかどうかは不明である。有力者が唐朝につき、かつ、それが村人等に支持されれば、彼らとの戦闘は避けられないかもしれない。

 そんな時、軍師の寧二には、どんな策を各分隊に授けるべきか。有力者の屋敷等を避けて、一般の小作農等を襲い、略奪すべきか。しかし、それでは、農民達は、有力者の下に結集し、食料調達は益々、困難になる。かと言って、有力者を何らかの形で攻めると、彼等は藩鎮等、唐朝側に助けを求めるかも知れない。又、彼等が、何らかの形で“善政”を敷いていれば、農民等は、やはり、有力者の下に結集する可能性があろう。いずれにしても、難しい選択である。村々の住民自身とて、賊の大軍が来たとなれば、まずは警戒するであろう。

 寧二は、小隊の軍師として、なかなか難しい立場に立たされたようである。やはり、食料調達といえども、先んじて情報を得、分析して、厳隊長等、上層部に進言する必要が有りそうであった。


5―3 野営


 数週間経って、寧二等の小隊を含め、黄巣の軍勢は、ある場所に野営した。夜になれば、かがり火が焚かれる。今までにも繰り返されてきた光景である。食料が無ければ戦えない。又、動けない。他の隊では、村々で暴行略奪を働く者も出て来た、と聞くようになっていた。

 寧二の小隊では、まだ、そんなことにはなってはいなかったが、しかし、このまま食料が調達できねば、やがては同じことである。まずは、どのようにして、情報を収集すべきか。そんなある日、寧二は厳の隊長幕舎に呼び出された。

「お呼びでしょうか」

「うむ、まあ座れ」

 寧二は、何時かのように、テーブルを挟んで、厳と向かい合って座った。

「どうだ、最近は。兵達にも疲れが出ているようだが」

「はい、皆、数週間経って、行軍の疲れが出ているようですが」

 寧二は続けた。

「食料が心配です。我が軍は、後方に補給路もありませんし、他の隊では、暴行略奪等が出始めていると聞いていますが」

 厳は言った。

「うむ。各隊とも食料が不足している。しかし、わしは、いつぞやも話したかもしれぬが、黄巣様の古参の部下でな。実際にお会いして、ある程度、気心が知れておる。人をひきつける魅力のあるお方だ。挙兵の際、我々の小隊がいた陣中には、食料を多めに配分してくださった。しかし、実際には、略奪も起きつつある」

 厳は続けた。

「なので、新規の食料調達が必要なのは、そなたの言ったとおりだ。そなた、良い策はあるか」

 実際、そのことで、寧二も心中、思い悩んでいたのである。そんな心中を分かっているかのように、厳は更に言った。

「まずは情報だ。村々に密偵を放って、内情を探らねばなるまい」

しかし、誰が行くのか。流石に密偵術の心得は寧二にはなく、軍師とは言え、そんな任務を命じられたら、実行不可能である。

 厳は続けた。

「闇塩商人の力を借りよう。人々が塩に困り、闇塩商人を頼っているのは、そなたもわかっての通りだ。闇塩商人を通して、村々の内情を探ることが可能かも知れない」

 人々が闇塩商人に頼っているのは、その通りである。寧二の李家も闇塩商人に頼っていたのは事実だし、今度の乱が闇塩商人のつながりから出てきたことも事実である。

 寧二は言った。

「しかし、闇塩商人等は今、何処に?」

 厳は返した。

「黄巣様に伝令を遣わし、闇塩商人の一部を利用させてもらおう。それから、策を授ける。しばし待て」

「かしこまりました」

 寧二は返答すると、幕舎を出た。今回は、軍師でありながら逆に、隊長に策を授けられる立場となった。寧二等の陣以外にも、各所に他の隊の陣が張られている。他の陣からは、野蛮な笑声が聞こえてくる。略奪した食料等を肴に、一杯やっているのだろうか。それとも、今まで自分等を圧迫して来た唐朝に、一矢報いてやった、という歓喜の声であろうか。はたまた、単なる解放感からのものか。

 寧二も既に、一八を超えている以上、酒の飲めぬ年齢でもなかったが、野蛮な笑声を耳にすると、そうした連中とは馴染めない気がするのである。飛び込んだ隊が、比較的知的な感じの厳重三の小隊で幸運だったようである。厳は硬軟使い分けて、何とか、小隊の統制を保っているようであった。寧二の身分がそれに支えられていることは言うまでもないことであった。

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